2007年1月 2日 (火)

最終講義

 1969年1月18日午後1時半、学習院大学の中央教室(俗称ピラミッド教室)で、学生、卒業生、一般人合わせて約800名の聴衆を相手に、清水幾太郎の最終講義が始まった。講義のテーマは「オーギュスト・コント」。かつて東京帝国大学の社会学科の学生だった清水が卒業論文で扱った「社会学の父」である。

 同じ頃、学習院大学のある目白からは目と鼻の先の東京大学本郷キャンパスでは、安田講堂に立て籠もる全学共闘会議派の学生と警視庁の機動隊との間で激しい攻防戦が展開されていた。1年前の医学部研修医問題に端を発した東大紛争がついに終結のときを迎えようとしていたのだ。

 清水は、自分がコントに惹かれたのは、コントの学説そのものよりもコントの生き方、官僚然とした東京帝国大学の教員たちとは対照的なコントの自由な生き方と考え方に惹かれたためであると述べた後で、こう付け加えた。

私は、最近の東大のことは知りません。加藤代行以下の諸君が何を考えているのか、私は知らないし、あまり興味もない。興味もないが、私がかつて味わった東京帝国大学の非人間的な冷たさと狭さとがどこかに残っているということが、恐らく、反日共系の諸君の行動の一部であろうと考えます。(拍手)(「最終講義」、 1969、著作集11巻、268頁

 清水が最終講義の中で東大紛争に言及した部分はこれだけだったが、数ヶ月後、『諸君』1969年7月号(創刊号)に掲載されたインタビュー「戦後史をどう見るか」の中で、清水は学生の実力行使に一定のプラスの評価を与える発言をしている。

 私たちは、もう、一遍、「もはや戦後ではない」という言葉を思い出す必要がある。敗戦直後には、平和や民主主義という言葉の上に、戦前および戦中の民族的経験の大きな影が射していた。あの窮乏、不安、抑圧からの救済への欲望が、これらの言葉を包んでいた。平和も民主主義も、敗戦という犠牲を払って辛くも手に入れたもの…そういう空気が六〇年安保を燃え立たせもしたし、また、それを民主主義の枠に閉じこめもしたのです。それは貴重なものだったのです。しかし、七〇年となると、もう、どこにも、戦前や戦中と連続する戦後は生きていません。平和にしろ、民主主義にしろ、現在の学生が生まれる以前からあったもので、彼らにとって、それは貴重なものであるよりは、平凡なもの、陳腐なものに過ぎません。それは当たり前のことです。この当たり前のことから生まれた一つの成果は、学生たちの暴力によって初めて大学が多少の改革へ動き出したということではないでしょうか。(「戦後史をどう見るか」、1969、著作集17巻、300-301頁

六〇年安保闘争において、国民ひとりひとりによる請願というソフトな方法からデモ隊の国会乱入というハードな方法まで、一貫して直接行動を提唱し、あるいは支持した清水らしい発言である。

ところで、学習院大学の教員の定年は70歳であるが、当時、清水は61歳6ヵ月、定年まではあと9年を残しての退職であった。その理由についてマスコミはあれこれ詮索したが、最終講義の終わり近くで清水が語った理由は次のようなものである。

私は、講義を一生懸命にやるたちであります。ところが、一生懸命にやっても、最近は、どうも、後味が悪いのです。もう少し立派な講義が出来る筈だという気持が残るのであります。今日の最終講義もソロソロ終わるのですが、やはり、後味がよくありません。そういう状態で講義を続けることは、私自身の精神衛生にとっても良くありませんし、諸君にとっても良いことではありません。この辺でわが家の古い書斎へ戻ろうと思うのであります。家庭には、カロリーヌ・マッサンでもなく、クロディル・ド・ヴォーでもなく、清水慶子がおります。(拍手、笑声)(「最終講義」、著作集11巻、292-293頁

 コントの妻と愛人の名前の後に評論家としも知られる自分の妻の名前をあげて聴衆の拍手と笑いを誘ってはいるが、実は、清水がここで述べていることは、聴衆の多くを占める学生にとっては耳の痛い話なのである。一生懸命に講義をしても「最近は、どうも、後味が悪いのです」ということの意味は、要するに、学生の質が低下してきたということである。学生本人を前にして、しかも最終講義の中で、そういう直截な表現はとれないから、遠回しな表現をしているが、言わんとしていることはそういうことである。

 もっと後になって、別の場所で、清水は学習院大学の退職の理由について直截な表現で次のように語っている。

外部の方には想像もされないでしょうが、大抵の大学では、いざ、学年試験を行うとなりますと、平常の三倍も四倍もの教室を用意する必要が生じるものなのです。つまり、平常は、学生の大部分は登校せずに、喫茶店、マージャン屋、パチンコ屋、ボウリング場など、他のレジャー施設を利用していて、試験の時だけ、大半は先生の顔も知らないまま、大学というレジャー施設へ現れて来るのです。また、大学側もそれを前提して、学生の一部分を収容する教室しか用意していないのです。毎日、全員が真面目に登校するようになったら、大学は忽ち破産してしまうでしょう。双方馴れ合いでレジャー施設になっているのです。…(中略)…昭和四十四年春、まだ定年には九年あったのですが、私は学習院大学を退職しました。退職の理由は沢山ありましたが、その一つは、「私はレジャー業者ではない」という小さな誇りでした。(「戦後の教育について」1974、著作集17巻、69-70頁

 ここで語られていることは、大学の大衆化という現象である。清水が平和問題談話会の議長である安倍能成に請われて学習院大学の教授になったのは1949年4月であるから、清水は戦後の新制大学の変遷をその発足時から現場でずっと見てきたわけである。統計資料によれば、1949年度の全国の4年制大学の学部生の数は123,987人(男子116,340人、女子7,647人)で、1968年度のそれは1,211,068人(男子991,126人、女子219,942人)である。つまり20年間でちょうど10倍(男子8.5倍、女子29倍)になったのである。これで学生の質が低下しなかったらおかしいだろう。

 清水は身近に接する学生の質の変化という観点から、自分の大学教師としての20年間を3つの時期に分けている(「戦後の教育について」)。

第一期は、まだ敗戦後の窮乏や混乱が明らかな時期(1950年代前半)。

第二期は、経済の成長や政治の安定が始まった時期(1950年代後半)。

第三期は、高度成長に入ってから(1960年代)。

大学の大衆化が急速に進んだのは第三期である。この時期は、清水の人生においは、安保闘争の敗北を機に彼が活動の中心を平和運動から研究生活にシフトした後の時期である。研究者として生きることは、10数年に渡って続いた平和運動の期間中、清水がずっと望んでいたことであった。それだけに学問の府であるべき大学のレジャー施設化は清水には耐え難いことであったろう。大学紛争に参加している学生に対してはシンパシーを示した清水だが、学生一般への評価はきわめて辛かったのである。そして大衆化した大学の学生一般への評価は、それを含むところの大衆一般への評価でもあった。

