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2006年3月22日 (水)

東都新繁昌記

 清水幾太郎の一家が両国橋を西から東へ渡ったのは1919年(大正8年)のことであったが、その前年に出版された山口孤剣『東都新繁昌記』という本がある。東京への流入人口の増大を背景として明治の終わり頃から東京案内本の類がブームになったが、そうした中の一冊で、「お役所の麹町」「書生の神田」といった具合に東京市の地域(区)ごとにその特徴を論じるという構成になっている。その見出しを借用するなら、清水の一家は「和製の日本橋」から「職工の本所」へ引っ越したのである。

 …京橋は日本橋や、神田と同じく近年殆んど戸数が一定して、著しき相違がないのに、本所、深川、浅草、巣鴨、渋谷は大速力で戸数の増加して行くのは、思ふに人間が中央から四つ隅にはみ出さんとするものであつて、其処に悲しき痛ましき生活問題が横たわつてゐる。単に大東京の膨張などと太平楽に看過するべきものではない。(『東都新繁昌記』p.122)

 清水の一家はまさに「はみ出さんとするもの」であった。山口孤剣は社会主義者で、清水が生まれた1907年に平民新聞に「父母を蹴れ」という文章を書いて逮捕・投獄され、翌年6月に出所した。その出所歓迎会が神田錦輝館で開かれたときに「無政府共産」の赤旗が掲げられて警官が介入したのが有名な赤旗事件である。この事件で、山口は、大杉栄や堺利彦や荒畑寒村とともに逮捕されるのだが、逮捕されたおかげで、入獄中に起こった大逆事件とは関わりをもたずにすんだ。大逆事件後の社会主義の「冬の時代」を山口は雑誌記者や新聞記者をしながら糊口をしのいでいたのだが、大正4年12月から大正6年2月まで大隈重信主宰の雑誌『新日本』に連載していた記事を本にしたのがこの『東都新繁昌記』である。そこには社会主義者のまなざし、生活問題=社会問題を発見しようとするまなざしが遍在している。社会問題の発生は、一方で、それを実践的に解決しようとする社会主義の台頭と、他方でそれを実証的に研究しようとする社会学の台頭とつながっている。清水は本所という社会問題のるつぼのような土地に引っ越して、その場所から、無政府主義やマルクス主義に染まりながら、東大社会学研究室につながる学問的立身出世の階段を昇っていったのである。実践的であることと実証的であること、ジャーナリスティックであることとアカデミックであること、体制外(在野)であることと体制内(講壇)であること、清水の社会学への志向には当初からアンビバレンツなものが含まれていた。

 山口孤剣は『東都新繁昌記』が出た翌年、『改造』大正8年10月号に「日本社会主義運動史」を寄稿し、「社会党の冬は去って春は来た」と書いたが、それから一年後、大正9年9月、腎臓病のため37歳で亡くなった。

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