トップページ | 2006年4月 »

2006年3月31日 (金)

三度自伝を書く理由

 『私の心の遍歴』の出版から20年後の1975年、清水67歳のとき、三冊目の自伝『わが人生の断片』(全2巻、文藝春秋)が出版された。書き下ろしではなく、雑誌『諸君!』の1973年7月号から1975年7月号まで25回に渡って連載されたものを単行本化したものである。400字詰原稿用紙換算で1200枚を越える分量は、清水の著作の中で最大のものである。『わが人生の断片』はこんな風に始まる。

 昭和十六年十二月の或る日、私たち数人の忘年会が、夕方から本郷の湯島の鳥屋で開かれた。数人の中には、三木清および中島健蔵が含まれていた。豊島与志雄も加わっていたような気がする。忘年会といっても、一向に気勢の揚がらぬ会であった。英米を敵とする戦争は、その日から二週間ばかり前に始まっていた。(著作集12、p.11)

 自伝の常道に反して『わが人生の断片』は人生の途中(34歳)から話が始まっている。この点について清水は同書の「あとがき」で次のように述べている。

 あれは何年頃であったろうか。編輯部から自伝の連載を依頼された時、私は引き受ける気持ちが全くなかった。…(中略)…私は自伝の執筆を断った。しかし、断った後も、編輯者は何度となく慎重且つ執拗に執筆を勧めた。何度となく勧められているうちに、仮に私が書くとしたら、何処で生まれて、如何なる学校に通って、という調子の通史(?)ではなく、幾つかのトピックスを中心に書くほかはない、と私は考えるようになった。売文業者の癖で、多少とも読者にとって-或いは、私自身にとって-興味のありそうなことだけを書こうという謂わばサービス精神のようなものが頭を擡げて来たのである。それと同時に、仮に書くとしたら、最初に取り上げるトピックは、私の出生などではなく、戦争中の経験でなければいけない、と私は思った。理由はなかった。ただ駄々っ子のように、そう私は思った。思っただけならよかったのだが、それをウッカリ口に出し、「勿論、それで結構です」と編輯者が答えたところから自伝の連載が始まることになった。(著作集、pp.496-497)

 出生からではなく、戦争中の経験から書き始めることに「理由はなかった」というのはもちろんレトリックである。「何処で生まれて、如何なる学校に通って、という調子の通史」をすでに清水は2冊書いているのだ。屋上屋を架すべからず。3冊目の自伝は前の2「冊の自伝との重複を避け、前の2冊の自伝の終わりの部分に相当する戦争中の話から書き始めようと考えたのは、「売文業者」としてはむしろ自然な発想であったろう。開戦の年から始まった物語は敗戦の翌年まで続き(第1部)、そこで一旦中断し、出生から開戦までの物語が挿入され(第2部)、その後で、敗戦の翌年からの物語が再開して1960年の安保闘争の敗北の直後で終わる(第3部)。『わが人生の断片』はこういうちょっと変わった構成になっている。

 第2部、すなわち前の2冊の自伝ですでに語られている時期に関して、『わが人生の断片』で初めて語られるエピソードというものは非常に少ない。前の2冊の自伝の読者にとっては「お馴染みの話」が続く。だから、これも一種のサービス精神の現れと見るべきであろうか、『わが人生の断片』には記憶の細部にこだわる傾向が見られる。たとえば、東京高等学校に願書を出しに行ったときの記述はこうなっている。

 東京高等学校は、鉄筋コンクリート三階建、東京府下の中野にあった。近くには武蔵野の雑木林や田圃があった。大正十四年に入ってからの或る日、私は、宮地敬三という同級生を誘って、一緒に願書を出しに行った。広い校庭を囲む土堤に雪が残っていた。その雪の中へ、私は「エアシップ」の吸殻を捨てた。煙草は一年ばかり前から吸っていた。(著作集14、p.1961)

『私の読書と人生』にはこの日の記述はない。「大正十四年に東京高等学校に入学した」とあるだけである。『私の心の遍歴』には記述があるが、「願書を出しに行ってみると、予想通り、志願者は非常に少数でした。私は、ひとり、ホクホクしていました」という調子のものである。雪の中に「エアシップ」を捨てたというのは、生活史的事実としてはさして重要ではない。しかし、文学的には-「私小説的には」というべきか-印象的な情景であり、文章に生気を与えている。一緒に願書を出しに行った同級生の名前をわざわざフルネームで記している点にも細部へのこだわり、リアリティへのこだわりが感じられる(以前の記事で「易者」をめぐるエピソードの記述の異同の問題を取り上げて、3冊目の自伝の記述が事実なのであろうと結論付けた理由がここにある)。

 細部へのこだわりの他に、もう1つ、『わが人生の断片』の特徴として、アクチュアルな問題への言及ということがある。清水は個人的なエピソードを語りながら、戦後の日本社会の諸問題(それらはやがて評論集『戦後を疑う』において正面から取り上げられることになる)にしばしば言及する。たとえば、中学時代のドイツ語の授業でドイツ語のアルファベットもまだろくに覚えないうちから動詞の主要変化形(アーベルボー)を毎時間合唱させられ、生徒たちはそれを体で覚えたというエピソードが紹介された後で、清水はあまりに民主主義的なりすぎた戦後の教育の批判を始める。

 ドイツ語だけの話ではない。どんな教育でも、或る段階においては、また、或る側面においては、必ずアーベルボーの合唱や暗記のようなところがなければならない。理屈抜きの、有無を言わせぬところがなければならない。それがないと、教育というものの底が抜けてしまう。…(中略)…個性とか創造性とかいうのは、肝腎の伝達が確実に行われた後のことで、子供の個性を口実にして肝腎の伝達を怠ったら、それはもう教育とは別のものになってしまう。人間の教育は、或る段階および或る側面において、必ず犬の調教と同じようなところがある。もし人間が犬よりも大切な動物であるならば、人間の教育は、犬の場合よりも徹底的に行われねばならぬ。正しく調教されていない犬は、飼主にとって不幸であり、近所の人にとっても不幸であるが、とりわけ、犬自身にとって不幸である。同じことは人間についても言える。数年前に学習院大学を退いてから、私は、国電の車内でしか学生を見ていないが、座席に浅く腰かえて、寝そべったような姿で漫画本を読んでいる彼らは、調教されなかった犬のように思われる。(著作集14、pp.152-153)

 このように『わが人生の断片』には自伝の形式を借りた社会批評という趣がある。こうしたスタイルの背景には「清水研究室談話会」の存在がある。清水は1969年3月(62歳)に学習院大学を退職し、新宿区大京町のマンション(一階は野口英世記念館になっている)の一室に清水研究室を開設したが、そこで月に一度「談話会」がもたれるようになったのは、研究室開設半年後のことである。「談話会」は清水の孤独を癒す社交の場であると同時に、彼が再び論壇の表舞台に復帰するための下稽古の場所となった。

 1973年9月から翌年6月までの「談話会」は「戦後教育批判シリーズ」と呼ばれている。シリーズの最終回の報告者となった清水は「戦後教育の崩壊について」という刺激的なタイトルで話をした。この話は『中央公論』1974年11月号に「戦後の教育について」という穏やかなタイトルで掲載され、大きな反響を呼んだ。先ほど引用したアーベルボーの話は『諸君!』1974年3月号に掲載された分からのものである。すわなち「談話会」で「戦後教育批判シリーズ」が展開されている最中、しかも清水が「戦後教育の崩壊」について話す数ヶ月前に書かれた原稿である。自伝の執筆時の状況が自伝の内容に反映することの顕著な例といえよう。

 「戦後の教育」についての大きな反響のかなりの部分は、文章の内容それ自体よりも、それを書いたのがかつての進歩的文化人の代表的存在であった清水幾太郎であったことに由来する。自伝というものは人生の転換点に書かれるべきものであるというのが清水の持論であるが、『わが人生の断片』は確かにその実践であったわけである。

|

2006年3月30日 (木)

4年3ヵ月の影響

 『私の読書と人生』と『私の心の遍歴』が相互補完的、双生児的な関係にあり、2冊で1冊の自伝と考えられるものであることは昨日述べた。しかし、2冊の自伝を隔てる数年の歳月は、2冊目の自伝の内容に微妙な影響を与えることになった。

 『私の心の遍歴』に「あこがれの避暑」という章がある。そこには小学校3年のときに経験した福島県横向温泉での出来事が詳しく書かれている。身体によいからと知り合いの医者の一家に誘われて、9歳の清水は親元を離れて一夏を山奥の温泉宿で過ごすことになった。両親は心配したが、清水は温泉宿での避暑というものにわくわくしていた。しかし期待は見事に裏切られた。

 宿について、いろいろな事情が判って来るにつれて、私は自分の立場がないことに気がつきました。この宿にいる人間は、滞在客か、医者の家族か、その使用人か、この三種類なのです。私だけはそのどれにも入らないのです。私は、宿料を払うお客ではありません。むしろ、朝と午後、お客の部屋へ、お茶と梅干しとを運ぶのが、いつの間にか、私の仕事になっていました。私はお客ではありません。また、私は医者の家族と同行しては来たものの、勿論、この家族の一員ではありません。…(中略)…そして、私は使用人でもないのです。使用人は私に向かってゾンザイな言葉を使いはしますが、自分たちの仲間とも見ていないようです。私は、一体、何者なのでしょうか。私はどこにいても邪魔なような気がしてきました。(著作集、pp.280-281)

 さらに悪いことに、横向温泉の気温は東京に比べて大変低かったために、清水は風邪を引いてしまい、百日咳のような深い咳が絶えず出るようになった。清水は、ただただ心細くて、東京に帰ることばかり考えていた。結局、2週間あまりが経過した頃に、息子の境遇を人づてに知った父親が迎えに来てくれたおかげで、清水はようやく東京に帰ることができた。この体験は清水にとってのトラウマとなった。

 他人の目から見れば、これは誠に小さな事件です。けれども、九歳の私にとっては、実に大きな事件でした。これは、後に関東大震災に遭ったり、徴用員としてビルマへ連れて行かれたりしたのに劣らぬ大事件でした。この大事件のために、私は一層臆病になってしまったようです。ウカウカと見知らぬ世界へ踏み込んだら、どういうことになるか、それを身にしみて感じたのでしょう。とにかくすっかり臆病になりました。…(中略)…無事東京へ帰りはしたのですが、どうしても、それが夢のように思われてならないのです。まだ、横向温泉の玄関脇の一室に寝ているのではないか。それが恐ろしくて堪りませんでした。父にも母にも黙っていましたが、毎朝の恐怖は、三年間ばかり、つまり、小学校を卒業するまで続きました。今でも、時々、横向温泉の夢を見ます。(著作集10、pp.283-284)

 不思議なのは、「関東大震災に遭ったり、徴用員としてビルマへ連れて行かれたりしたのに劣らぬ大事件」とあるが、震災や徴用の話が3冊の自伝全部で取り上げられているのに対し、この横向温泉の一件は『私の心の遍歴』にしか出てこないことだ。これはなぜだろうか。震災や戦争が清水個人にとってのみならず日本の社会全体にとっても大事件であるのに対して、横向温泉の一件はあまりに個人的な事件であるためだろうか。そういうこともあるかもしれない。しかし、それだけでは説明にならない。そもそも自伝とは個人的な出来事を書くものであるし、横向温泉の一件があまりに個人的な出来事であるために他の2冊の自伝では語られなかったとするなら、なぜ『私の心の遍歴』ではそれがあえて語られているのかが逆に問われなければならないだろう。

 私の仮説はこうである。横向温泉の一件が『私の心の遍歴』で大きく取り上げられたのは、「ウカウカと見知らぬ世界へ踏み込んだら、どういうことになるか、それを身にしみて感じた」経験が『私の心の遍歴』を執筆していたときの清水にもあったのではないか。それが最初の自伝では封印されていたトラウマチックなエピソードと共鳴し、その封印が解かれたのではないか。『私の心の遍歴』執筆時に清水が深くかかわっていた平和運動には、活動の華々しさの裏側に、横向温泉の一件を連想させるような負の側面があったのではないか。清水の3冊目の自伝『わが人生の断片』の中に次のような記述がある。