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2006年8月19日 (土)

『諸君』創刊

 『諸君』創刊号(1969年7月)-古本屋で入手-に掲載の清水幾太郎「戦後史をどう見るか」(インタビュー)と福田恆存「利己心のすすめ」を読む。二人の因縁(ここでその因縁について説明する余裕はないが)を考えると感慨深いものがある。戦後四半世紀が経過した時点で文藝春秋がオピニオン雑誌『諸君』(当初は『諸君!』ではなかった)を創刊したのは、戦後民主主義教育の申し子である大学生たちの反乱(大学紛争)をひとつの契機として、「戦後」を批判的に振り返ろうという空気が生まれたからであろう。編集長の池島信平は「創刊にあたって」の中でこう述べている。

  わたくしたちは新聞を毎朝読み、テレビのダイヤルを毎晩廻してみるのですが、いまの世の中のゆがんだ姿が、そこにまざまざと浮かびあがってきます。こんな筈ではなかった-という想いは、心あるみなさんの胸の中をしめつけることと思います。わたくしたちとて同じです。
  世の中どこか間違っている-事あるごとに感じるいまの世相で、その間違っているところを、自由に読者と一緒に考え、納得していこうというのが、新雑誌「諸君」発行の目的です。

  文中の「わたくしたち」とは誰のことであろうか。雑誌の作り手たちのことであろうか。あるいは雑誌の作り手と読者の双方を含むのであろうか。いや、「こころあるみなさん」とは読者のことであろうから、「わたくしたち」はやはり雑誌の作り手たちのことか。なんでこんなことにこだわるのかというと、『諸君』創刊号の巻頭の「オピニオン」欄で論者の一人である筑波常治が皮肉にもこんなことを書いていたからである。

  この機会にひとつ、提案したちことがある。だれでもやる気にさえなれば、かならず実行できるはずのことを。それは日本人の会話から「われわれ」ということばを追放することだ。「われわれ」ということばを絶対に使わないで、しゃべる習慣を身につけることである。それを提案したい。
  「われわれ」はいうまでもなく、一人称複数をあらわす言語である。「われわれ」というひときわもったいぶった第一人称複数は、こんりんざい口が避けてもいわぬようにし、かわりにどんな場合でも、わたくし、わたし、わし、ぼく、おれ、それがし、拙者、小生、手前…など一人称単数でものをいうことをこころがけるようにしたい。なぜこんな提案をするのかといえば、自分の言動にたいし、あくまでも自分個人で責任をおう、いや責任をおえることでなければ発言しないという、その習慣を身につけるためである。
  「われわれはー」と絶叫するとき、その人間は無自覚にせよ、つぎのような行為を演じている。まず当人のほかにも、同意見の者がいく人もいること。つまり「いましゃべっていることは、自分だけでなく、ほかにも同じ考えの者がいるのだぞ」ということを宣伝している。その宣伝は同時に、「これは大ぜいの者が信じているのだから、したがってただしいのだ」とするあしき意味での多数決の偏重につうじるものである。…(中略)…多数のゴリ押しでいいぶんをとおそうとする態度が、「われわれ」という一人称の絶叫には含まれている。

  筑波常治は当時、法政大学講師(生物学史)であったから、キャンパスで「われわれはー」という拡声器の声を連日耳にしていたのであろう。「われわれはー」は党派的一人称複数である。私も、1973年4月に早稲田大学に入学して、この「われわれはー」を連日耳にするようになった。その独特の抑揚で語られる言葉はとても当人が自分の頭で考えたものとは思えなかった。拡声器のマイクに向かって話している彼自身が拡声器の一部と化して、組織の言葉が録音されたエンドレステープを再生しているように見えた。『諸君』の編集長が「創刊にあたって」の中で「わたしたち」という一人称複数を使用したことは、はしなくも、このオピニオン雑誌が多様なオピニオンではなく一定の傾向を持ったオピニオンを今後掲載していくことを予告するものであった。そして、事実、そのようになっていった。

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2006年5月28日 (日)

「村の図書室」

  清水幾太郎『人生案内』(1954年)は、「村の図書室」というシリーズの中の一冊である。「村の図書室」シリーズには他にどんな本があるかというと…

  浪江虔『村の政治』

  川田信一郎・渡辺成美『米の増産』

  御園喜博『市場-野菜・果物』

  若月俊一『健康な村』

  丸岡秀子『女の一生』

  蝋山芳郎『世界の動き』

  大谷省三『国土の改造』

  都留・大内・辻・福島『日本の進路』

  弘法健三・山崎不二夫『水田と畑』

  村の図書館あるいは公民館の図書室に置くに相応しいタイトルの本だけでなく、なぜ「村の図書室」なのかと思えるタイトルの本もある。身近な話題から日本の社会全体や世界の話題へ。当時の岩波書店の啓蒙的性格をよく表しているといえるのではないだろうか。

  ところで『人生案内』の「あとがき」に清水は次のようことを書いている。

  「人生案内」というのは、立派な題目です。私のように著述生活をして来たものにとって、こういう題目を与えられるのは、実に光栄であります。しかし、正直のところ、これは、また、恐ろしい題目、気のひける題目です。そうではありませんか。人生を正しく歩んで来たという自信のある人でこそ、他人に向って「人生案内」を書く資格があるのです。私のように、何度となくつまずいて来た人間、今でも深い迷いに襲われるような人間、そういう人間には、一寸、手が出ません。特に、農村の人たちに読んで貰うという狙いなのですから、私のような都会育ちの人間には、益々手が出なくなります。

  ところが、ぐずぐずせずに、早く書け、という声が方々から聞こえて来るのです。その声が次第に大きくなるのです。そこで、私は、勇気を出して、いろいろと農村関係の本を読み、また、村の話を聞いて、下準備を始めました。しかし、こうして、読んでみると、聞いてみると、私の気のせいでしょうか、貧弱ながら、私が人生について考えて来たこと、私が実地に経験して来たこと、それを地方の読者にお伝えすることも無意味ではないと思うようになったのです。それで、とうとう、気がひけるのを我慢して、「人生案内」という光栄ある題目で、一冊の本を書くことになってしまいました。内容は、ご覧の通りです。若し、この本が、少しでも、読者の人生にとってお役に立つなら、私として、こんな嬉しいことはありません。

