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2006年3月28日 (火)

自伝を書く理由

 清水幾太郎の最初の自伝『私の読書と人生』(要書房、1949年)は、そのタイトルからわかる通り、自身の読書遍歴を語るという体裁をとっている。清水は「序」で次のように述べている。

 読者は三木清の「読書遍歴」といふ文章を知つているであらう。私は本書を書き綴る時、何時もこの文章が念頭にあつた。あの文章は、三木清が、正に読むべき書物を、選ばれた時期に、而も正しい方法を以て読んだことを告げてゐる。だが、私の場合は、手当たり次第の書物を、時を選ばずに、而も専ら焦燥を方法として読んで来たに過ぎぬ。(著作集6、p.362)

 三木清は戦前・戦中の論壇のスターであった。清水は三木(のような知識人)に憧れ、三木のような文章を書きたいと願った。実際、『社会と個人-社会学成立史-』(刀江書院、1935)の文体には三木の文体の模倣の跡が見られる。戦後、三木のいなくなった論壇で、清水は三木の後継者と目されていた。清水は『私の読書と人生』を綴りながら、自分を三木に重ね、かつ二人の気質の違い(三木の古典主義的=自己確認的読書遍歴と、清水のロマン主義的=自己形成的読書遍歴)を意識していた。

 『私の読書と人生』が出版されたとき、清水は42歳だった。42歳という年齢は、社会通念上、自伝の執筆年齢としては少々早い感じがする。事実、「まだ若いくせに、こんな本を書くのは老成ぶった気取りである」というようなことを周囲から言われたそうである。

 あれは今から考えても、かなり不愉快なことでした。確かに、老人になってから自伝的なものを書くというのが一般の慣習でしょう。しかし、私は信じているのですが、自伝的なものを書くことは、年齢とはあまり関係の仕事だと思うのです。(『私の文章作法』中公文庫、pp.182-183)

 私は清水の最初の自伝が「年齢とはあまり関係のない仕事」だったとは必ずしも思わない。「自伝を書くのは老人になってから」という通念は、老年という時期を自分の人生に想定できない者、すなわち自分を短命な人間と考えている者には有効なものではない。清水は病弱な子供時代を送り、「この子は育つまい」と親類の者から言われ続け、長じてからも親しい医者から「君は30歳までは生きないだろう」と言われていた。この病弱な体質は遺伝的なものだったようで、清水の父親は49歳で亡くなったが、それでも4人兄弟のうちでは一番長命であった。また、清水は長男だが、次男は1歳で亡くなり、三男は29歳で亡くなっている。「30歳までは生きないだろう」という医者の予言と、父親が49歳で死んだという事実から、42歳という年齢は清水にとって十分に「老年」であったはずである。その意味では「自伝を書くのは老人になってから」という通念は、清水にとっても有効であったといえるかもしれない。

 とはいえ、ここでは自伝を書くことが「年齢とはあまり関係のない仕事」だったとする清水自身の解釈に従うことにしよう。では、一体何と関係があったのだろうか。

 どうして私は『私の読書と人生』を書く気になったのでしょうか。それを聞かれても、当時は、答えようがなかったと思います。答えは、それから何年か経って判ってきました。後から振返って気がついたのですが、あれを書いた昭和二十四年という年は、第一に、或る偶然の事情かで、私がジャーナリストの長い生活から、なろうと思ってもいなかった大学の教師の生活へ飛び込んだ年です。第二に、これも偶然の事情で、無責任な売文業者から、柄にもなく、平和を目指す政治運動に飛び込んだ年です。大学教授の方は、それから昭和四十四年まで二十年間、政治運動の方は、昭和三十五年の安保闘争の直後まで十三年間ばかり続きました。世間の人たちから見れば、どれも大したことではなかったでしょう。しかし、私自身にしてみますと、あの年、無意識ながら、或る新しい地点に立ったという気持ちであったに違いありません。そして、この新しい視点から自分の過去を眺めてみようという気分になったのでしょう。(前掲書、pp.184-185)

 自伝が人生の転換期に書かれるというのは、ちょうど時代の転換期に歴史への関心が高まるのと事情が似ている。自伝の効用という表現を用いるならば、それは単に過ぎ去った過去を懐かしむということではなくて、人生の転換点に立って、自分がこれまで歩いてきた人生を再認識する作業を通して、これから歩いていこうとする人生の方向を確認するということである。その意味で、ライフストーリーはライフプランニングと表裏一体である。

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