 私は再び孤独になり悲壮になって行った。昭和二十五年の秋、平和問題談話会が事実上の解散を行い、私は、自分だけがポツンと取り残されたように感じ、孤独になり悲壮になっていたが、その私に声をかけてくれたのは、総評および左派社会党であった。私は俄に見方を得たように思い、先方は、「小さな人気者」としての私に利用価値を見出していたのであろう。しかし、何回か内灘村へ通っているうちに、腑に落ちないことが次第に殖えてきた。けれども、平和問題談話会の場合は、仲間が同じようなインテリで、みな政治の素人であったが、今度は、周囲にいるのは政治の玄人ばかりで、私だけが素人である。何事につけても、私は、自分の経験の狭さということを先ず考え、政党は、私などの知らぬ沢山の仕事を抱え込んでいるのであろう、手が廻らないのであろう、と考えてきた。しかし、いくら謙虚な態度を取ったつもりでも、腑に落ちない問題が残ってしまう。平和問題談話会によって宣言された、軍事基地絶対反対という道を真直ぐに歩いていこうとすると、それを三原則の一つに掲げた左派社会党の人々からも離れてしまうのではないか。二年ばかり前の孤独で悲壮な気持ちが再び戻ってきた。(著作集14、p.368)

 清水の人生は、本来は非党派的な人間が、さまざまな党派の間を遍歴した人生である。だから清水はいつもそのとき属している党派と自分との距離に敏感であった。「仲間外れ」や「孤独」ということに敏感であった。清水は『中央公論』1954年1月号に「わが愛する社会党左派について」を書き、左派社会党の運動方針を批判し、批判された左派社会党は『中央公論』2月号に「清水幾太郎氏の愛情にこたえて」を載せて清水を反駁した。「あこがれの避暑」の章が『婦人公論』1954年5月号に掲載されたのは、清水と左派社会党との間でこうした応酬が行われた直後のことであった。

|

2006年3月29日 (水)

再度の自伝を書く理由

 二冊目の自伝『私の心の遍歴』が出版されたのは『私の読書と人生』の出版から6年3ヵ月後の1956年1月である。しかも、『私の心の遍歴』は書き下ろしではなく、『婦人公論』に1954年1月から翌年12月まで連載されたものを単行本にしたものだから、実質的には最初の自伝の出版からわずか4年3ヵ月後に2冊目の自伝の執筆に着手したことになる。自伝を2冊書くこと自体が普通のことではないが、その間隔が4年3ヵ月というのは尋常ではない。

 ここからすぐに予想されることは、『私の心の遍歴』は『私の読書と人生』の二番煎じ、焼き直しであろうということだが、それはおそらく、『私の心の遍歴』の連載を開始するにあたって清水が一番避けたかったことであろう。自分のことをしばしば「売文業者」と称していた職人気質の清水にとって、「同じものを二本書いた」と言われることは不名誉この上ないことである。もちろん一人の人間が二つの人生を生きてきたわけではないから、内容に重複が見られるのは当然である。しかし、『私の心の遍歴』には『私の読書と人生』とは別の側面から自分の人生を語ろうとする方針がはっきりと見てとれる。すなわち、『私の読書と人生』が学校経歴と職業経歴を軸として展開されていたのに対して、『私の心の遍歴』は家族経歴の記述にかなりの分量が割かれている。最初の自伝では十分に語られていなかった家族の物語(子供時代の暮らしぶり、妻との出会い、父親の死、娘の誕生など)が、2冊目の自伝では存分に語られている。

 清水が『私の心の遍歴』で家族の物語を語ったのは、第一に、『婦人公論』の読者を意識したためであろう。自伝の書き手はたんに自分が書きたいことを書くのではなく、読者が関心をもつであろうことを書くのである。これはライフストーリーのインタビュー調査の場合も同様で、聞き手がいくら「自由に語って下さい」と注文しても、語り手は自分の話に対する聞き手の反応に敏感である。もちろんこのことは清水が心ならずも私生活を語ったということではない。第二に、むしろ清水は家族の物語を語りたかったのであろう。『婦人公論』から注文があったから家族のことを語ったというよりも、家族のことを語りたかったから『婦人公論』の注文に応じたと考えるべきだろう。いずれにしろ2冊の自伝は相互補完的な関係、双生児的な関係にあり、両者を併せて、出生から30歳代の終わり(終戦直前)までの1冊の自伝と見ることができる。

 『清水幾太郎著作集』の編集責任者、清水礼子は『私の心の遍歴』の装幀についてこう語っている。

 一七・一センチメートル、一〇・六センチメートルという大きさは、分類を施せば新書版に入る。しかし、他の新書に比べると縦が二ミリメートル短く、横が六ミリメートル広いためか、安定感のある本である。少し和紙に似た紙を使い、天に化粧裁ちを施さず、角に微かな丸みを与えていることも、穏やかな落ち着きを生み出しているのかもしれない。表紙は恩知孝四郎、カヴァーは大和春穂のデザイン。カヴァーは、象牙色の地に柔らかな中間色を用いて、表側に一三、袖の部分に三つ、合計一六のカット風の小さな絵を配している。ISというイニシアルの読める太い古風な万年筆、紐の付いたインク瓶、編上げのドタ靴、角帽、銀杏の葉、鉄砲、木製のベンチ、裸電球の下に並んだ本、市電、土手の土筆・・・・・・。黒い華奢な明朝体で刷られたタイトルの中で「心」という文字だけが原色の赤で浮かぶ。『私の心の遍歴』の内部に一度深く潜った末でなければ生まれるデザインであり、著者の作品を包んだ夥しいカヴァーのうちで、最も優しい温かい雰囲気を持つものである。(著作集10、解題、p.450)

 私は古本屋で『私の心の遍歴』を探しているが、いまだ見つかっていない。三刷まで出た本なので、とくに初版本でないとならないということはない。ただし、カヴァーが付いていないものは駄目である。

|

2006年3月28日 (火)

自伝を書く理由

 清水幾太郎の最初の自伝『私の読書と人生』(要書房、1949年)は、そのタイトルからわかる通り、自身の読書遍歴を語るという体裁をとっている。清水は「序」で次のように述べている。

 読者は三木清の「読書遍歴」といふ文章を知つているであらう。私は本書を書き綴る時、何時もこの文章が念頭にあつた。あの文章は、三木清が、正に読むべき書物を、選ばれた時期に、而も正しい方法を以て読んだことを告げてゐる。だが、私の場合は、手当たり次第の書物を、時を選ばずに、而も専ら焦燥を方法として読んで来たに過ぎぬ。(著作集6、p.362)

 三木清は戦前・戦中の論壇のスターであった。清水は三木(のような知識人)に憧れ、三木のような文章を書きたいと願った。実際、『社会と個人-社会学成立史-』(刀江書院、1935)の文体には三木の文体の模倣の跡が見られる。戦後、三木のいなくなった論壇で、清水は三木の後継者と目されていた。清水は『私の読書と人生』を綴りながら、自分を三木に重ね、かつ二人の気質の違い(三木の古典主義的=自己確認的読書遍歴と、清水のロマン主義的=自己形成的読書遍歴)を意識していた。

 『私の読書と人生』が出版されたとき、清水は42歳だった。42歳という年齢は、社会通念上、自伝の執筆年齢としては少々早い感じがする。事実、「まだ若いくせに、こんな本を書くのは老成ぶった気取りである」というようなことを周囲から言われたそうである。

 あれは今から考えても、かなり不愉快なことでした。確かに、老人になってから自伝的なものを書くというのが一般の慣習でしょう。しかし、私は信じているのですが、自伝的なものを書くことは、年齢とはあまり関係の仕事だと思うのです。(『私の文章作法』中公文庫、pp.182-183)

 私は清水の最初の自伝が「年齢とはあまり関係のない仕事」だったとは必ずしも思わない。「自伝を書くのは老人になってから」という通念は、老年という時期を自分の人生に想定できない者、すなわち自分を短命な人間と考えている者には有効なものではない。清水は病弱な子供時代を送り、「この子は育つまい」と親類の者から言われ続け、長じてからも親しい医者から「君は30歳までは生きないだろう」と言われていた。この病弱な体質は遺伝的なものだったようで、清水の父親は49歳で亡くなったが、それでも4人兄弟のうちでは一番長命であった。また、清水は長男だが、次男は1歳で亡くなり、三男は29歳で亡くなっている。「30歳までは生きないだろう」という医者の予言と、父親が49歳で死んだという事実から、42歳という年齢は清水にとって十分に「老年」であったはずである。その意味では「自伝を書くのは老人になってから」という通念は、清水にとっても有効であったといえるかもしれない。

 とはいえ、ここでは自伝を書くことが「年齢とはあまり関係のない仕事」だったとする清水自身の解釈に従うことにしよう。では、一体何と関係があったのだろうか。

 どうして私は『私の読書と人生』を書く気になったのでしょうか。それを聞かれても、当時は、答えようがなかったと思います。答えは、それから何年か経って判ってきました。後から振返って気がついたのですが、あれを書いた昭和二十四年という年は、第一に、或る偶然の事情かで、私がジャーナリストの長い生活から、なろうと思ってもいなかった大学の教師の生活へ飛び込んだ年です。第二に、これも偶然の事情で、無責任な売文業者から、柄にもなく、平和を目指す政治運動に飛び込んだ年です。大学教授の方は、それから昭和四十四年まで二十年間、政治運動の方は、昭和三十五年の安保闘争の直後まで十三年間ばかり続きました。世間の人たちから見れば、どれも大したことではなかったでしょう。しかし、私自身にしてみますと、あの年、無意識ながら、或る新しい地点に立ったという気持ちであったに違いありません。そして、この新しい視点から自分の過去を眺めてみようという気分になったのでしょう。(前掲書、pp.184-185)

 自伝が人生の転換期に書かれるというのは、ちょうど時代の転換期に歴史への関心が高まるのと事情が似ている。自伝の効用という表現を用いるならば、それは単に過ぎ去った過去を懐かしむということではなくて、人生の転換点に立って、自分がこれまで歩いてきた人生を再認識する作業を通して、これから歩いていこうとする人生の方向を確認するということである。その意味で、ライフストーリーはライフプランニングと表裏一体である。

|

2006年3月27日 (月)

自伝の変容

 清水幾太郎は生涯に3冊の自伝を書いている。最初の自伝が『私の読書と人生』(要書房、1949、42歳)、2冊目の自伝が『私の心の遍歴』(中央公論社、1956、48歳)、そして3冊目の自伝が『わが人生の断片』(文藝春秋、1975、67歳)である。

 昨日紹介した「易者」のエピソードは3冊の自伝すべてに出てくる。昨日の引用は最初の自伝からのものだが、2冊目の自伝ではこうなっている。

 インテリになりたい。そう思い詰めていた或る日、私はひとりの占者を訪ねました。彼は、私の顔をつくづく眺めて、「医者になれば、直ぐ金持になって、直ぐ博士になれる」と言いました。(『私の心の遍歴』、著作集10、p.291)

 最初の自伝より記述は簡略だが、骨子は同じである。ところが、3冊目の自伝ではこうなっている。

 大正九年に入ってからの或る日、何の用事であったのか、私は、本所の或る洋品屋の店先に腰かけていた。易者は、大きな天眼鏡を袋に入れながら、「医者になりなさい」と私に言った。その店へ私が行ったとき、彼は先に来ていた。なぜか私に興味を持って、天眼鏡を取り出して、私の顔をつくづく眺めた末、彼はそう言った。(『わが人生の断片、』著作集14、p.146)

 1冊目と2冊目の自伝では、自分から易者を訪ねた、とある。しかし、3冊目の自伝では、易者との出会いは偶然であり、しかも、易者の方から彼に接触してきた、と書かれている。これは大きな違いである。異同の理由はいくつか考えられる。