  ここには『人生案内』の執筆を躊躇させた2つの要因があげられている。第一に、紆余曲折した人生を歩んで来きたこと。第二に、都会育ちで農村について知らないこと。前者の要因は、三冊目の自伝となる『わが人生の断片』の執筆依頼を雑誌『諸君!』の編集部から受けたときに、当時『諸君!』に自伝『時代と私』を連載していた哲学者の田中美知太郎を引き合いに出して、「田中美知太郎氏の時代と私の時代とは、或る程度重なり合っている。その重なり合った時代を、私は見苦しく右往左往しながら生きて来た。彼が静かに生きていたのに、私は騒がしく生きていたように思う。彼が強かったのに、私は弱かったように思う。私が何かを書けば、徒に恥を重ねるばかりではないか」と考えたときにも作用している。しかし、結局、清水は自伝の連載を引き受けたわけだし、売文業者の感覚から、静かな人生よりも右往左往する人生の自伝の方が読者にとって面白いにはずと考えたと思う。『人生案内』にしてみても、人生を迷いなく生きてきた人の話よりも、苦労人の話の方が説得力があると一般には思われており、清水にもそうした自負はあったはずである。要するに、「私のように、何度となくつまずいて来た人間、今でも深い迷いに襲われるような人間、そういう人間には、一寸、手が出ません」というのは一種の謙遜である。

  しかし、後者の要因、「私のような都会育ちの人間」が農村で生きる人々に「人生案内」を語ることの躊躇は大きかったであろう。ここで思い出すのは、鈴木広が「清水幾太郎私論」(1990)-清水を追悼して日本社会学会の機関誌『社会学評論』が企画した特集論文の一つ-の中で披露していた次のエピソードである。1978年1月、鈴木の熱心な依頼に応えて、清水が九州大学で集中講義を行ったときのことである。

  清水が九大に来られた際、十人ほどの社会科学者を召集して、懇談しつつ会食する機会を設けた。その中に故山本陽三もいた。清水は日中の講義で疲れており、まわりは知らない人ばかりで、寡黙であった。会も終わりに近い頃、山本は「先生の社会学の中では、ムラや農村は、どういう位置づけになるのでしょう」と質問した。それに対する清水の回答を、今も鮮明に記憶しているが、それは「農村について私は、実は全く知りません。ムラという言葉を聞くと、何か、まっ暗な穴がの中に、引きづり込まれるような、そんな気になります」というものであった。ムラや田舎に対する、このなじみのなさ、決定的な違和感は、生まれも育ちも暮らしも東京だけという清水には、不可避的なものであったと思う。…(中略)…庶民と「相共に新しい平面へ這い上がること」を念願していた清水ではあるが、その大衆社会論には、地域要因が全く欠落している。

  「農村について私は、実は全く知りません」という清水の言葉にはもちろん誇張が含まれている。実際、『人生案内』を書くために、清水は「いろいろと農村関係の本を読み、また、村の話を聞い」たりしたわけだし、米軍基地反対闘争の支援のために内灘村へは何度も行っているのである。しかし、結局、村の力学というか、村の人々の考えや行動の仕方について共感的に理解するまでには至らなかったということである。清水の思想を理解する上で「庶民」の概念はキーとなる概念の1つであるが、清水にとっての「庶民」のイメージの核にあるのは、中流以下の都市生活者であって、村の住人たちは「庶民」の周辺ないし外部に無意識のうちに排除されているのである。

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2006年5月20日 (土)

『人生案内』

  清水幾太郎には94冊の単著がある(編著や翻訳書を除く)。『清水幾太郎著作集』全19巻に収められているのはその一部に過ぎない。『社会学入門』(カッパブックス、1959)、『論文の書き方』(岩波新書、1959)、『本はどう読むか』(講談社現代新書、1972)といった広く読まれた本も著作集には収められていないのだ。だから著作集未収録の本については「日本の古本屋」などで調べてコツコツ収集していくほかはない。
  先日、『人生案内』(岩波書店、1954)という本が金沢文圃閣から出品されていたので3200円で購入した。清水の本の多くが総合雑誌等に寄稿した文章を集めて単行本化したものであるのに対し、この本は書き下ろしである。雑誌に発表した文章を集めた本であれば、その本が入手できなくとも、初出の雑誌からコピーすれば用は足りるのであるが(ただし単行本に収録する段階で改稿がなされることがあるので油断はできない)、書き下ろしの場合はともかくその本を入手しないと話にならないので、今回は収穫であった。
  『人生案内』の構成は以下の通り。

  Ⅰ 勇気について
  Ⅱ 一枚底について
  Ⅲ 現場について
  Ⅳ 仲間について
  Ⅴ 地方文化について
  Ⅵ 経験について
  Ⅶ 戦いについて
  あとがき

  「人生案内」というタイトルから連想する内容とは隔たりがある。清水には『女性のための人生論』(河出新書、1956)という本があって、これは『婦人公論』(1951年1月号~1953年12月号)に「家庭の話題から」というタイトルで連載された文章(文体は「です・ます」調で平易)をまとめたものであったが、『人生案内』もそれと同様、いわゆる「身の上相談」ではなく、「個人的な問題は社会的=政治的な問題であり、社会的=政治的な問題は個人的な問題である」という啓蒙的な視点から書かれた社会評論である。両方とも「人生」という本の内容とはいささかギャップのある言葉がタイトルに使われたのには、伊藤整の『女性に関する十二章』(中央公論社、1954)がもたらした当時の人生論ブームに便乗しようという出版社の思惑も働いていたのかもしれない。敗戦から10年、復興期から高度成長期への移りかわりの季節の中で、人々は人生と社会について思いをめぐらすゆとりを手に入れたのだろう。利己主義と利他主義が一瞬のバランスを得た稀有な時代だったといえるかもしれない。

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2006年5月 4日 (木)

マルクス主義へのまなざし(安吾の場合)

