« 清水幾太郎と同じコーホートの人々 | トップページ | 「兄」の世代 »

2006年3月18日 (土)

「父」の世代

 自分と同じ出生コーホートの人々は、仲間でもあり(ものの見方や社会的立場の類似)、ライバルでもある(一定の社会的資源をめぐる獲得競争)。

 これに対して「親」の世代に当たる人々は、庇護者でもあり、抑圧者でもある(既存の社会体制の代理人)。ある社会学者は、マルクスの階級闘争史観の向こうを張って、世代闘争史観を提案した。世代間の対立が社会変動の基本的な要因であるという考え方である。親と子、教師と生徒、上司と部下・・・・日常生活の中で世代間の対立を経験する場面は多いから、世代闘争史観には説得力がある。しかし、資本家と労働者の関係と同じように、子は親に抑圧されているだけでなく、ケアされてもいるのである。世代間の関係を対立という観点からだけ論じるのは無理で、そこには(相互)依存という観点も不可欠である。若者と大人の対立が顕著であった1970年前後であれば、世代闘争史観はすんなりと受け入れられたであろうが、バブル崩壊以後のパラサイト・シングルの時代にあっては、世代闘争史観は決して無力となったわけではないものの、これまでのような単純明快な性格のものではなくなった。愛情と憎悪がしばしば表裏一体であるように、依存と対立、支配と拒絶、服従と抵抗も表裏一体である。

 清水幾太郎の父親は1983年(明治16年)の生まれである。「父」の世代に相当する人物で、清水のライフコースに重要な影響を及ぼした人物としては、第一に、大杉栄(1885年生)がいる。中学生の清水は大杉の無政府主義に傾倒し、その死に強いショックを受けた。大杉の『自叙伝』の中には彼が社会学の勉強に本格的に取り組もうとしてことが書かれており、清水が批判理論としての社会学を志したのは大杉の影響が大きいと私は考える。

 第二に、戸田貞三(1987年生)。戸田は清水が東大の社会学科に入学したときの主任であった。清水は高校生のときにドイツ語の社会学の文献(ジンメルの『社会分化論』)を借りるために戸田の研究室を訪ねている。そのとき、文献は貸してもらったものの、戸田から「そんなにたくさん本を読んでいるならもう大学へ来る必要はない」と皮肉を言われている。清水と戸田との関係はスタートからして良好なものではなかった。清水がアカデミズムからジャーナリズムの世界へ入っていたのには、ジャーナリズムの世界の魅力だけでなく、戸田との確執を考えないわけにはいかない。

 第三に、安倍能成(1883年生)。清水が戦後日本のオピニオンリーダーの一人として脚光を浴びたのは、岩波書店をスポンサーとした知識人集団、平和問題談話会の活動を通してだが、この平和問題談話会の議長が安倍であった。清水を学習院大学に教授として招いたのも院長の安倍であった。安倍と岩波茂雄(1881年生)とは一高時代の同級生で、同じ漱石門下でもあった。戦前戦後を通じて、アカデミズムと高級ジャーナリズの接点に位置した(従って多くの知的青年たちを魅了した)岩波文化の重鎮の一人、それが安倍能成であった。

 大杉、戸田、安倍、それぞれの清水とのかかわりは一様ではない。大杉と清水には直接の面識がない。著作を通して思想的な影響を与えた人物である。在野の思想家で、体制には批判的であったから、大杉の思想への接近は体制への反抗を意味した。戸田は帝国大学の教授であり、体制内に深く組み込まれた人物である。体制に批判的なスタンスをとりながら職場(研究室)で上司の戸田と友好的な関係を構築するのは土台無理な話であった。学習院の院長で文部大臣経験者でもある安倍は、体制内に位置することは間違いないが、オールドリベラリストと呼ばれる権力の中心からは一定の距離を置いている人物で、進歩的文化人として活躍する清水をバックアップするには格好のポジションにあった。

 「親」の世代、とくに「父」の世代の人物とどのような関係を結ぶかは、家父長制社会(=男性中心社会)における個人のライフコース(とりわけ職業経歴)に大きな影響を及ぼす。

|

« 清水幾太郎と同じコーホートの人々 | トップページ | 「兄」の世代 »