 第一は、記憶の変容。時間が経つと記憶内容が変化することはわれわれも日常しばしば経験することである。しかし、「易者」のエピソードの場合、記憶の変容によって異同を説明することには無理があるように思う。なぜなら、前の2冊の自伝は3冊目の自伝を書くときに手元にあるわけだから(実際、同じエピソードを以前とまったく同じ言い回しで語っている箇所が『わが人生の断片』には散見さえる)、もし勘違いして書いても後から気付くはずである。

 第二は、正確な記憶が蘇った(1冊目と2冊目の記述が誤り)。私は心理学の専門家ではないので断定的なことは言えないが、13歳のときの出来事の記憶が40代では不正確で60代ではっきりするというのはありそうもない話である。

 第三は、ドラマチックに脚色した(1冊目と2冊目の記述が事実)。人生の転機における偶然的要素の強調というのはありそうな話だ。しかし、最初の自伝ならいざしらず、以前の記述との矛盾を指摘されることを承知の上でそういうことをするものだろうか。

 第四は、脚色するのを止めた(1冊目と2冊目の記述に脚色があった)。私はこの説を支持する。自分から易者を訪ねたというのは人生の転機における主体性を強調するための脚色-それがどの程度意識的に行われたものであるかは別として-だったのではないか。おそらく清水は最後の自伝のつもりで3冊目の自伝に取り組んだはずである。とすれば、以前の記述との矛盾を指摘されることを覚悟で、できるだけ記憶(主観的事実)に忠実な記述を心がけたとしても不思議ではないだろう。

 「語りの時点が異なると語られる内容も変化する」というライフストーリーの特性は、口述生活史の研究者には周知のことである。しかし、口述生活史の調査期間は短いもので数日、長いものでも数年である。したがって、そこで起こる語りの変容の多くは、対象者の置かれている状況が大きく変化した結果というよりも、むしろ語りを繰り返すことで記憶の細部が甦ったり、語り手と聞き手の関係がより親密になってそれまで語ってくれなかったことを語ってくれるようになった結果である。語り手自身の変化によって引き起こされるライフストーリーの変容を検証するためには、同一人物について人生の異なる時期に収集された(書かれた)複数のライフストーリーが必要とされる。そうした資料はめったにない。清水の3冊の自伝はその稀有な例である。

|

2006年3月26日 (日)

易者

 新聞の「身の上相談」が自然主義小説における「告白」の庶民版であることは昨日述べたが。新聞の「身の上相談」には別の源流もある。それは江戸の町角にいた大道易者である。町人たちは悩み事や迷い事を易者に相談した。そこには相談者と回答者の二人しかいないから、相談者と回答者の他に編集者と読者が存在する「身の上相談」とは構造的には違うものなのだが、江戸の庶民にも人生問題はあったということは忘れてはいけない。ただし、問題は-シャレではないが-人生問題の内容であり、語られ方なのである。

 清水幾太郎の自伝には人生問題を易者に相談するエピソードが出てくる。

 やがて私は小学校を卒業したが、それからどうするという見当もついていないので、或る人の勧めるままに、神田の某商業学校に入った。今日と同様、その頃の私も実に軽率であった。商業学校に入ったものの、毎日の簿記と珠算とに閉口して、というより、学校の空気に愛想をつかして、一学期が終わらぬうちに退学届けを出してしまった。やがて夏休みになる頃から、どこかの中学校に入ろうと考え、方々の中学の受付を訪れてみたが、誰も真面目に相手をしてはくれない。仕方ないので、二学期から日本橋の高等小学校に入れて貰った。勿論この学校を卒業するという気持ちはなく、三学期を終えたら中学へ行こうと考えていた。私が或る易者を訪れたのも、やはりその頃であったろう。彼は私の顔をつくづくと眺めて、医者になる方がよい、直ぐ博士になって、直ぐ金持になる、と断言した。そこで私は、当時医者を志望するものが集まっていた独逸学協会学校中学へ行こうと決心した。(『私の読書と人生』〔著作集6〕、p.378)

 「神田の某商業学校」とは神田仲猿楽町(現在の神保町交差点附近)にあった順天中学校の校舎を夜間に借用して開校していた東京高等商工学校のことである(現在の埼玉工業大学につながっている)。清水は昼間は家業(洋品雑貨店)を手伝いながら、夜学に通っていたわけだ。それにしても高等小学校の1年生(13歳)が進路を易者に相談したことには驚くが、当時はそれほど珍しいことではなかったのかもしれない。人生問題の相談のメディアとして易者はまだまだ現役であった。読売新聞の「身の上相談」にこんな例がある。

 私は二十七歳で、この頃結婚話がありました。従妹にあたる女ですが、私はその女の親が快諾したら結婚しようと申しました。ところがある易者に私たちの結婚を占ってもらいますと、彼女は巳年、私は土星の巳年ゆえ相性が合わぬとのこと。もし結婚すれば病人が絶えないというのです。彼女は親の許しを得たと言ってきましたが、何とかうまく断る方法はありませんか。私は易者の言葉を信じずにはいられません。(大正8年2月11日)

 易というものは個人の意志や努力とは独立に存在するその人の運勢というものを前提としている点において、前近代的なものであるように思えるが、そうであるからこそ、個人の意志や努力を強調する近代的な人生の物語と共存が可能なのである。鈴木健太郎によれば、雑誌『婦人世界』に占い記事が初めて掲載されたのは明治42年1月号のことで、こうした「占いの情報化」は大正10年頃を境に一挙に加速されていったという(「婦人雑誌と占い」、『近代日本文化論9 宗教と生活』所収、岩波書店、1999)。

 すべてが運命の決した因果律によって否応なく生起しているがごとくに、自分の身の上に生じた出来事や体験を運命の糸で結ぶことで、物語の全体に一つの必然的な流れ、因果的一貫性、不可避的連続性を与えるような語り…(中略)…を、ここでは「運命律」と呼ぶことにしよう。…(中略)…次のように考えられないだろうか。すなわち、投稿者自身が語り、またその周囲の人々によって日常的に語られる投稿者の身の上や境遇についての物語は、投稿者を悩ませ苦しめるものであり、そうした語りからの一時退却先あるいは避難所を求めて、投稿者は運命律によるオルタナティブな物語を読者という見えざる他者に向けて語り出している、と。ふだんの語り方/語られ方では羞恥や後悔あるいは自責を感じないではいられない過去の身の上や現在の境遇であっても、それを運命のなせる業として語り直すことによって、まとわりつく心理的負荷をいったん棚上げすることができる、うまくすれば無毒化も可能だ。日常的な語りの文脈では自分自身の道義的責任や落ち度あるいは人格的未熟さや弱さといったものに関連づけられてしまいがちな出来事や行為でも、運命律の文脈の中に再配置することができれば、そうした関連づけをひとまず解除し、自分をいつまでも責め苛むように、傷つけ続けるようにしむける日常の物語に潜む暴力性から身を守れる。(鈴木、pp.214-216)

 個人の意志や努力や「自己責任」が強調される時代になればなるほど、傷つきやすい近代的自我のための一種のセーフティネットとして、運勢や運命といった要因を重視する人生の物語が補完的に機能するということである。

|

2006年3月25日 (土)

身の上相談

 近代的自我の構造的特徴が外面(公的自己)と内面(私的自己)の二重構造にあるとすれば、そうして二重構造は内面を語ることを通して形成される。内面を語るとは、具体的には、他人に言えない悩みや秘密を語るということである。逆に言えば、近代的自我を持つためには悩みや秘密がなくてはならないのである。

 読売新聞の紙面に「身の上相談」が設けられたのは1914年(大正3年)5月2日のことである。以後、日中戦争から敗戦直後までの期間を除いて、「身の上相談」は現在まで続いている(現在の名称は「人生案内」)。一般の読者が個人的な悩み事、すなわち人生問題を投稿し、回答者が紙面でそれに答えるという「身の上相談」は、言ってみれば、田山花袋が『蒲団』で確立した「告白」という制度の庶民版である。文学青年たちが私小説という形式を使って行おうとしたことを、庶民は新聞の「身の上相談」において行おうとしたのである。

 当時の相談内容には、たとえば「夫が一日にミカンを20個も食べるが、何か衛生上悪いことはないでしょうか」(大正4年1月31日)というような、われわれから見て「これが人生問題といえるだろうか」と思えるものが混じっている。反対に、たとえば「毎日毎日閑散な日を過ごすのは、何だか自然の道に背くような気がして、罰があたりはせぬかと良心に恥ずることもあります」(大正6年11月15日)という34歳の主婦からの相談のように「専業主婦の憂鬱」としてわれわれにはお馴染みのものが、「これはまた珍しいお尋ねですね」と回答者によって新種の人生問題として扱われていることもあった。

 端的に言えば、「身の上相談」は個人的問題が人生問題として社会的に承認される場所であった。相談者はただ単に自分が困っている問題を相談するのではなく、「身の上相談」が取り上げてくれるであろう問題を相談する。新聞社は相談をランダムに採用するのではなく、「身の上相談」で取り上げるに相応しい問題を採用する。回答者は個々の相談への回答がその場限りの特殊のものではなく、同種の相談に対して繰り返し適用可能な一般性のある回答をする。読者は相談者と回答者のやりとりを対岸の火事を見物するように読むのではなく(そういう面もあるが、それだけでなく)、自身の人生問題への対処の参考にしようとして読む。こうした相談者、新聞社、回答者、読者の協同作業の産物として、その時代、その社会における人生問題が構築されていく。

 ちなみに読売新聞が「身の上相談」を始めるよりも12日早く(4月20日)、ライバルの東京朝日新聞では夏目漱石の『こころ』の連載が始まっている。人生問題への高まりが時代の趨勢であったことを物語る符号の一致といえよう。

|

2006年3月24日 (金)

中年の危機

 明治30年代に高学歴の青年たちの間で起こった人生問題ブームは、やがて非高学歴の青年たちや、青年ではない人々(成人男女や少年少女)の間にも、浸透していった。人生問題が広く世間一般の人々の間に浸透していったルートの1つは、明治40年代に台頭してきた自然主義の小説である。

 田山花袋の『蒲団』の冒頭近くで、主人公の竹中時雄(=花袋)が直面している人生問題が語られる。

 今より三年前、三人目の子が細君の腹に出来て、新婚の快楽などはとうに覚め尽くした頃であった。世の中の忙しい事業も意味がなく、一生作(ライフワーク)に力を尽くす勇気もなく、日常の生活-朝起きて、出勤して、午後四時に帰って来て、同じように細君の顔を見て、飯を食って眠るという単調なる生活につくづく倦き果てて了った。家を引越歩いても面白くない、友人と語り合っても面白くない、外国小説を読み渉猟っても満足が出来ぬ。いや、庭樹の繁り、雨の点滴、花の開落などという自然の状態さえ、平凡なる生活をして更に平凡ならしめるような気がして、身を置くに処が無いほど淋しかった。道を歩いて常に若い美しい女、出来るならば新しい恋を為たいと痛切に思った。

 三十四五、実際この頃は誰にでもある煩悶で、この年頃に賤しい女に戯るるものの多いのも、畢竟その淋しさを医す為めである。世間に妻を離縁するものもこの年頃に多い。

 出勤する途上に、毎朝邂逅(であ)う美しい女教師があった。渠(かれ)はその頃この女に逢うのをその日その日の唯一の楽しみとして、その女に就いていろいろな空想を逞うした。恋が成立って、神楽坂あたりの小待合に連れて行って、人目を忍んで楽しんだらどうだろう・・・・。細君に知れずに、二人近郊を散歩したらどう・・・・。いや、それどころではない、その時、細君が懐妊しておったから、不図難産して死ぬ、その後にその女を入れるとしてどうかなどと考えて歩いた。(新潮文庫版、pp.11-12)