  清水幾太郎の思索と行動の軌跡を見ていこうとするとき、マルクス主義や共産党との関係について考えないわけにはいかない。これは清水に限らず、戦前・戦中・戦後を通じて日本のインテリ一般について言えることである。その理由は、第一に、マルクス主義は資本主義化する社会に発生する社会問題(貧富の二極化問題)の解決のための思想で、当時の日本社会の状況に適応可能だっこと。第二に、マルクス主義は西洋からの輸入思想だが、インテリは西洋思想の輸入・販売のエージェントとして機能してきたこと。第三に、富国強兵という実利優先の時代にあっては、(文系の)インテリは体制の周辺ないし外部に置かれることが多かったから、体制批判の理論としてのマルクス主義とは親和性があったこと、などをあげることができる。
  ただし、インテリとマルクス主義や共産党との関係は、時代や、インテリの出身階層によって異なる。森鴎外や夏目漱石はマルクス主義や共産党とは無縁であった(日本共産党が非合法下に結成されたのは1922年=大正11年である)。1960年代以降の生まれのインテリにとってもマルクス主義や共産党との関係は大きな問題ではないだろう。労働者階級出身のインテリにとってマルクス主義や共産党が親和性をもつものであったのは当然だが、他方、資本家階級出身のインテリにとっても「自責の念」と「社会正義」を伴った社会科学的な理論と運動として大きな影響力をもった。
  清水幾太郎は1907年(明治40年)の生まれで、祖父は元旗本、父親は日本橋で竹屋という時代遅れの商売を継いでいたが、1919年(大正8年)に本所に移って洋品雑貨の商売に転じた。世代的には青年の間の流行思想が無政府主義からマルクス主義へと移行する過渡的な世代であり、階層的には世代間の下降的社会移動の結果としての下層自営業者の出身である。したがって、清水とマルクス主義や共産党の関係は単純明快なものではない。
  清水よりも一つ年長(1906年=明治39年生まれ)の坂口安吾の自伝的小説「暗い青春」(1947年)の中にこんな箇所がある。

  戦争中のことであつたが、私は平野謙にかう訊かれたことがあつた。私の青年期に左翼運動から思想の動揺をうけなかつたか、といふのだ。私はこのとき、いともアッサリと、受けませんでした、と答へたものだ。
  受けなかつたと言ひ切れば、たしかそんなものでもある。もとより青年たる者が時代の流行に無関心でゐられる筈のものではない。その関心はすべてこれ動揺の種類であるが、この動揺の一つに就て語るには時代のすべての関心に関連して語らなければならない性質のもので、一つだけ切り離すと、いびつなものになり易い。
  私があまりアッサリと動揺は受けませんでした、と言ひ切つたものだから、平野謙は苦笑いのていであつたが、これは彼の質問が無理だ。した、しなかつた、私はどちらを言ふこともでき、そのどちらも、さう言ひきれば、さういふやうなものだつた。
  …(中略)…
  私はともかくハッキリと人間に賭けてゐた。
  私は共産主義は嫌ひであつた。彼らは自らの絶対、自らの永遠、自らの真理を信じてゐるからであつた。
  我々の一生は短いものだ。我々の過去には長い歴史があつたが、我々の未来にはその過去よりも更に長い時間がある。我々の短い一代に於て、無限の未来に絶対の制度を押しつけるなどとは、無限なる時間に対し、無限なる進化に対して冒涜ではないか。あらゆる時代がその各々の最善をつくし、自らの生を尊び、バトンを渡せば、足りる。
  政治とか社会制度は常に一時的なもの、他より良きものに置き換へられるべき進化の一段階であることを自覚さるべき性のもので、政治はたゞ欠陥を修繕訂正する実際の施策で足りる。政治は無限の訂正だ。
  その各々の訂正が常に時代の正義であればよろしいので、政治が正義であるために必要欠くべからざる根底の一事は、たゞ、各人の自由の確立といふことだけだ。
  自らのみの絶対を信じる政治は自由を裏切るものであり、進化に反逆するものだ。
  私は、革命、武力の手段を嫌ふ。革命に訴へても実現されねばならぬことは、たゞ一つ、自由の確立といふことだけ。
  私にとつて必要なのは、政治ではなく、先ず自ら自由人たれといふことであつた。
  然し、私が政治に就てかう考えたのは、このときが始めてゞではなく、私にとつて政治が問題になつたとき、かなり久しい以前から、かう考へてゐた筈であつた。だが、人の心は理論によつてのみ動くものではなかつた。矛盾撞着。私の共産主義への動揺は、あるいひは最も多く主義者の「勇気」ある踏切りに就てゞではなかつたかと思ふ。ヒロイズムは青年にとつて理智的にも盲目的のも蔑まれつゝ、あこがれられるものであつた。…(中略)…
  青春の動揺は、理論よりも、むしろ実際の勇気に就てヾはないかと思ふ。私には勇気がなかつた。自信がなかつた。前途に暗闇のみが、見えたのである。 (『教祖の文学』、草野書房、昭和23年、278-281頁)

  個人の自由を最上位に置く思想は、無政府主義(とくに大杉栄)の特徴である。大杉があれほどボルシェビズムに反対したのはそれが組織への個人の服従を絶対条件とするものであったからである。個人の自由を抑圧する権力は、体制内のものであれ体制外のものであれ、悪なのである。無政府主義が青年を魅了し、同時に、社会運動の指導原理としては無力であった理由がここにある。関東大震災(=大杉の死)以後、事情は変わった。国家権力の弾圧の下で、党員が党に服従することは、勇気ある行為として青年たちの目には映った。自分が勇気ある人間であることを他者に呈示することは、ゴフマンのトラマツルギーの用語を援用して言えば、青年期における「印象管理」の重要な課題であろう。安吾の文章はこのへんの心理を的確に伝えるものであり、清水とマルクス主義や共産党の関係を見ていく場合にも当てはまるものではないかと思う。ちなみに文中に登場する平野謙(文芸評論家)も清水と同年の生まれである。

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2006年4月30日 (日)

抒情へのまなざし

  生まれ育った土地を遠く離れて、その遠く離れた場所から生まれ育った土地を振り返るとき、そこに「故郷」という抒情的対象が立ち上がる。しかし、「故郷」は必然的に(自然に)甘味な抒情の対象となるわけではない。そこには「故郷」を抒情の対象として見ようする意思が働いているはずである。いや、対象は「故郷」に限らない。さまざまなものを抒情的に見ようとする意思、抒情そのものへのまなざしが大正という時代を覆っていたように思われる。
  「抒情詩人」西條八十(明治25年~昭和45年)を論じた筒井清忠編『西條八十と昭和の時代』(ウェッジ選書)の中で、筒井は次のように述べている

  大正八年、第一詩集『砂金』が刊行された。それは、一つ一つの詩が華麗な言葉によって堅固に構築された詩集であり、「寂しさ」が全体の基調になっていた。…(中略)…大正九年六月、抒情詩集『静かなる眉』が刊行される。以後、八十の抒情詩集は女学生を中心とした若い女性の間で熱烈に支持されることとなるのである。
  その背景にはこの時期、高等女学校校数・生徒数が急激に増加したことがあった。それは大正7年から一五年の八年間に、学校数では二・五倍、生徒数で約三・二倍という激しいものであった。飛躍的に増加した女学生の間で強く求められたのはロマンチズム(より正確にいえば、淡い無常観を伴った日本的ロマンチズム)であったし、八十はその欲求に最もよく応えられる人だった。(pp.19-21)

