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2006年3月10日 (金)

1907年は「戦後」であった

 清水幾太郎は1907年(明治40年)7月9日の生まれである。『現代思想』(1966)の中で清水はこう書いている。

 「誰にでも他人には判らぬ小さな誇りがあるように、いつからか、二十世紀の初めの十年間に生まれたというのが、私の小さな誇りになった。いつからか、と言うよりは、二十世紀初頭の西洋が、同時に多くの領域で開始された天才たちの精神的冒険によって飾られていることを知ってから、と言うべきであろう。それらの冒険と何の関係もない東洋の涯に生まれながら、 私は、この時期を私のものと考えるようになった。そして、これらの冒険によって象徴される二十世紀の全体を私のものと考えるようになった。」(下巻、p421)

 敗戦後、清水が大河内一男らと始めた在野の教育・研究機関を「二十世紀研究所」と名付けたのにはこうした「小さな誇り」が作用していたのかもしれない。しかし、この「小さな誇り」は清水の子供時代からあったものではない。そもそも清水が西暦というものの存在を知ったのは小学校を卒業する頃のことである。

 「日本橋から本所へ引っ越した大正八年は、一九一九年に当る。現在の少年の場合は全く違うであろうが、私は、この年に、キリスト紀元というものがあることを初めて知った。」(『わが人生の断片』p146〔著作集14〕)。

 小さな清水にとってそうであったように、1907年当時の大人たちにとっても、西暦は馴染みのないものであったろう。「二十世紀初頭」という意識は希薄であったろう。もちろん「明治の終わり近く」という意識もなかった。明治という時代があと5年で終わることなど誰も予想していなかった(天皇はまだ54歳だった)。

 では、当時の人々は自分たちの生きている時代をどのように歴史の時間軸の上に位置づけていたのだろうか。それを表す一番適切な言葉は「戦後」であろう。「戦前」が回想の中で初めて立ち現れる言葉であるのに対して、「戦後」はリアルタイムな言葉である。われわれは「戦後」というと1945年8月15日以後のことを考えがちだが(去年は「戦後60年」だった)、近代日本は複数の「戦後」を経験してきた。戊申戦争はひとまずおくとして、第一の戦後は日清戦争後であり、第二の戦後は日露戦争後である。1907年という年はこの「第二の戦後」の渦中にあった。「第二の戦後」のリアリティは、1907年1月21日の東京株式相場の暴落に端を発した戦後恐慌によって、誰にとっても明らかなものであった。

 なお、幼い清水にとっては1907年に生まれたことよりも、7月9日に生まれたことの方が、「小さな誇り」であった。

 「(観音様に-引用注)七月の九日か十日に参詣すると、四萬六千日お詣りしただけの功徳があるといふ。私は七月九日の生れ。子供の頃は、四萬六千日に生れた、といふのが、私の小さな誇りであつた。併し、今は、四萬六千日といつても、老人でなければ判つてくれない。」(「ふるさとの人々」〔著作集19〕p.188)

 清水がこの文章を書いたのは1951年である(『世界』9月号の特集「浅草にあつまる人々」の冒頭に掲載)。今は老人でも「四萬六千日」のことを知っている人は少ないであろう。

 

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