 ここに描写されている主人公の心理は、現代社会における「中年の危機」そのものである。30代半ばを「中年」と呼ぶには早過ぎると思うかもしれないが、当時と現代の標準的な人生の長さの違い考慮するならば、当時の30代半ばはすでに「中年」である。主人公が出勤の途中で見かける美しい女教師を、ダンス教室の講師に替えれば映画『Shall we ダンス?』になるであろう。竹中時雄の煩悶は藤村操の煩悶と比べればあまりに通俗的である。『蒲団』の功績、一般に自然主義の小説の功績の一つは、凡庸な人生問題を赤裸々に述べることでそれに市民権を与えたことである。普通の人生の普通の悩みではあっても、それは語るに価する悩みであることを、自然主義の小説は示したのである。すなわち人生問題の大衆化である。

|

2006年3月23日 (木)

人生問題

 社会の近代化(工業化、都市化)に伴って生まれたのは社会問題だけではなかった。個人の平面における人生問題の誕生も注目すべきできごとである。人生問題とは「いかに生きるべきか」という問題である。ハムレットは「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」と言ったが、「生きるべき」を選択した後でも、「いかに生きるべきか」の問題は依然として残るのである。「いかに生きるべきか」ということが問題になりえるのは、第一に、「生き方」の選択肢が存在すること(選択肢が存在しなければ選択の問題は生じない)、第二に、ある「生き方」を選択したからといって必ずしもそれを実現できるとは限らないこと(社会的資源の多寡や個人の能力の有無のために)、第三に、同じ問題で悩む人々が一定数存在すること(そのとき初めて人生問題は個人の水準を超えて時代の問題になる)といったことが背景になければならない。日本おいてそうした条件が整い、人々、とくに若い人々の間で、人生問題の流行が起こるのは明治30年代に入ってからである。一高の秀才、藤村操は人生問題が原因で自殺した最初の人間ということになっている。1903年(明治36年)、華厳の滝から投身自殺をするにあたって、彼が書いた遺書(厳頭の感)は有名である。

 万有の真相は唯一言にして悉す曰く「不可解」。我この恨を懐て煩悶終に死を決するに至る。既に厳頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。初めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。

 当時、一高で藤村と同学だった岩波茂雄は、1942年(昭和17年)に大東亜会館で催した「回顧三十年感謝晩餐会」の挨拶の中で次のように言っている。

 私の一高時代は、所謂人生問題が青年の最大関心事で、俗に煩悶時代と云われた頃でありまして、畏友藤村操君の死が、私共青年に与えた衝撃は、実に大なるものがありました。私共は君を勝利者の如く考えて讃歎し、自分の如きは美に憧るる純情が足らず、真剣さが足らず、勇気が足らざるが故に死の勝利を贏ち得ず、敗残者として生きているのだとさえ考えたのであります。…(中略)…名を後世に掲げるというような、それまでの立身出世主義の人生観は魅力を失い、寧ろこれを蔑視するようになりましたが、同時に勉学の目的をも見失って、一時私は学業さえ放擲したのでありました。(『図書』1942年12月号)

 立身出世主義は「いかに生きるべきか」に関する近代日本の公式見解であった。それは五箇条の誓文の中の一項、「官武一途庶民二至る迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」にすでに表明されていた。国民ひとりひとりが人生の目標(志)を立てその実現に不断の努力をする生き方である。その目標が垂直に高く掲げられるとき、立身出世という生き方になる。しかし明治30年代後半の青年たちの一部はそうした生き方に懐疑のまなざしを向けるようになっていた。彼らの多くは学歴的にはエリートで、しかし、理系ではなく、文系の中でも法律や政治といった社会的関心と結びついた学問ではなく、哲学や文学といった実社会とは距離を置いた学問に向かう傾向があった。立身出世主義への反感がそうしたコースを選ばせたのか、立身出世のメインストリートから落ちこぼれてしまった挫折感が立身出世主義への嫌悪を強めたのか、おそらくは相乗効果ではないかと思うが、「世の中の役に立たない」場所にいると、自身の存在価値に対して敏感になり、人生問題に悩むということも一つの能力であるから、煩悶青年は煩悶することに自身の人間としての優等性を感じていたのであろう。どんなことで悩むかにも優劣があるのである。人生問題で悩むことは自分が人生問題で悩む(ことのできる)人間であるという自己アピールでもあったのである。そして人生問題に悩む人々がある一定数を越えると、資本主義社会では、人生問題が一種の商品としての価値をもってくる。夏目漱石『こころ』や阿部次郎『三太郎の日記』や倉田百三『愛と認識との出発』などには、そうした商品としての側面が多分にあった。

 清水幾太郎は『本はどう読むか』(講談社現代新書、1972)の中で、中学卒業時に4年間級長を務めたことに対する慰労品としてもらった『合本 三太郎の日記』が自分の興味をまったく引かなかったというエピソードを語っている。

 『合本 三太郎の日記』を読んだ時期が悪かったというのは、大部分、私が自分の職業を決定した後であったためである(清水はすでに将来は社会学者になることを心に決めていた-引用注)。なぜなら、若い人間にとっては、自分の職業が決定されると同時に、人生の問題は解決されてしまうからである。もちろん、それで問題の全部が完全に解決されるということはないけれども、その大部分は解決されてしまう。…(中略)…世の中には、一生を通じて、深刻な面持ちで人生の諸問題を論じている人間が何人かいるけれども、この人たちは、そういう問題で本当に苦しんでいるのではなく、それを論じるのが、彼らの「職業」なのである。それを論じることによって収入を得て、それで家庭を支えているのである。そういう人たちのペースに巻き込まれてはいけない。(pp.46-47)

|

2006年3月22日 (水)

東都新繁昌記

 清水幾太郎の一家が両国橋を西から東へ渡ったのは1919年(大正8年)のことであったが、その前年に出版された山口孤剣『東都新繁昌記』という本がある。東京への流入人口の増大を背景として明治の終わり頃から東京案内本の類がブームになったが、そうした中の一冊で、「お役所の麹町」「書生の神田」といった具合に東京市の地域(区)ごとにその特徴を論じるという構成になっている。その見出しを借用するなら、清水の一家は「和製の日本橋」から「職工の本所」へ引っ越したのである。

 …京橋は日本橋や、神田と同じく近年殆んど戸数が一定して、著しき相違がないのに、本所、深川、浅草、巣鴨、渋谷は大速力で戸数の増加して行くのは、思ふに人間が中央から四つ隅にはみ出さんとするものであつて、其処に悲しき痛ましき生活問題が横たわつてゐる。単に大東京の膨張などと太平楽に看過するべきものではない。(『東都新繁昌記』p.122)

 清水の一家はまさに「はみ出さんとするもの」であった。山口孤剣は社会主義者で、清水が生まれた1907年に平民新聞に「父母を蹴れ」という文章を書いて逮捕・投獄され、翌年6月に出所した。その出所歓迎会が神田錦輝館で開かれたときに「無政府共産」の赤旗が掲げられて警官が介入したのが有名な赤旗事件である。この事件で、山口は、大杉栄や堺利彦や荒畑寒村とともに逮捕されるのだが、逮捕されたおかげで、入獄中に起こった大逆事件とは関わりをもたずにすんだ。大逆事件後の社会主義の「冬の時代」を山口は雑誌記者や新聞記者をしながら糊口をしのいでいたのだが、大正4年12月から大正6年2月まで大隈重信主宰の雑誌『新日本』に連載していた記事を本にしたのがこの『東都新繁昌記』である。そこには社会主義者のまなざし、生活問題=社会問題を発見しようとするまなざしが遍在している。社会問題の発生は、一方で、それを実践的に解決しようとする社会主義の台頭と、他方でそれを実証的に研究しようとする社会学の台頭とつながっている。清水は本所という社会問題のるつぼのような土地に引っ越して、その場所から、無政府主義やマルクス主義に染まりながら、東大社会学研究室につながる学問的立身出世の階段を昇っていったのである。実践的であることと実証的であること、ジャーナリスティックであることとアカデミックであること、体制外(在野)であることと体制内(講壇)であること、清水の社会学への志向には当初からアンビバレンツなものが含まれていた。

 山口孤剣は『東都新繁昌記』が出た翌年、『改造』大正8年10月号に「日本社会主義運動史」を寄稿し、「社会党の冬は去って春は来た」と書いたが、それから一年後、大正9年9月、腎臓病のため37歳で亡くなった。

|

2006年3月21日 (火)

橋を渡る

 社会移動と地域移動はしばしば連動する。「上京して一旗あげて故郷に錦を飾る」ことは近代日本人の人生の物語の典型的なモデルであった。なぜ社会移動と地域移動が連動するのかと言えば、社会的資源の分布に地域間格差があるからである。原則として、人々は社会的資源の乏しい地域から豊かな地域へ移動していく。「原則として」と言ったのは、第一に、移動を禁止ないし抑制する社会的装置が働いている場合があるからであり、第二に、社会的競争に敗れて心ならずも社会的資源の乏しい地域に移動しなくてはならない場合があるからである。

 清水の自伝には彼が小学校6年のときに経験した最初の引越のことが書かれている。

 月も日も覚えていないが、大正八年の或る日、家財道具を積んだ馬車の後について、両国橋を西から東へ渡って行った。父にとっても、私にとっても、これは最初の引越であった。単なる引越でなく、落ちて行くような引越であった。橋の中途で、妹は、「いつ日本橋に帰るの」と私に聞いたが、私は聞こえない振りをしていた。近頃は、「下町」という言葉が見境もなく用いられているが、当時の古い小さな東京では、本所でも、回向院や旧吉良邸辺りまでの、隅田川に近い地帯は、下町と呼ばれたかも知れないが、東へ進むにつれて、「場末」になる。柳島横川町は、力と富とを求めて、というよりも、生きる道を求めて東京へ流れ込んだ人たちの住んでいる地帯である。公害という言葉のない時代であったが、一日中、空気が臭かった。江戸時代からの言葉や趣味や人情を探す方が馬鹿で、そこに住む人々は、各地の方言や風習を無遠慮に持ち込んでいた。(『わが人生の断片』著作集14、p.145)

 この引越は、竹屋という時代遅れの商売がいよいよ立ちゆかなくなった一家が、洋品雑貨の商売を始めることに伴うものであった。清水幾太郎は没落士族の末裔として下町(庶民の世界)に生まれたが、そこから一直線に山の手(インテリの世界)を目指したのではない。清水の学問的立身出世は、場末(貧民の世界)を経由した、貧しさからの脱出を目的としたものであった。

 両国橋の名称はそれが武蔵と下総という二つの国の間に架かるものであるところから来ているが、一般に、「橋」は二つの異質な世界を繋ぐもののメタファーである。部落差別を主題とした住井すゑの小説のタイトルは『橋のない川』であった。橋のないことは絶望的だが、橋が架かっていることも人生の喜怒哀楽の原因となる。将棋の十四世名人木村義雄の自伝の書き出しは次のようなものである。

 十二歳の少年が、父に連れられて、両国橋を渡った。(『将棋一代』)

 木村義雄は1905年の生まれ。清水よりも2歳年長である。生まれた場所は東京本所。父は下駄屋を営んでいた。木村が父に連れられて両国橋を渡ったのは柳橋から浅草橋へ向かう通りの角の網船屋の二階に住んでいた井上義雄八段のところへ入門を申し出るためであった。結局、木村は井上八段ではなく関根八段(後に十三世名人)の通い弟子になるのだが、「両国橋を渡った」ことは木村の立身出世物語の冒頭にもってくるに相応しいエピソードだったのである。清水が両国橋を木村とは反対方向の「西から東へ」渡ったのは、このエピソードから3年後のことであった。

 両国橋ということで、ついでに言えば、山本周五郎の小説『さぶ』の書き出しは次のようなものである。

 小雨が靄のようにけぶる夕方、両国橋を西から東へ、さぶが泣きながら渡っていた。

 小川町の経師屋「芳古堂」の奉公人であるさぶが、おかみさんに叱られて、店を飛び出し、葛西の実家に帰ろうとしている場面である。「橋を渡る」という行為にはさまざまなドラマがある。

|

2006年3月20日 (月)