  ここで指摘されていることは文学の受容者(読者)における女性人口の増加並びに低年齢化ということだが、それは男性のメンタリティの女性化という現象も伴っていたはずでる。同書に収められている座談会「西條八十とその時代」(藤井叔禎・川本三郎・関川夏央・筒井清忠)の中で次のような世代論が展開されている。

  藤井 乱歩が明治二七年ですね。久米が明治二十四年、菊池が二十一年でちょっと上なんですが、何かこの辺の世代から、それ以前とはひと味違った柔軟な姿勢が見られるような感じがします。
  川本 明治の二代目でしょうかね。でも、青春時代は大正にかかっているのかな。
  筒井 二十代まで含めて考えると、大正初期から中期ということになりますね。
  川本 明治の人というより、むしろ大正の人ですよね。そうすると、なんとなくわかってきますね。
  関川 芥川も八十と同じ明治二十五年生まれですね。
  筒井 ええ、だから芥川と仲が良かった。愛蘭土(アイルランド)文学会というのを一緒にやっています。
  川本 明治の作家、たとえば永井荷風や里見弴の場合は、文学なんかやることに父親が反対した。父の重圧というのがすごくあったと思うんですが、西條八十の世代になるとその重石がなくなったという感じがしませんか。
  筒井 八十の場合は、お父さんは商売一途な人で、文学などには全然関心がなかったみたいですね。だから、抑圧ということでもなかったみたいですね。
  川本 しかも八十にはお姉さんという導きの人がいたので、前の世代とその点は全然違いますね。やはり明治の富国強兵の時代から、ある文化的な雰囲気が浸透してきた大正の世代の人だという気がしますね。
  藤井 輸入石鹸を扱っているお家なんていうのもすごく面白いですね、異国趣味というか。それに、時代もそういう欧米崇拝みたいなものが入ってきて、その頃に端を発するエキゾチックな作風とか感性みたいなものが相当その後長く-私は昭和四十年頃の歌謡曲の歌詞を連想するんですが、そのへんにまで流れているという感じがしますね。
  川本 里見弴の晩年に江藤淳がインタビューしていて、「大正時代というのはどういう時代ですか」と聞くと、里見弴が「天皇はああいうふうだったし、ともかく軟弱な時代だった。だからおれは生きていられた」みたいな答え方をしていますね。山本夏彦さんだったかな、「大正時代というのは要するに不良が許される時代だった」という言い方もしているから、そこで明治という強い偉大なる父親の時代とまったく違う雰囲気が生まれたという気がしますね。

  ここで私が思い出すのが、清水幾太郎が『私の読書と人生』の中で有本芳水の詩について語っていることである。

  小学校に入つてから、私は毎月「日本少年」を講読してゐた。その他にも何種類かの少年雑誌があつたが、私が「日本少年」を買ひ続けたのは、それに有本芳水の詩が載つてゐたからである。…(中略)…古いもの、遠いもの、亡びたもの、悲しいもの、さういうものの美しさを芳水の詩は私に教えてくれた。

  ふりさけ見れば浅間山
  黒き煙の渦まきて
  空より野邊に流れ落つ
  山の麓の町町の
  白き壁には日のかげの
  赤く悲しくたゆたいて       (「浅間山」)

  田舎といふものと全く縁がない町の子である私には、海や山や港は芳水の詩を通して初めて現実のものとなつた。いや、数十冊の立川文庫が一度も触れなかつた私の心の或る部分に、これ等の詩は強い刺戟を与えたのだ。言葉といふものの微妙な動き、その不思議な力に、私は漸く目覚めて来たのであらう。当時の「日本少年」には芳水のほかに松山思水といふ記者が活躍してゐたが、後者の荒つぽい文章と、これに相応しい内容とは私に一種の反発を感じさせ、その反発が一層私を芳水の方へ傾かせて行つたやうである。(著作集6,pp.371-372)

  清水は子ども時代のこうしたメンタリティーを、没落した旗本の末裔であることや、早熟さによって説明しているが、そもそも「日本少年」という少年向けのメディアに有本芳水の詩が連載されていたという事実は清水の個人的事情とは関係がないわけで、それは大正という時代のメンタリティーの反映としてとらえるべきものである。
  清水は明治40年の生まれだから、西條八十よりもさらに次の世代、「明治の三代目」であるわけで、ものごころついた頃から思春期の多感な時期を筒井のいう日本的ロマンチズムにたっぷりと浸りながら送った世代である。そのように考えると、清水の多くの文章に見え隠れするセンチメンタリズムや、「庶民」(大衆)の哀歓への共感というものを理解できるのでないだろうか。

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2006年4月26日 (水)

故郷へのまなざし

  農村から都市への大量の人口移動は、「故郷」へのまなざしを強める。「故郷」はたんに人が生まれ育った場所ではない。ある場所で生まれ育った人が、その場所を遠く離れて、遠く離れた場所から自分が生まれ育った場所を振り返るとき、「故郷」という叙情的な対象が生まれる。
  数ある「故郷ソング」の中で、一番ポピュラーなものは、♪兎追いしかの山、小鮒つりしかの川、夢は今もめぐりて、忘れがたき故郷~、の文部省唱歌『故郷』(詞:高野辰之、曲:岡野貞一)であろう。1914年(大正3年)に世に出た歌である。読売新聞が身の上相談を始めた年であり、朝日新聞が漱石の『こころ』の連載を始めた年でもある。心理的な「内面(人生問題)」へのまなざしの普及と、空間的な「故郷」へのまなざしの普及は、どこかで連動しているように思う。
  『故郷』よりも以前の「故郷ソング」としては、♪夕空はれて、あきかぜふき、つきかげ落ちて、鈴虫なく~、の『故郷の空』(明治21年)。♪幾年ふるさと、来てみれば、咲く花鳴く鳥、そよぐ風~、の『故郷の廃屋』(明治40年)。♪園の小百合、撫子、垣根の千草~、の『故郷を離るる歌』(大正2年)などがある。しかし、これらの歌が外国の曲(『故郷の空』はスコットランド民謡、『故郷の廃屋』はアメリカの作曲家W.ヘイズの曲、『故郷を離るる歌』はドイツ民謡)に日本語の歌詞を付けた(訳詞とはいえない)ものであるのに対して、『故郷』は日本人による作詞・作曲、いわば和製「故郷ソング」なのである。
  日本は近代化の進展の中で多くのものを欧米から輸入した。モノや制度だけでなく、そこには「人生の物語」も含まれていた。近代版「人生の物語」の基本である「成功(立身出世)の物語」はまずもってサミュエル・スマイルズ『自助論』の翻訳である『西国立志編』によって広く普及し、ようやく大正時代も半ばになって、「野口英世」という日本人モデルを見出した。輸入品が先行し、続いて国産品が普及するというのは、近代化の後発国の一般的パターンである。
  『故郷』の三番の歌詞、♪志を果たして、いつの日にか帰らん~、に着目して、『故郷』を「立身出世ソング」の系列に位置づける見方に対して内田隆三は疑問を呈している(『国土論』、2002年)。

