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2006年3月 9日 (木)

評伝と社会学的想像力

 アメリカの社会学者ミルズの書いた『社会学的想像力』を読んだのは学部の学生の頃だったと思う。その冒頭の一節はいまでもよく覚えている。

 こんにち、人びとはしばしば自分たちの私的な生活には、一連の罠が仕掛けれていると感じている。かれらは日常生活の範囲内では、自分たちの困難な問題を克服することができないと感じている。こう感じるとしても、それは多くの場合、全く当然である。というのは、普通の人間が自分で直接知っていること、あるいは自分でやってみようとすることは、それぞれの個人的な生活環境によって制約されているし、かれらの意志や勢力の及ぶ範囲は、職場や家庭や近隣のような身近なところに、いわばクローズ・アップ・シーンだけに限られていて、そのほかのシーンでは、かれらは代役として動きまわり、観客の立場にとどまっているからである。自分たちの最も身近な日常生活を超越するような野望や脅威に気付けば気付くほど、かれらはいよいよ罠にかけられていると感じるようになるであろう。

 人が罠に掛けられているという感じをもつのは、自分の意志でしているつもりの生活が、実は個人の力ではいかんともしがたい全体社会の構造そのものに生じる、さまざまの変化によって支配されているからである。すなわち、個々の人びとの成功と失敗にかんする事実が、同時に現代史の事実であるといえるのである。一つの社会が産業化されるとき、農民は労働者となり、封建領主は破産したり企業家になったりする。諸階級が興亡するとき、人は雇われたり失業したりする。資本投下率の上昇下降につれて、人はあらたな勇気を得たり、落胆したりする。戦争がおこると、保険のセールスマンはロケット発射兵になり、商店の店員はレーダー兵になり、妻はひとり暮らしを始め、子供は父親なしで育っていく。一人の人間の生活と、一つの社会の歴史とは、両者をともに理解することなしには、そのどちらの一つをも理解することができない。

 魅了的な文章である。読むものをワクワクさせる悪魔的な魅力をもった文章である。この文章を読んで社会学の門をくぐった若者はたくさんいるに違いない。私もその一人である。後に、ライフコース研究を自分の専門とするようになり、学生から「ライフコース研究は何の役に立つのですか?」と質問されたときには、ミルズに倣って、こう答えるようにしてきた。「ライフコース研究は社会学的想像力を豊かなものにしてくれます。個人の人生に起こる出来事と全体社会の変動との間に存在する目に見えない因果連鎖をはっきりと認識できるようになります。」そしていま、私にとって「清水幾太郎と彼らの時代」というプロジェクトは、社会学的想像力を鍛えるためのさらなる実践の場なのである。

 ちなみに清水は、ミルズが『社会学的想像力』を書いたのと同じ1959年に、『社会学入門』という本を出し、その中で、「アメリカ社会学の最近の文献で、一番面白いのは、ミルズの著作である」と言っている。そして、『社会学的想像力』については、「私がこの本をほぼ書き上げたところへ到着したので、まだ読んでいないが、きっと、もう誰か気の早い人が翻訳しているであろう」と書いている(実際に鈴木広による邦訳が紀伊国屋書店から出たのは1965年のことであった)。

 

 

 

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