立身出世

 「清水幾太郎と彼らの時代」のキーワードの一つは「立身出世」である。

 立身出世とは、社会学の言葉で言い換えれば、社会階層間の上昇移動である。社会的資源(お金、権力、権威、知識、愛情、時間、健康的な環境など人々の欲望の対象となるもの)が社会のメンバーに不平等に分配され固定化されている状態を社会階層と呼ぶ。社会階層は古来から存在するが、近代社会の特徴は階層間の移動が正当化されるとともに、実際に階層間の移動が活発になったことである。階層間の移動は、学校教育を経由して、職業選択や配偶者選択を契機として起こり、その際、地域移動を伴うことが多い。階層間の移動は一人の人間の生涯の中で起こることもあれば(世代内移動)、親と子の間で起こることもある(世代間移動)。人は自身の立身出世ばかりでなく、配偶者や子どもの立身出世も願う。こうして近代社会の人生の物語は立身出世(成功)というテーマをめぐって編成されることになる。「大きくなったら何になる?」という問いは近代社会の子どもたちに固有な問いである。子どもたちは大人から繰り返しこの質問を受け、それに答えることを通して、人生とは何かになる過程であるという感覚を内面化していく。その日その日を漫然と生きることではなく、将来に目標を設定し、その実現に向けて努力することが人生というものなのだと考えるようになる。自伝というものがすぐれて近代の文学のジャンルであることの理由がここにある。

 清水幾太郎の二冊目の自伝『私の心の遍歴』に小学生の彼が「リン」と呼ばれる竹を立てかけておく場所(清水の家は竹屋という商売を営んでいた)に登る場面が出てくる。

 私が子供であったせいか、リンは非常に高いものに思われました。小学校へ入ってからは、時々、このリンの天辺まで登ってみました。或る高さまでは、ギイギイとしなう長い梯子で登れるのですが、それ以上は、リンに縋って登らればなりません。天辺まで登ると、何でも見えます。そして、何という明るさでしょう。正面の小学校の高い建物は目障りで困りますが、少し方向を変えると、平常は仰ぎ見るような建物が、一つ残らず、私の眼下にあります。銀行も会社も大商店もお屋敷も、すべて私の眼下にあります。無数の家々の屋根を越えて、直ぐ目の前に、日本橋の三越が見えます。私は、幾度か、このリンへ登って、快哉を叫びました。黙っていようとしても、明るい叫び声が腹の底から出て来てしまうのです。何でも見えるのです。何も彼も明るいのです。私は、竹屋という商売に大きな誇りを感じていました。(著作集10、pp.238)

 清水の家は昔から竹屋であったわけではない。祖父は旗本であった。その祖父(天保六年=1834年の生まれ)が維新のときに俸禄の奉還と引換にもらった現金を元手に趣味を生かして始めた商売が竹屋なのであった。いわゆる士族の商法というやつで、時代の先を読んだ商売でもなかったから、暮らしは貧しかった。しかし元旗本というプライドだけは高く、清水が生まれたときに着せられた産衣は十五代将軍慶喜が着たものであったという。幼い清水は家に集まる老人たちが「世が世なら、あの子だって・・・・」と語るのを襖越しによく聞いたという。幼年時代の清水の周囲には没落という下降的社会移動の湿った空気が漂っていた。清水はそこから立身出世の学問的形態を志していくことになる。

|

2006年3月19日 (日)

「兄」の世代

 「彼ら」について考える場合、自分と同じ世代、「父」の世代、これらに加えて「兄」の世代というものが重要であるように思う。「兄」の世代とは、自分が歩もうとしている道の数歩先を歩いている人たち、人生の具体的モデルを提示してくれる人たちである。清水幾太郎は二冊目の自伝『私の心の遍歴』(1954年1月から55年12月まで『婦人公論』に連載)の中で「兄」について語っている。

 私は長男で、弟や妹というものは知っていますが、兄や姉というものは知りません。私は、幼い時から、無意識のうちに、兄というものを求めていたのでしょう。誰かを兄に見立てたかったのでしょう。しかし、親戚を見渡しても、それらしい人物はいません。中学では上級生はいますが、私の中学は医者志望の人間ばかりが集まる学校で、私の方は早くから社会学志望ときめていたのですから、ここも駄目です。高等学校では仲間の殆んどすべては官吏の卵で、こちらはもう社会学専攻の大学生のようなつもりで社会学の文献にかじりついているのですから、また、私の高等学校は新設の学校で、私たちが第一回の卒業生と来ているのですから、ここにも兄はいません。兄に見立てるような人間に初めて巡り合ったのは、大学へ行ってからです。専攻はみな社会学ときまっていますし、研究室には卒業生が助手や副手や大学院生という資格で来ています。ここには兄貴がいる。幼い時からの願いがようやく満たされることになりました。現在、東大で教育社会学を担当している牧野巽、東京教育大学で社会学を講じている岡田謙、私はこういう諸君の中に兄に似たものを発見しました。(著作集10、pp.406-407)

 この感覚は私にも理解できる(私も長男である)。現在、聖心女子大学教授の岩上真珠さんや早稲田大学人間科学部教授の池岡義孝さんは、私が大学院へ進んだときに出会った姉貴であり兄貴である。もし清水が研究室を飛び出さずに(追い出されずに)アカデミックな世界の住人であり続けたら、東大社会学研究室の先輩たちが「兄」の世代の中核となっていたはずである。しかし、そうはならなかった。

 どこまで自分が選んだのか判りませんが、私はアカデミックでない世界へ自分を押し出して行かねばなりませんでした。学問の好きな痩せた青年として東京の街頭に立った私には、それ以外に生活の道はありません。しかし、その生活の道がどこかで学問と結びついていないとしたら、人生は私にとって何の意味も持たないでしょう。アカデミックでない方面で、しかし、学問と関係のある仕事をする。それが望ましい理想であったか否かは別として、それを除いて、この地球上に自分を立たせる地点がないのです。同時に、この地点をつくづく眺める人間にとって、三木清を初めとする前記の人々〔羽仁五郎、谷川徹三、林達夫、三枝博音ー引用注〕が一般のインテリにとってとは全く別の意味を持って来るのは極めて当然のことでしょう。なぜなら、この人々は私が眺めている地点の近くに身を置いている人々なのですから、この人たちは私の先輩になりました。私の兄になりました。〔著作集10、pp.407-408〕

 アカデミックでない世界で、しかし、そこと結びついている場所とは、高級ジャーナリズムの世界、岩波文化の世界である。清水の卒業論文は、東大に非常勤で教えに来ていた法政大学教授の松本潤一郎が、同じ法政大学教授で岩波書店の雑誌『思想』の編集委員であった谷川徹三に口を利いてくれて、その一部が『思想』に掲載された。それを読んだ三木清は「是非、一度お目にかかって、いろいろお話を承りたいと思います」というハガキを清水にくれた。三枝博音は清水が『思想』のヘーゲル特集号に載せるヘーゲル研究文献の詳細な目録の作成を依頼されたときに、清水にたくさんの便宜を提供してくれた。林達夫も谷川と同じく『思想』の編集委員をしていた。羽仁五郎は、岩波書店の大番頭である小林勇が一時期経営していた鉄塔書院から出ていた左翼系雑誌『新興科学の旗の下に』の三木清と並ぶ中心メンバーであった。彼らは私立大学の教員であったから、アカデミックな世界と無縁というわけではなかったが、私立大学は帝国大学より数段低く見られていたから、彼らの名声はもっぱら高級ジャーナリズの世界でのものであった。清水は彼らを範として、体制の外部ないしはその周辺における学問的立身出世に人生の目標を切り替えたのである。

|

2006年3月18日 (土)

「父」の世代

 自分と同じ出生コーホートの人々は、仲間でもあり(ものの見方や社会的立場の類似)、ライバルでもある(一定の社会的資源をめぐる獲得競争)。

 これに対して「親」の世代に当たる人々は、庇護者でもあり、抑圧者でもある(既存の社会体制の代理人)。ある社会学者は、マルクスの階級闘争史観の向こうを張って、世代闘争史観を提案した。世代間の対立が社会変動の基本的な要因であるという考え方である。親と子、教師と生徒、上司と部下・・・・日常生活の中で世代間の対立を経験する場面は多いから、世代闘争史観には説得力がある。しかし、資本家と労働者の関係と同じように、子は親に抑圧されているだけでなく、ケアされてもいるのである。世代間の関係を対立という観点からだけ論じるのは無理で、そこには(相互)依存という観点も不可欠である。若者と大人の対立が顕著であった1970年前後であれば、世代闘争史観はすんなりと受け入れられたであろうが、バブル崩壊以後のパラサイト・シングルの時代にあっては、世代闘争史観は決して無力となったわけではないものの、これまでのような単純明快な性格のものではなくなった。愛情と憎悪がしばしば表裏一体であるように、依存と対立、支配と拒絶、服従と抵抗も表裏一体である。

 清水幾太郎の父親は1983年(明治16年)の生まれである。「父」の世代に相当する人物で、清水のライフコースに重要な影響を及ぼした人物としては、第一に、大杉栄(1885年生)がいる。中学生の清水は大杉の無政府主義に傾倒し、その死に強いショックを受けた。大杉の『自叙伝』の中には彼が社会学の勉強に本格的に取り組もうとしてことが書かれており、清水が批判理論としての社会学を志したのは大杉の影響が大きいと私は考える。

 第二に、戸田貞三(1987年生)。戸田は清水が東大の社会学科に入学したときの主任であった。清水は高校生のときにドイツ語の社会学の文献(ジンメルの『社会分化論』)を借りるために戸田の研究室を訪ねている。そのとき、文献は貸してもらったものの、戸田から「そんなにたくさん本を読んでいるならもう大学へ来る必要はない」と皮肉を言われている。清水と戸田との関係はスタートからして良好なものではなかった。清水がアカデミズムからジャーナリズムの世界へ入っていたのには、ジャーナリズムの世界の魅力だけでなく、戸田との確執を考えないわけにはいかない。

 第三に、安倍能成(1883年生)。清水が戦後日本のオピニオンリーダーの一人として脚光を浴びたのは、岩波書店をスポンサーとした知識人集団、平和問題談話会の活動を通してだが、この平和問題談話会の議長が安倍であった。清水を学習院大学に教授として招いたのも院長の安倍であった。安倍と岩波茂雄(1881年生)とは一高時代の同級生で、同じ漱石門下でもあった。戦前戦後を通じて、アカデミズムと高級ジャーナリズの接点に位置した(従って多くの知的青年たちを魅了した)岩波文化の重鎮の一人、それが安倍能成であった。

 大杉、戸田、安倍、それぞれの清水とのかかわりは一様ではない。大杉と清水には直接の面識がない。著作を通して思想的な影響を与えた人物である。在野の思想家で、体制には批判的であったから、大杉の思想への接近は体制への反抗を意味した。戸田は帝国大学の教授であり、体制内に深く組み込まれた人物である。体制に批判的なスタンスをとりながら職場(研究室)で上司の戸田と友好的な関係を構築するのは土台無理な話であった。学習院の院長で文部大臣経験者でもある安倍は、体制内に位置することは間違いないが、オールドリベラリストと呼ばれる権力の中心からは一定の距離を置いている人物で、進歩的文化人として活躍する清水をバックアップするには格好のポジションにあった。

 「親」の世代、とくに「父」の世代の人物とどのような関係を結ぶかは、家父長制社会(=男性中心社会)における個人のライフコース(とりわけ職業経歴)に大きな影響を及ぼす。

|

2006年3月17日 (金)

清水幾太郎と同じコーホートの人々

 人口学や社会学では同じ時期に同じライフイベントを経年した人々の統計的集団のことをコーホート(cohort)と呼ぶ。そのライフイベントが出生であれば「出生コーホート」、卒業であれば「卒業コーホート」、結婚であれば「結婚コーホート」となるわけだが、特に断らずに「コーホート」と言うときには、「出生コーホート」を指す。同じ時期に同じライフイベントを経験した人々が、その後のライフコースにおいて、いかなる類似性(他のコーホートと比較して)を保ちつつ、どのように分岐していくか(同一のコーホートの内部において)をみていくのに便利な概念である。問題はどの範囲を“同じ時期”と考えるかである。1年(単年コーホート)から10年の間で、研究テーマや扱うサンプル数によって、戦略的に設定されることになるのだが、下の表は、試みにそれを5年と設定して、その真ん中の年を清水幾太郎が生まれた1907年(明治40年)としたときの、同じ出生コーホートに属する人々を示したものである。 