  第一の論点は、唱歌『故郷』に描かれた「故郷」への美しい憧憬の裏面には、たしかに「故郷」から逃げてきたり、「故郷」から追い出されたりした人たちがたくさん存在していたと思われることである。また、そこで歌われているように、志を果たして「故郷」に帰ることができると、人びとが実際に信じているかどうかもわからないことである。「故郷」にたいするロマンティックな感情の裏面には、「故郷」にたいするリアリズムとルサンチマンの心情が付着しており、その表/裏の奥行きを捨象してはならない(p.59)

  第二の論点は、…(中略)…それがそう単純に立身出世主義に志向していないことである。唱歌『故郷』は、大衆の社会的な動員や主体化を積極的で現実的な主題とする明治時代の歌曲から意味論的に逸れていき、心情的にも下降していく側面をもっている。吉本隆明は大正期の大衆歌謡にはその種の社会的主題の喪失が見られるというが、その意味で唱歌『故郷』は大正時代のこうした歌曲に連なっていく側面を色濃くもっているのである。
  …(中略)…こうした現実喪失、現実乖離とい視点を基準にしてみれば、唱歌『故郷』は、大衆のナショナリズムの明治から大正(一九一二-一九二五)へのまさに移行期に位置していることがわかるだろう。その歌は故郷を遠く離れ去ってしまった主体の望郷の思い、あるいは何らかの意味で故郷喪失の感情を歌っているからである。その歌には「志を果たしていつの日にか帰らん」という三番のフレーズ以外に大衆の社会的な動員という主題はとくに見られない。またこの三番のフレーズも、そうなればいいのだがというような、どこか消極的な色調を帯びている。むしろこの歌の主題は、もっぱら遠い「過去の追憶」に志向しており、子ども時代の友人や、父や母の消息や、故郷の風景の記憶を、一人孤独な思いで、あてもなく表象することにあるからである。(pp.60-61)

  確かに、『故郷』は実際に口に出して歌ってみると、一種の淋しさを伴った歌であることがわかる。今まさに故郷を離れて都会へと向かう列車に乗っている人の歌ではない。都会に着いて間もない頃の人の歌でもない。都会で暮らし始めてかなりの歳月が経ち、当初の立身出世の夢も色あせて、なんとなく先が見えてしまった人の歌のように思える。明治という「坂の上の雲」を見上げながら人々が歩いていた時代が終わり、「時代閉塞の現状」(石川啄木)が人々を憂鬱な気分にさせる時代へと入っていく、近代日本の青春の終わりを告げる歌のように思える。  

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2006年4月19日 (水)

群衆へのまなざし

  松田巌『群衆 機械のなかの難民』(読売新聞社、1996)の書き出しは秀逸だ。

  これから群衆についてだらだらと述べる。(p.7) 

  力みがないところがいい。本というものは、しばしば、著者が自分の頭のよさをひけらかすために書かれることがある。「だらだらと」書いたのでは頭のよさをひけらかすことはできない。単純明快な議論を展開するためには、枝葉の部分は思い切りよく切り捨てて、ついでに自分の議論の展開上都合の悪い部分も切り捨てて、「ほら、こんなにスッキリしましたよ」とファッションショーのモデルのような体型の文章に仕上げる必要がある。自分の頭のよさにうっとりしているだけの、つまらない文章がこうしてできあがる。松山の本はそうした貧困な精神とは縁遠いところで書かれている。

  二十世紀という百年は単純ではない。
  少なくとも群衆という存在が新しい表情をもって現れたことが、百年の複雑さを示している。二十世紀は進歩という風が激しく吹きすさんだ世紀である。その風のなかで群衆はどのように貌を変えるのか。ともあれ、群衆を軸にして二十世紀の日本を追いかけてみる。(p.30)

  都市への流入人口の増大によって形成されたのは、下層社会だけではない。群衆もまたそうである。群衆は一定の地域に居住している人々のことではなく、街角や駅前や広場などにひしめいている不特定多数の人々のことである。赤の他人同士である。したがって通常は互いに儀礼的無関心(civil inattention)を装っている。しかし、何かがきっかけになって、群衆が大きなエネルギーの塊となって、暴徒化することがある。都市の為政者にとってこれは最高度に警戒すべき脅威である。一方、社会主義の運動家、とりわけアナーキストにとっては、群衆は社会変革のためのエネルギー源である。かくして群衆へのまなざしは都市化と共に強まっていった。
  1905年(明治38年)9月5日、日露講和条約がポーツマスで調印されたその日、日比谷公園で開かれた講和反対国民大会は顕官隊との衝突から警察署・交番・内相官邸・政府系新聞社などを襲撃する騒ぎへと発展し、軍隊が出動してようやくこれを鎮圧したが、東京は9月6日から11月29日まで戒厳令下に置かれた。日比谷焼き打ち事件は近代日本が経験した最初の都市騒乱であった。
  群衆の暴徒化の背景には人々の不満や怒りがある。日比谷焼き打ち事件の場合、暴徒化の直接の原因は日露講和条約の内容(賠償金ゼロ、北緯50度以南の樺太の割譲のみ)への不満と怒りであるが(ナショナリズムの昂揚)、その背景には日露戦争中および戦後の生活苦がある。
  日比谷焼き打ち事件の前月、河上肇は雑誌『財界』に「将来の三大問題」という文章を寄せている。その三大問題とは、「農業者対商工業者の問題」(自由貿易をめぐる利害の対立)、「資本家対労働者の問題」、「男子対女子の問題」(男女関係の欧米化の問題、女子の就労問題)である。このころの河上はまだマルクス主義者ではなかった。社会主義への関心はあっても、社会問題は既存の社会体制の改良によって解消されうるものと考えていた。しかし、資本主義社会の発展が格差の拡大(二極化)という問題を必然的に生むだろうことを確実に見通していた。格差の拡大はつまるところ貧困問題として帰着するだろう。かくして河上は、それから11年後、1916年(大正5年)9月から大阪朝日新聞に『貧乏物語』の連載を始めた。
  地方から都市への人口の大量移動は、都市に下層社会と群衆を誕生させたが、それは「貧困」という社会問題の誕生とワンセットであった。 以後、日本社会はこの貧困問題の解決策を求めて動いていくといっても過言ではない。

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2006年4月14日 (金)

下層社会へのまなざし

  21世紀初頭の日本では、社会的格差の拡大や新たな下流社会の台頭にメディアの関心が集まっている。こうした現象は資本主義社会の発展ないし変容に伴うものであるから、類似の現象は明治以降今日に至るまで繰り返し観察される。
  中川清編『明治東京下層生活誌』(岩波文庫、1994)は、1886年(明治19年)から1912年(明治45年)までの間に、新聞や雑誌に載った東京の下層社会(貧民窟)に関するルポルタージュ14編を収録したものである。
  中川によると、明治期における下層社会へのまなざし(貧困言説)は4つの時期に区分することができる。
  第一期は、明治時代前半、日清戦争以前の時期(軽工業中心)で、「貧民窟」が東京のどこあるのか、その所在を明らかにすることに力点が置かれており、下層社会は「おおむね驚きや恐れの態度で、書き手の属する社会とは異質な存在、いわば社会の外部として」描かれている。
  第二期は、日清戦争と日露戦争の戦間期で(鉄工業や鉄道網の発達)、「下層社会に固有の職業や関係、さらには習俗や慣行にしたがって記述が展開され、異質な外部社会の内側の細部が、固有な生活世界として丹念に描かれる」ようになる。なお、岩波文庫にも収められている松原岩五郎『最暗黒の東京』(1983)は第一期と第二期を架橋する作品である。
  第三期は、日露戦争後すぐの時期で、明治社会主義(自由民権左派の流れを汲むもの)というフィルターを通した社会批判のニュアンスが記述の中に見られるようになる。やはり岩波文庫に収められている横山源之助『日本の下層社会』(1899)はこの時期の作品である。
  第四期は、明治40年代で(工業化や鉄道網の発展)、これまでに描かれた来た「貧民窟」の独自の共同性が新たな人口流入と東京の拡大に伴って解体し、下層社会に独自の変容が生じていることへの着目が見られる。
  では、この第四期、すなわち清水幾太郎の幼年時代の東京で起こった下層社会の変容とは具体的にどのようなものであったのか。横山源之助の「貧街十五年の移動」(『太陽』明治45年5月)から引いておこう。
  まずは職業の変容である。

  日清戦役前後貧街に多数を占めていたのは、ワラジ稼業といわれていた日稼ぎ人足と人力人亜足であった。…(中略)…日清戦役前後人力車夫業の隆昌であった時は、地方より出でて腕力があり、足力がある青年の徒は、大抵一度はこの人力車夫に落ちたものである。思うに大した熟練なく、大した準備を要せず、その日に着手して直ちに若干の収益を見たのはこの人力車夫で、要する所の知識は、東京全市の地理で、欠くべからざる資本は、二本の足力と腕力だけである。都鄙の失落者が、相率いて人力車夫となったのも無理がなかった。かつて馬車鉄道施設の時、自己の生活と職業とを奪うものなりとして、この稼業者の間に不平の声高かったが、事実は大した影響もなかったのである。
  当時貧民に注目せる者は、住居問題としては万年町、鮫ヶ橋または新網を見、職業としては、まずこの人力車夫を見たのであった。次いで日稼ぎ人足は、今日の如く工場人足は、今日の如く工場人足寡なく、車力人足を筆頭として、手伝い人足、道路人足、土方人足の類は多数を占めていた。で、今日もワラジ稼業である日稼ぎ人足が大多数を占めているのは依然として変わらないが、工場付属の人足が著しく増殖して来た。(PP.272-273)

  何度か映画化された『無法松の一生』は明治の終わりから大正にかけての九州小倉を舞台に人力車夫の松五郎を主人公にした作品で、東京ではないが、当時の人力車夫の世界を知る参考になるだろう。人力車夫はいまでは京都や鎌倉といった古都の観光地でしか見ることができないが、現代社会に置き換えれば「タクシードライバー」である。大都会の中のタクシードライバーの生活世界についてはロバート・デニーロ主演の映画『タクシー・ドライバー』(1976)で描かれている。で、そうした人力車夫(タクシードライバー)に取って代わって、工場勤めの人足が台頭してきたということである。工業化の進展は下層社会も必然的に巻き込んでいくのである。
 流入人口の出身地にも変化が見られる。

  いわゆる労働車の霜枯れ月に、一日千名ないし二千名の労働者が、斡旋人の手を以て、足尾銅山その他の鉱山に募集され都下の労働市場を去るのは、前に掲げた。毎年この霜枯れの月に東京より地方に散ずる労働者は、おそらく数千名で上るであろう。越後、信州の小作人は、冬季の閑時期に都門に入り、東京に放浪している下級労働者は、秋季の末頃より、坑内生活の暖気を慕うて東京を去るのは一種の光景である。そはともかくとして、この燕の如く来たり燕の如く去る富川町または花町等における木賃部落に近頃著しく増加して来たのは関西人の顔である。関西人の言語である。かつて喧嘩が迅いのは関東労働者の特徴であった。関西人の頭数加わった故か、あらぬか、柔順猫の如く、終日孜々として、喧噪の態がないのは、昨今の木賃部落である。事業界に関西人の勢力加わりつつあるのみならず、浮草の如き木賃労働者の間には、関西人が人数と勢力とを加えつつあるのである。(pp.273-274)

  かつて東北地方からの流入人口が主流であった東京に、関西地方からの流入人口が増えてきたという指摘である。交通機関の発達や東京の臨海地域における工業地帯の発達を背景としてものであろう。「関西人」を「外国人労働者」に置き換えれば、現代にも通じる話である。
  地価の上昇も下層社会の生活に影響を与えている。

  貧街の変遷を見るに、かつて坪三円ないし五円であった土地は、十円となり、二十円となり、三十円以上を告げ、かつて三十銭ないし五十銭の屋賃は、一円五十銭、二円、甚だしきは四、五円以上に飛んでいる。暫く万年町に例を取ろう。…(中略)…ただし万年町の特色は、屋賃の低廉にあらず、家屋の醜穢にあらず、住民の性質とその職業であった。一般市民より除外せられていた両側の光景と周囲の空気であったので、当時往還に商店を見たのは幾軒であったろう、表通りは大抵蔀(しとみ)を下ろし、襤褸(ぼろ)を纏っている小供が、前後左右に旁午しているほかには、ほとんど普通の市民は往来していなかった。路上の物干し竿には、腰巻が掛かっていた。で、その住民は、あるいは手伝い人足といい、あるいは土方人足というも、そは世間への体裁で、実は半丁に魂を打ち込んでいた遊人が多く、一度万年町に入れば、旧幕時代のそれと同じく、社会外の人と見られていた。万年町の住民が、東京市の細民部落と異なったのは、この故であった。しかるに木賃宿取締規則出でて万年町の光景俄に変じ、特殊学校の建築あって、更に面目を一新し、今は普通の市街と何ら相違がなくなったのは多大の変遷であった。地価または屋賃に大変動を現してきたのは自然の順序であろう。(pp.274-276)