1905(明治38)年

高松宮宣仁 福田赳夫 伊藤整 大河内一男 波多野完治 木村義雄 志村喬 織田幹夫 辰巳龍太郎 阿部定  臼井吉見 入江相政 石川達三 水谷八重子(初代) 成瀬巳喜男 円地文子 平林たえ子 島田正吾 波多野勤子

1906(明治39)年

豊田四郎 永田雅一 川島芳子 朝永振一郎 和田芳恵 宇都宮徳馬 坂口安吾 滝沢修 本田宗一郎 山室静

1907(明治40)年

清水幾太郎 人見絹恵 山岡荘八 湯川秀樹 火野葦平 亀井勝一郎 高見順 石井好子 三木武夫 山本憲吉 中原中也 大塚久雄 井上靖 江田三郎 宮本常一 淡谷のり子 東野栄治郎 服部良一 平野謙 藤枝静男

1908(明治41)年

伴淳三郎 勝間田清一 近藤日出造 長谷川一夫 マキノ雅弘 菊田一夫 宮城音也 服部正 横山隆一 東山魁夷 植草甚一 中村伸郎 増田四郎 宮本顕治 松田道雄 沢村貞子 

1909(明治42)年

杉村春子 山野愛子 木谷実 佐分利信 大岡昇平 小澤栄太郎 淀川長治 中島敦 太宰治 中村勘三郎(17代目) 杉山寧 土門拳 上原謙 小森和子 田中絹代 埴谷雄高 松本清張 

*「生年月日(誕生日)データベース」(ストローワード)より作成

 清水の目から見れば、自分よりも2歳上から2歳下の間の人々ということになる。年齢差が持つ意味は、年少のときほど大きい。身体的なこともそうであるが、学校という集団においては1年の違いが学年の違いとなって表れ、そこに社会的な上下の感覚が生じるからである。しかしそうした感覚は歳を取るについて相対的に小さくなっていく。学年は違っても同じ時期に中学生や高校生や大学生であったことの意味の方が大きくなってくる。同じ年頃に同じ時代の空気を吸ったことの意味の方が大きくなってくる。

 表に載せた人々の多くは自伝ないしそれに準じる文章を残している。キャンバスに幾重にも絵の具を塗っていくように、彼らの自伝を読みつつ、それらを重ね合わせていくことによって、清水幾太郎と同世代の人々(ただし有名の人々)のライフコースと日本社会の変動が見えてくるはずである。

 それにしても宮本顕治は長生きである。私は、一度だけ、彼を間近で見たことがある。千駄ヶ谷にある日本将棋連盟の特別対局室を見学したとき、その年の新人王戦の優勝者(誰であったか思い出せない)と名人中原誠の記念対局が行われていた。盤側には観戦記者(たぶん奥山紅樹氏であったろう)と一人の老人がいた。それが日本共産党委員長の宮本顕治であることに気付くまでしばらく時間がかかった。まさかこんなところに彼がいるとは思ってもいなかったからだが、考えてみると、新人王戦は共産党の機関誌「赤旗」が主催する棋戦なのであった。宮本顕治の将棋の腕前については知らない。

|

2006年3月16日 (木)

1907年生まれの人々

 中島健蔵に「平野謙の時代」という文章がある(『回想の戦後文学』所収)。1978年に亡くなった評論家の平野謙の追悼評論だが、翌年、中島自身が亡くなっているので(享年76歳)、遺稿のようなものである。この中でこんなことを書いている。

 平野謙は一九〇七年(明治四〇年)生まれである。近ごろわたくしは、自分が直接に知っている作家や思想家の名を、生年月日の順に並べている。逝世の順に並べることも無意味ではないが、世代論の基礎としては、まず第一に、生年月日による整理が必要である。自分自身の周囲については、だれが同年生まれであるか、見当がついている。しかし、その前後となると、とんでもない思いちがいをしていることがある。平野謙と一九〇三年生まれの私とは、それほど年齢がちがうわけではなかった。わたくしの方では、彼に対して、同世代という認識があるばかりだったが、彼がわたくしに対してどう感じていたかはわからない。とにかく念のため、一九〇七年生まれの知友の名を書き写してみよう。

   1・2 岩上順一(1958没)

   1・25 火野葦平(1960没)

   2・6 亀井勝一郎(1960没)

   2・18 高見順(1965没)

   3・9 鈴木健郎(1963没)

   4・26 山本健吉

   4・29 中原中也(1937没)

   5・6 井上靖

   6・19 矢田津世子(1944没)

   7・9 清水幾太郎

   7・29 船山信一

   10・30 平野謙(1978没)

   12・20 藤枝静男

  この中から、個人について、没年順にならべてみると、まるで感じが変わってくる。

   中原中也(昭和一二年)

   矢田津世子(同 一九年)

   岩上順一(同 三三年)

   火野葦平(同 三五年)

   鈴木健郎(同 三八年)

   高見順(同 四〇年)

   亀井勝一郎(同 四一年)

   平野謙(同 五三年)

 調べれば、人名はもっとふえる。文学者以外の名、たとえば蘆原英了(1・9)、赤尾好夫(旺文社・3・31)、渡辺義雄(写真・4・21)、松平頼則(作曲・5・5)、宮沢縦一(音楽評論・9・22)などを加えてみれば、また感じが変わってくる。日常的には、知人の年齢調べは、ふつうにおこなわれているのである。「あいつはいくつだって?」「なんだ、おれよりそんなに下だったのか。」「案外年をとっているんだな。」等々。現に、この表を作りながら、平野謙の文章をうかうか読んでいるとうちに、亀井勝一郎、高見順が、平野より二、三年は年長だったかのような錯覚にわたくしがおちいっていたことに気づいた。少なくとも、わたくしとしては没年調べ以上に、生年月日調べの方が意味がありそうな気がしているのである。

 一般に、歴史上の人物は彼(彼女)が何年生まれであるかではなく、何年頃に活躍した人物であるかによって、人々の記憶に残る。天皇や将軍の子どもでもない限り、生まれた瞬間から世間の注目を集めることはありえない。生まれたときはみんなただの人である。彼(彼女)は人生の途上において無名の人から有名の人になったのである。だから、普通、歴史年表には、有名人の没年は載っていても生年は載っていない。それ故、中原中也と清水幾太郎が同年の生まれであると知ったときは、意外な感じがした。中也の方がずっと年長だと思い込んでいたのである。

 しかし「清水幾太郎と彼らの時代」という切り口でものを考えていこうとする場合、「彼ら」の生年はとても重要である。誰の言葉だったかすぐに思い出せないが、「同時代人の非同時代性」という言葉がある。歴史時間のある一時点で同じ社会に存在している人々であっても生きてきた時代はバラバラであるということである。生年の違いは、社会的地位の違いとしても表れるし、人生観やイデオロギーの違いとしても表れる。つまり生年の違いは人々の相互作用に影響を及ぼす。「彼ら」の中でも生年を同じくする人々は、その意味で、特別の意味をもってくるであろう。同年生まれの人々は、社会のさまざまな場所に散在しながらも、同じ時代の空気を吸って生きてきた人々である。

 ちなみに中島健蔵と清水幾太郎は、年齢は4つ離れているが、フランス文学の助手と社会学の副手として、しばしば大学のトイレで顔を合わせていたようである。

   

  

|

2006年3月15日 (水)

『わが人生の断片』文庫版あとがき

 「日本の古本屋」を通して高原書店に発注した『わが人生の断片』上下(文春文庫、1985)が昨日届いた。自伝の内容自体はすでに何度も読んでいるが、お目当ては「文庫版あとがき」と粕谷一希による「解説」である。

 元来、『わが人生の断片』は、十年前の昭和五十年、ハードカバー(布製)上下二巻の立派な書物として、文藝春秋から出版され、多くの読者を得たものである。今度、それが簡便な「文春文庫」に収められ、更に多くの人々に読まれるようになったのは、本当に有難いことである。

 本書では、第一に、米英との開戦から敗戦に至る時期、第二に、出生から開戦に至る時期、第三に、敗戦から安保闘争に至る時期、この三つの時期における私の経験のトピック中心に描いている。この期間に私が接した現実の起伏、それによって生じた私自身の変化、それが主題になっている。

 しかし、読者は日を逐って若くなっているから、当然の話、私が直接に経験した事実の多くは、その人々にとって、書物によってしか知り得ない過去になっている。その意味で、本書には、或る時代の記録としての意味があることになる。先日も、若い友人が、この本は長く歴史に残る文献です、と言ってくれた。

 若い友人の言葉は、私には甘い感じがした。けれども、正直のところ、本書は、著者の私にとっては苦い本である。なぜなら、この書物を出版したことによって、私は多くの友人を失ったのであるから。本書で、私は誰にも非難の言葉を投げつけはしなかった。ただ、彼らと私の考え方の相違は述べた。しかし、それだけのことで、多くの友人は私から去って行った。本書は、若い読者に、彼らの知らぬ過去を蘇らせてくれるかと思い、それを私は願っている。しかし、本書の出版によって私が失った友人との関係は、二度と蘇ることはないであろう。

 昭和六十年七月                  清水幾太郎

 晩年(死の3年前)の清水の孤独がひしひしと伝わってくる文章である。『わが人生の断片』の中で、清水は米軍基地反対運動や安保闘争の内幕を赤裸々に語った。それはちょうど田山花袋の『蒲団』が文壇に与えたのと似たような影響を当時の論壇に与えた。しかし、「文庫版あとがき」の中では述べられていないが、清水が多くの友人を失ったのは、『わが人生の断片』の単行本と文庫版の中間地点に位置する1980年に清水が『諸君!』7月号に発表した論文「核の選択-日本よ国家たれ」(単行本化するにあたってタイトルとサブタイトルを入れ替えた)によるところが大きい。粕谷は「解説」の最後をこう結んでいる。

 コントに始まり、コントに還った清水幾太郎の生涯は、まさに社会学、政治学、経済学、心理学、哲学など、およそさらゆる領域にわたって、〝往く所可ならざるなき〟抜群の問題関心と認識能力を示しつづけた。おそらく、こうした能力は空前絶後といってよく、今後ともまず出現しないであろう。 

 しかし、清水幾太郎の波瀾多き航海はまだ終わっていない。この自叙伝に書かれた時期に続いて、『現代思想』、『倫理学ノート』という卓抜な世界を切り拓いた著者は、やがて『日本よ国家たれ-核の選択』によって初めて、逆の時代の先端に立った。それは明治人清水幾太郎の先祖返りともいうべき現象なのか。またアメリカ批判を逆の側面から遂行しようとするのか。

 ともあれ、影響力の強い指導者として限りなく自重し自愛して頂きたい。多元的社会論という国家を限定する社会学からスタートした社会学者の明察は、当然、自己の位置を他の誰よりも自覚しているはずだからである。

 「自重」それも「限りなく自重」という言葉が異様である。家来が殿様を諫めるような言葉である。粕谷の目には、晩年の清水の言動は「殿ご乱心」として映っていたのかもしれない。

|

2006年3月14日 (火)

田山花袋

 雨声会のメンバー20人の中に田山花袋が入っていることは、現代の視点から見れば、当然と映るかもしれないが、彼が代表作『蒲団』を雑誌『新小説に』発表したのは1907年の9月、つまり雨声会よりも数ヶ月後である。彼は『蒲団』の作家、自然主義文学の開祖としてではなく、新人作家の登竜門であった投稿雑誌『文章世界』の編集主任で、国木田独歩や島崎藤村の盟友である人物としてリストアップされたのである。おそらく雨声会のメンバーに選ばれたということが、彼をして、内弟子の女性とのスキャンダルを赤裸々に(ありのままに=自然に)綴った小説『蒲団』を発表するにあたっての自信となったであろう。『蒲団』は私小説の嚆矢であるばかりでなく、百年の時を隔てて、ブログ日記の源流の一つともなっている。