  経済の発達は貧民の生活を向上させる。相対的には貧民でも、絶対的には貧民から一般の庶民の水準へと近づいていく。ただしかつての貧民窟の生活の向上は貧民窟の消滅ではなく、新たな貧民窟の形成と表裏一体の現象である。

  転じて郡部または郡部に近き貧民部落を物色するに、近頃雑業者が増殖して来たのは、前掲の如く板橋、千住附近の貧民部落で、巣鴨、日暮里、三河島等の市外にも、貧民の住居が目眩ろしく殖えて来た。小石川の場末で、巣鴨に近き西丸町または西原町にも、彼の有名なる百軒長屋または穴倉長屋等がある。…(中略)…ここに注目に値するのは、万年町、山伏町の住民が、入谷町より三ノ輪または日暮里に移動すると同じく、小石川場末の貧民も同じく然りで、比較的屋賃高き百軒長屋(西丸町)より、屋賃低き穴倉長屋(西原町)に転じ、穴倉長屋の落武者は、巣鴨庚申塚の百軒長屋に転じつつあることである。すなわち昨今巣鴨庚申塚の百軒長屋に住せる者は、かつて西丸町の百軒長屋に住んでいた経歴があることである。…(中略)…百軒長屋の住民は、夫婦共稼ぎの健全なる者は多く、穴倉長屋のは、一定の職業なき日稼ぎ人足で、その稼ぎ人は酒飲者か、あるいは病体か、然らば首枷となる子供が多いのか、三者の中必ずその一におる。最も多いのは、子供が三、四人を控えて、内職が出来ないという連中であろう。総じて日清戦役前後には、鮫が橋等のほか余り見なかった襤褸の世界が、今や巣鴨に、大塚に板橋に、日暮里に、三河島に、千住に発散したのは今日の状況である。他方では工場職工、工場付属の人足、または例の燕の如き放浪人足は、深川本所の場末に拡がっているのである。(pp.276-278)

  清水幾太郎の一家が両国橋を渡って日本橋両国から本所へ引っ越していったのは大正八年のことであったが、それは新たに形成された下層社会地域へ「落ちていくような」引っ越しであったわけである。

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2006年4月 9日 (日)

拝金主義批判

  清水幾太郎が生まれた1907年(明治40年)に作られた「ああ金の世や」(作詞・作曲 添田唖蝉坊)という演歌がある。

 ああ金の世や金の世や
 地獄の沙汰も金次第
 笑うも金よ泣くも金
 一も二も金三も金
 親子の中を割くも金
 夫婦の中を割くも金
 強欲非道とそしろうが
 我利我利亡者と罵ろうが
 痛くも痒くもあるものか
 金になりさえすればよい
 人の難儀や迷惑に
 遠慮していちゃ身がたたぬ
 ああ金の世や金の世や
 希望は聖き労働の
 我に手足はありながら
 見えぬくさりに繋がれて
 朝から晩まで絶え間なく
 こき使われて疲れはて
 人の味よむ暇もない
 これが自由の動物か

  演歌は元々は自由民権の思想の街頭宣伝ソングで、今風に言えば、演説のラップ版である。長たらしくて小難しい演説よりも、演歌の方が一般民衆への宣伝効果はあったのであろう。そうした政治的文脈をしだいに離れて、演芸のひとつのジャンルとして独立していって、現在の演歌へと繋がるわけである。
  「ああ金の世や」は社会主義思想を背景とした拝金主義批判をその内容としている。この世界を構成するさまざまな事物の中でお金に至上の価値を置く思想を拝金主義と呼ぶ。拝金主義は前近代社会からあったが、近代化(=資本主義化)の過程で生まれた「金持ち」たちの姿を借りて具体的に目に見える形で社会の表舞台に登場してきた。
  ポピュラーカルチャーに見られる拝金主義批判としては、尾崎紅葉の『金色夜叉』(1897年から読売新聞に長期連載)が有名で、読者は毎朝の新聞の配達を待ちかねてこれを読んだという。『金色夜叉』は日清戦争と日露戦争の間の時代に作られたが、この時代は日本の資本主義の発達過程でいえば産業の中心が軽工業から重工業へシフトしていく時期であった。その点からすると、許嫁(鴫沢宮)を銀行家の息子(富山唯継)に奪われた一高生(間貫一)が、勉学の道を捨てて、高利貸の手代となって世間に復讐するという筋書きは、「金持ち」の描き方としては前近代的なものであった。
  「ああ金の世や」が作られた時期は「成金」という言葉が流行していた。将棋の歩が敵陣に入ると裏返って金に変身するところから来た言葉だが、日露戦争後の好況は多くの「成金」を生んだ。その代表が鈴木久五郎だった。

 鈴木久五郎 明治時代後期の相場師。明治十年(一八七七)五月、埼玉県粕壁(春日部市)に生まれた。日露戦争後の好況期に株式投機で巨額な利益をあげ、相場師「鈴久」の名を天下に轟かせた。かれの名を有名にしたのは当時代表的な花形投機株の東株・鐘紡などの仕手戦で、買い方にまわった「鈴久」は瞬時にして一千万円の巨富を得た。一夜にして大富豪となったかれのことを人々は「成金」とよんだ。だが、そのかれも「売り」を知らないばかりに数年を待たずして株式暴落によって没落する。昭和十八年(一九四三)八月十六日没。六十七歳。(『日本近現代人名辞典』より)

  鈴木久五郎がはたして「ああ金の世や」で歌われているような強欲非道な我利我利亡者であったかどうは知らない。何を言われようと、金になりさえすればよい、とうそぶいていたかどうかも判らない。肝心なことは、一般の庶民が、「金持ち」とくに「成金」のことを、そうしたイメージでとらえていた、とらえたがっていたということである。ここには明らかに妬みの感情がある。自分たちも欲しているもの、しかしどうしても手に出来ないものを手に入れた人間への妬みである。「成金」なんてどうせひどい奴に決まっている、そう決めつけることで、心の安静を得ているわけで、精神衛生上の生活の知恵といえるだろう。すなわち拝金主義批判の背景には世間一般の水準における金銭欲や物欲の高まりがあると見るべきなのである。清水幾太郎が生まれた1907年(明治40年)は、そういう時代だった。

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