 清水幾太郎にとって田山花袋が1908年に読売新聞に連載した小説『生』は大きな意味をもつ。「私の一生を決めた田山花袋著『生』」というエッセイを彼は書いている。清水は東大の社会学研究室の副手時代にこの小説を読んだことで、家族の社会学的研究(研究室の主任で清水の指導教授であった戸田貞三の専門)を断念したのである。その決断は、彼がもしかしたら東大教授という地位へと続いていたかも知れないポストを捨てて、ジャーナリズムの世界へ飛び込んでいくことの契機の一つであった。

 私の気が散っていたせいであろう、家族に関する文献は、何冊読んでも一向に面白くなかった。戸田先生は、家族を科学的に研究される反面、「夫婦や親子の感情的融合及び全人格的信頼」という風に家族というものをお考えになっていた。この点に触れる時、教壇の先生は、必ず眼を半ば閉じて、恍惚と呼びたいような表情になる。私たち学生は、「始まったぞ」と囁き合った。家族がそんな甘いものでないことは、学生たちも知っていた。

 欠伸をしながら家族文献を読んでいる途中、気晴らしのつもりで、田山花袋の『生』(明治四十一年)を岩波文庫版で読んだ。…(中略)…『生』は、明治末年の、早稲田付近の、田舎のような土地の家庭の話である。読み始めるや否や、私は、夫婦、姑、肉親……の間の、醜い、愚かな、悲しい関係の生々しい描写に吸い込まれて行った。

 『生』を読み終わると同時に、私は、読みかけていた家族研究の洋書を放り出した。「百巻ノ研究文献、一篇ノ小説ニ如カズ」とでもいうような見当違いの気持になった。家族の研究なんか御免だ。その勢いで、私は「赤い十年間」へ飛び込んで、身を社会学研究室に置きながら、社会学は現実の社会問題の解決に全く無力なブルジョア科学であるなどという文章を雑誌に書き始めた。昭和八年三月、戸田先生は、「君は研究室を辞め給え」と言われた。私は街頭の一青年になった。田山花袋の『生』は、学問とジャーナリズムとの間をウロウロする私の人生の出発点を作った。(著作集19、pp.57-58)

|

2006年3月13日 (月)

雨声会

 1907年の文展開設に象徴されるような文化領域への国家の介入(およびそれへの迎合)は、同じ年、文学の領域においても見られた。『近代日本総合年表』(岩波書店)には、1907年6月17日、「西園寺公望、田山花袋・広津柳浪・森鴎外・泉鏡花ら20人を招待、雨声会となづける」と記されている。これだけでは何のことかわからないであろうが、伊藤整の『日本文壇史』11(講談社学芸文庫)にはこの「事件」が詳しく取り上げられている。

 明治四〇年の二月頃、「読売新聞」の主筆なる三叉竹越与三郎は、新しい企画を思いついた。それは彼の親近している総理大臣西園寺公望を中心として一流文士の集会を作る、ということであった。うまく捗れば、それはヨーロッパ流のアカデミーを日本に成立させることになるかも知れない、と彼は考えた。(p.9)

 西園寺首相が近く文士を招待するという消息は、早くから時々新聞に出ていたが、この明治四〇年の六月十四日、招待される文士の氏名とともに、それが大きく各新聞紙に発表された。招待会は三日に分けられ、六月十七日、十八日、十九日にわたって、神田駿河台の西園寺邸で行われることになった。(p.17)

 招待された文士の氏名は、森鴎外、坪内逍遙、幸田露伴、巌谷小波、塚原渋柿園、内田魯庵、広津柳浪、川上眉山、夏目漱石、二葉亭四迷、大町桂月、後藤宙外、泉鏡花、小栗風葉、徳田秋声、柳川春葉、小杉天外、国木田独歩、島崎藤村、田山花袋の二十名であった。…(中略)…

 この発表は文壇人にとって大きな事件であった。誰が選んだにしろ二十名の文士を首相の名で招待するというのは、それは当代の文学を代表する文士であることを意味していた。一面で時流に媚びることを嫌いながらも、一面で世評を気にかけることの最も甚だしいものは文士である。入るべくして選に入ったものはそれを当然のこととしているが、危うく選に入ったものはそれを誇りとし、危うく選に漏れたものはそれを屈辱とした。常に道聴塗説を事とし、伝説とゴシップに明け暮れる文壇の末流は、この事件で騒然となった。(pp.17-18)

 騒然とした文壇の中を噂は電光のように行き交っていた。一つは、夏目漱石が招宴を断る手紙を出し、その手紙の終わりに、「時鳥(ほととぎす)厠半ばに出かねたり」という馬鹿にしたような句を添えた、ということであった。また一つは、坪内逍遙が鄭重な手紙を書いて断ったということであった。もう一つは二葉亭四迷もまた断ったということであった。親友の内田魯庵がそれを聞いて出向き、招待を断るというのはあまりに頑なではないかと言ったところ、二葉亭は、そういう場所へおれが行くもんか、と言って相手にしなかったという話も伝わった。

 六月十七日の招宴の第一目には眉山、柳浪、花袋、風葉、春葉の五人が西園寺邸へ出向いた。十八日には、鴎外、小波、宙外、天外、鏡花、秋声の六名、十九日には桂月、露伴、渋柿園、魯庵、藤村、独歩の六名が招かれて行った。その第一夜が雨降りであったのに因んで、この会は雨声会と名づけられた。(pp.20-21)

 『近代日本総合年表』の記述だけでは、招宴は6月17日の1回だけで、招待した20名が全員出席して、名称も最初から「雨声会」と名づけられていたように誤解される恐れがあるが、実際は、3夜連続の分散開催で、欠席者は3名で、「雨声会」という名称も後付のものであったわけだ。それにしても、招待された20名のリストを見ると、塚原渋柿園なんていう「この人、誰?」という名前も若干混じってはいるものの(渋柿園は東京日日新聞専属の歴史小説作家)、全体としては、後の「日本近代文学全○○巻」という類の企画ものには欠かせない作家たちが入っている。そういう作家たちが選ばれたというよりも、ここで選ばれた作家たちが「日本近代文学」のイメージを規定していったとみるべきだろう。小森陽一は次のように述べている。

 明治四十(1907)年に、日本の近代文学は、大文字の「文学」となった。

 大文字の文学とは何か。それは、新聞という活字メディアが、国民の大多数に読まれるようなリテラシーと、言語商品としての生産・販売・流通・消費のシステムが形成され、小説を中心とした近代「文学」が、日常的に享受される習慣が発生し、その言葉による表象の中に、近代国民国家が想像的なものとして立ちあがることである。またそれは、「文学」によって、近代国民国家を一つの統合体として表象しうるという可能性を国家の側が発見し、その発見に内包される期待(あるいは命令)に、「文学」を創作する側が自発的に答えていこうとする、相補性といってもよいような関係が成立することにほかならない。(『日本文壇史』11の解説「近代国家の形成と文壇ジャーナリズム」)

 ちなみに招待客20名の中で清水幾太郎の人生に一番影響を与えたのは田山花袋であるが、その話は明日に回そう。

 

 

                            

 

|

2006年3月12日 (日)

南風

 1907年の西洋の絵画を代表する作品がピカソの「アヴィニョンの娘たち」であるとすれば、同じ年の日本の絵画を代表する作品は和田三造の「南風」ではないだろうか。筏に乗って大島沖を漂流する男達の姿を雄々しく描いた、日露戦争後の高揚した時代の気分がよく表現されている作品である。

 地下鉄東西線の竹橋駅を上がってすぐ、北の丸公園の一角に、東京国立近代美術館がある。展示フロアーは4階に分かれていて、最上階から始まって時代を追いながら下の階に降りていくという作品配置になっている。「南風」は4階のフロアーの「第1章-1 明治・大正期の美術 文展開設前後」という順路のスタート地点にあたるコーナーに常設展示されている。「文展開設前後」の「文展」とは「文部省美術展覧会」のことで、1907年10月25日から11月30日まで第一回が開催され、「南風」が洋画部門の2等(1等作品はなかったので、事実上の最高賞)を受賞した。

 東京国立近代美術館の作品展示が「文展開設前後」からスタートしているという事実は、「日本の近代美術」の成立を考える上で、示唆的である。西洋の絵画と出会って、その技法を積極的に採り入れた作品の創作に情熱を注いだ日本人は文展開設のずっと前からいた(高橋由一や浅井忠や黒田清輝ら)。しかしたんにそうした個人やグループが存在しているだけでは「日本の近代美術」という制度(ディルケームのいう社会的事実)は立ち上がらない。立ち上がるためには国家の後押し(介入)が必要だった。開国以来、富国強兵をスローガンとして国造りを進めてきた日本が、ロシアという一等国の一角を倒した(少なくとも国民はそう認識していた)ことを契機として、文化政策にも本格的に目を向け始めたことの表れの一つが文展開設であった。

 竹橋は大学への通勤の途中にある駅なので、私はときどき東京国立近代美術館に立ち寄って、「南風」を眺める。群青の海、白い波頭、晴れ渡った空。漂流中とはとても思えない、きりりと引き締まった男達の肉体と表情。カラリとした明るさと、すがすがしい風と、不屈の精神に溢れた絵である。和田三造や文展を観に来た人々は、これから先、日本国が辿るであろう道筋について、どんなふうに考えていたのだろうか、ということを私は考える。

|

2006年3月11日 (土)

アヴィニョンの娘たち

 清水幾太郎『現代思想』(岩波書店、1966)は、清水の数多い著作の中でも、『倫理学ノート』(岩波書店、1972)と並んで、最もアカデミックな水準の高いものである。この本は一枚の絵画の話から始まっている。

 「一九〇七年、ピカソは「アヴィニョンの娘たち」という奇妙な絵を描いた。この作品は多くの画集に収められているから、大部分の読者は知っているであろう。義理にも美しいと言えぬ五人の女性を描いた絵が非常に有名になっているのは、ほぼ二つの理由によるようである。第一に、それがキュビズムの最初の重要な作品であるということ、第二に、それがアフリカの黒人芸術から強い影響を受けているということ。この絵には、客体を幾何学的図形に分解し、この図形の総合として客体を新しく構成して行こうという合理性の追求と、異国的なもののうちに豊かな生命を探ろうとするエネルギーの追求とが見られる。最近、ローゼンソールは、こうした「抽象」と「情熱」との結合をスペイン芸術に固有の伝統と見て、それがスペイン生まれのピカソのうちに生きているという点を強調している。実際、そういう事情もあるではあろうが、私には、もう少し大きい問題のように考えられる。…(中略)…ピカソの作品に見られる二つの傾向が、或る時は結合し、或るときは分裂しながら、一方では西ヨーロッパの芸術の古い伝統を無残に破戒し、他方では、二十世紀の芸術の大きな流れを形作って来たことが重要であるように思われる。いや、芸術の世界を越えて、それが二十世紀の思想そのものの運動を予告したことが大切であるように思う。」(pp.1-2)

 清水が『現代思想』で試みようとしたことは、19世紀風の大思想の崩壊過程として20世紀の思想をスケッチすることであった。19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて企てられたさまざなま精神の冒険(ニーチェの哲学、プランクの量子仮説、フロイトの精神分析、ベルンシュタインの社会主義論など)の中で、清水がとくにピカソの絵画を冒頭にもってきたのは、そこにリアリズムの批判という20世紀思想にとって決定的に重要な意味を見たからである。

 「リアリズムは、満足した社会の自画像であった。それゆえに、貴紳富豪が芸術と芸術家とを愛して来たのも当然であったろうし、一群の大胆な芸術家がリアリズムを拒絶して、文化の内部に美しく安定していた客体を勝手に分解し、文化の外部に野性的なエネルギーを求め始めた時、それが忽ちスキャンダルになったのも当然であったであろう。」(pp.8-9)

 文章の長短にかかわらず、書き出しをどうするかは常に悩ましい問題である。「アヴィニョンの娘たち」の話を冒頭にもってくるというアイデアを思いついたとき、清水は「よし、これで行こう!」と小さく声に出して言ったのではなかろうか。20世紀の最初の10年間に生まれたことを「小さな誇り」と感じている清水にとって、『現代思想』を自分の生年である1907年に書かれた絵画の話から始めることは、気の利いたアイデアであったに違いない。そして、これはもちろん清水自身は意識していなかったであろうが、ピカソが生涯を通じてさまざまな作風を示した「変貌の画家」であったことも、『現代思想』=清水自身の思索の遍歴の検証作業という点から考えて、意味のある符号の一致と言えるのではなかろうか。

|

2006年3月10日 (金)

1907年は「戦後」であった

 清水幾太郎は1907年(明治40年)7月9日の生まれである。『現代思想』(1966)の中で清水はこう書いている。

 「誰にでも他人には判らぬ小さな誇りがあるように、いつからか、二十世紀の初めの十年間に生まれたというのが、私の小さな誇りになった。いつからか、と言うよりは、二十世紀初頭の西洋が、同時に多くの領域で開始された天才たちの精神的冒険によって飾られていることを知ってから、と言うべきであろう。それらの冒険と何の関係もない東洋の涯に生まれながら、 私は、この時期を私のものと考えるようになった。そして、これらの冒険によって象徴される二十世紀の全体を私のものと考えるようになった。」(下巻、p421)

 敗戦後、清水が大河内一男らと始めた在野の教育・研究機関を「二十世紀研究所」と名付けたのにはこうした「小さな誇り」が作用していたのかもしれない。しかし、この「小さな誇り」は清水の子供時代からあったものではない。そもそも清水が西暦というものの存在を知ったのは小学校を卒業する頃のことである。

 「日本橋から本所へ引っ越した大正八年は、一九一九年に当る。現在の少年の場合は全く違うであろうが、私は、この年に、キリスト紀元というものがあることを初めて知った。」(『わが人生の断片』p146〔著作集14〕)。

 小さな清水にとってそうであったように、1907年当時の大人たちにとっても、西暦は馴染みのないものであったろう。「二十世紀初頭」という意識は希薄であったろう。もちろん「明治の終わり近く」という意識もなかった。明治という時代があと5年で終わることなど誰も予想していなかった(天皇はまだ54歳だった)。

 では、当時の人々は自分たちの生きている時代をどのように歴史の時間軸の上に位置づけていたのだろうか。それを表す一番適切な言葉は「戦後」であろう。「戦前」が回想の中で初めて立ち現れる言葉であるのに対して、「戦後」はリアルタイムな言葉である。われわれは「戦後」というと1945年8月15日以後のことを考えがちだが(去年は「戦後60年」だった)、近代日本は複数の「戦後」を経験してきた。戊申戦争はひとまずおくとして、第一の戦後は日清戦争後であり、第二の戦後は日露戦争後である。1907年という年はこの「第二の戦後」の渦中にあった。「第二の戦後」のリアリティは、1907年1月21日の東京株式相場の暴落に端を発した戦後恐慌によって、誰にとっても明らかなものであった。

 なお、幼い清水にとっては1907年に生まれたことよりも、7月9日に生まれたことの方が、「小さな誇り」であった。

 「(観音様に-引用注)七月の九日か十日に参詣すると、四萬六千日お詣りしただけの功徳があるといふ。私は七月九日の生れ。子供の頃は、四萬六千日に生れた、といふのが、私の小さな誇りであつた。併し、今は、四萬六千日といつても、老人でなければ判つてくれない。」(「ふるさとの人々」〔著作集19〕p.188)

 清水がこの文章を書いたのは1951年である(『世界』9月号の特集「浅草にあつまる人々」の冒頭に掲載)。今は老人でも「四萬六千日」のことを知っている人は少ないであろう。

 

|

2006年3月 9日 (木)

評伝と社会学的想像力

 アメリカの社会学者ミルズの書いた『社会学的想像力』を読んだのは学部の学生の頃だったと思う。その冒頭の一節はいまでもよく覚えている。

 こんにち、人びとはしばしば自分たちの私的な生活には、一連の罠が仕掛けれていると感じている。かれらは日常生活の範囲内では、自分たちの困難な問題を克服することができないと感じている。こう感じるとしても、それは多くの場合、全く当然である。というのは、普通の人間が自分で直接知っていること、あるいは自分でやってみようとすることは、それぞれの個人的な生活環境によって制約されているし、かれらの意志や勢力の及ぶ範囲は、職場や家庭や近隣のような身近なところに、いわばクローズ・アップ・シーンだけに限られていて、そのほかのシーンでは、かれらは代役として動きまわり、観客の立場にとどまっているからである。自分たちの最も身近な日常生活を超越するような野望や脅威に気付けば気付くほど、かれらはいよいよ罠にかけられていると感じるようになるであろう。

 人が罠に掛けられているという感じをもつのは、自分の意志でしているつもりの生活が、実は個人の力ではいかんともしがたい全体社会の構造そのものに生じる、さまざまの変化によって支配されているからである。すなわち、個々の人びとの成功と失敗にかんする事実が、同時に現代史の事実であるといえるのである。一つの社会が産業化されるとき、農民は労働者となり、封建領主は破産したり企業家になったりする。諸階級が興亡するとき、人は雇われたり失業したりする。資本投下率の上昇下降につれて、人はあらたな勇気を得たり、落胆したりする。戦争がおこると、保険のセールスマンはロケット発射兵になり、商店の店員はレーダー兵になり、妻はひとり暮らしを始め、子供は父親なしで育っていく。一人の人間の生活と、一つの社会の歴史とは、両者をともに理解することなしには、そのどちらの一つをも理解することができない。

 魅了的な文章である。読むものをワクワクさせる悪魔的な魅力をもった文章である。この文章を読んで社会学の門をくぐった若者はたくさんいるに違いない。私もその一人である。後に、ライフコース研究を自分の専門とするようになり、学生から「ライフコース研究は何の役に立つのですか?」と質問されたときには、ミルズに倣って、こう答えるようにしてきた。「ライフコース研究は社会学的想像力を豊かなものにしてくれます。個人の人生に起こる出来事と全体社会の変動との間に存在する目に見えない因果連鎖をはっきりと認識できるようになります。」そしていま、私にとって「清水幾太郎と彼らの時代」というプロジェクトは、社会学的想像力を鍛えるためのさらなる実践の場なのである。

 ちなみに清水は、ミルズが『社会学的想像力』を書いたのと同じ1959年に、『社会学入門』という本を出し、その中で、「アメリカ社会学の最近の文献で、一番面白いのは、ミルズの著作である」と言っている。そして、『社会学的想像力』については、「私がこの本をほぼ書き上げたところへ到着したので、まだ読んでいないが、きっと、もう誰か気の早い人が翻訳しているであろう」と書いている(実際に鈴木広による邦訳が紀伊国屋書店から出たのは1965年のことであった)。

 

 

 

|

2006年3月 8日 (水)

清水幾太郎の軌跡

 清水幾太郎には「転向」や「変節」といった言葉がついて回る。確かに清水は思想的な振幅の大きな人であった。

 隠者とか世捨て人などとと呼ばれタイプの知識人は別として、知識人というものは、通常、社会の中にポツンと存在しているわけではなく、知識人同士の緩やかな、ときに強固な、グループを形成している。そうしたグループは、論壇、文壇、学会、同人、研究会・・・・といった名前で呼ばれている。また、知識人は知識人とだけ結びついているわけではなく、政党や労働組合や宗教団体といった特定の価値の実現(ないしは実現の阻止)をめざす社会組織とも結びついていることが多い。

 清水の人生は、彼が本来非党派的な人間であったにもかかわらずではなく、まさにその故に、特定のグループや組織に長期にわたって属することがなく(できず)、さまざなまグループや組織の間を遍歴した人生としてとらえることができるだろう。その際、肝心なことは、どのグループや組織に属しているときも、程度の差こそあれ、そのグループや組織と清水の間には心理的な距離があったということである。だから清水が生涯に属したさまざまなグループや組織の思想的座標を単純につなげることによっては、清水の生涯にわたる思索と行動の軌跡を表現することはできない。さまざまなグループや組織の間の遍歴の軌跡は、それぞれのグループや組織と清水との心理的距離によって補正される必要がある。しかも、その心理的距離は清水がそれぞれのグループや組織に所属していた期間の中で変化する。つまりは一筋縄ではいかないのだ。

 本日、午後1時から、杉並区上荻の光明寺で、清水幾太郎の一人娘だった清水礼子(青山学院大学名誉教授、享年70歳)の葬儀・告別式が行われた。喪主は礼子の長男で広島大学助教授の清水真木であった。

|

2006年3月 7日 (火)

「彼ら」とは誰か

 「○○とその時代」というタイトルの評伝は多い。有名なところでは江藤淳『漱石とその時代』がある。評伝というものが、一般に、ある人物の生涯を彼の生きた時代を背景として描くものである以上、そうしたタイトルはきわめてオーソドックスなものといえよう。

 では、私が『清水幾太郎とその時代』ではなく、『清水幾太郎と彼らの時代』というタイトルを考えているのはなぜか。別の問い方をすれば、「彼ら」とは誰のことなのか。「彼ら」とは、第一に、清水と直接・間接にかかわりのあった人々、清水の思索と行動に影響を与えた人々のことである。具体的には、大杉栄、三木清、戸田貞三、太宰治、高見順、吉野源三郎、安倍能成、丸山真男・・・・等々の人々である。彼らはアカデミズムやジャーナリズムの世界の住人で、学者、作家、インテリ、知識人、文化人などの呼称で呼ばれる。第二に、「彼ら」とは、清水と同時代を生きた一般の人々である。彼らは、庶民、国民、人民、大衆、消費者、生活者・・・・等々の名前で呼ばれる(どの呼称を採用するかは時代およびその呼称を採用する者の社会的・思想的スタンスによる)。清水は子どもの頃から「インテリになりたい」と願い、その願いを実現した。しかし、願いを実現してからは、清水は「私も庶民なのである」という自己提示にこだわった。インテリであると同時に庶民であること。清水はそうした両義性を生きた思想家であった。

 『清水幾太郎とその時代』という定番的タイトルではなく、あえて『清水幾太郎と彼らの時代』とするのは、清水のライフコースと「有名の人々」(第一の「彼ら」)のライフコースが交錯する様を描くこと、そして清水の思索と行動と「無名の人々」(第二の「彼ら」)の人生の物語の変遷を同時並行的に描くこと、この二つの課題を示したかったからである。

 

|

2006年3月 6日 (月)

研究ノートとしのブログ

 『清水幾太郎と彼らの時代』の執筆のためのノートとしてブログを始めることにした。

 きっかけは二冊の本。今日、くまざわ書店を覗いたら、ミネルヴァ書房の日本評伝選(というものがあるのを今日知った)の新刊『狩野芳崖・高橋由一』があったので、どんなラインナップなのだろうと後ろのページの見てみたら、竹内洋が『清水幾太郎』を書くことになっているのを知ってびっくりした。刊行の時期は記されていなかったが、清水生誕100年にあたる来年を目処にしていることは間違いないだろう。これはのんびりしてはいられないと思った。

 もう一冊は、くまざわ書店で購入した梅田望夫『ウェブ進化論-本当の大変化はこれから始まる』(ちくま書房)。購入してすぐルノアールで読んだのだが、その中で著者は「ブログこそが自分にとっての究極の『知的生産の道具』かもしれない」と書いている。たしかにそうかもしれない。考えたこと、文献の抜き書き、インターネットで収集したデータ、そうしたことがらを時系列的にメモしていって、それをあとから検索(この機能が重要!)して活用できるわけだ。いや、それ以前に、ブログであるから、「清水研究」を日々継続的に進めていくための推進装置として作動してくれるのではないか、そう考えたのである。

 *自分のためのメモなので、コメント機能もトラックバック機能も外しております。

|

トップページ | 2006年4月 »