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2006年3月26日 (日)

易者

 新聞の「身の上相談」が自然主義小説における「告白」の庶民版であることは昨日述べたが。新聞の「身の上相談」には別の源流もある。それは江戸の町角にいた大道易者である。町人たちは悩み事や迷い事を易者に相談した。そこには相談者と回答者の二人しかいないから、相談者と回答者の他に編集者と読者が存在する「身の上相談」とは構造的には違うものなのだが、江戸の庶民にも人生問題はあったということは忘れてはいけない。ただし、問題は-シャレではないが-人生問題の内容であり、語られ方なのである。

 清水幾太郎の自伝には人生問題を易者に相談するエピソードが出てくる。

 やがて私は小学校を卒業したが、それからどうするという見当もついていないので、或る人の勧めるままに、神田の某商業学校に入った。今日と同様、その頃の私も実に軽率であった。商業学校に入ったものの、毎日の簿記と珠算とに閉口して、というより、学校の空気に愛想をつかして、一学期が終わらぬうちに退学届けを出してしまった。やがて夏休みになる頃から、どこかの中学校に入ろうと考え、方々の中学の受付を訪れてみたが、誰も真面目に相手をしてはくれない。仕方ないので、二学期から日本橋の高等小学校に入れて貰った。勿論この学校を卒業するという気持ちはなく、三学期を終えたら中学へ行こうと考えていた。私が或る易者を訪れたのも、やはりその頃であったろう。彼は私の顔をつくづくと眺めて、医者になる方がよい、直ぐ博士になって、直ぐ金持になる、と断言した。そこで私は、当時医者を志望するものが集まっていた独逸学協会学校中学へ行こうと決心した。(『私の読書と人生』〔著作集6〕、p.378)

 「神田の某商業学校」とは神田仲猿楽町(現在の神保町交差点附近)にあった順天中学校の校舎を夜間に借用して開校していた東京高等商工学校のことである(現在の埼玉工業大学につながっている)。清水は昼間は家業(洋品雑貨店)を手伝いながら、夜学に通っていたわけだ。それにしても高等小学校の1年生(13歳)が進路を易者に相談したことには驚くが、当時はそれほど珍しいことではなかったのかもしれない。人生問題の相談のメディアとして易者はまだまだ現役であった。読売新聞の「身の上相談」にこんな例がある。

 私は二十七歳で、この頃結婚話がありました。従妹にあたる女ですが、私はその女の親が快諾したら結婚しようと申しました。ところがある易者に私たちの結婚を占ってもらいますと、彼女は巳年、私は土星の巳年ゆえ相性が合わぬとのこと。もし結婚すれば病人が絶えないというのです。彼女は親の許しを得たと言ってきましたが、何とかうまく断る方法はありませんか。私は易者の言葉を信じずにはいられません。(大正8年2月11日)

 易というものは個人の意志や努力とは独立に存在するその人の運勢というものを前提としている点において、前近代的なものであるように思えるが、そうであるからこそ、個人の意志や努力を強調する近代的な人生の物語と共存が可能なのである。鈴木健太郎によれば、雑誌『婦人世界』に占い記事が初めて掲載されたのは明治42年1月号のことで、こうした「占いの情報化」は大正10年頃を境に一挙に加速されていったという(「婦人雑誌と占い」、『近代日本文化論9 宗教と生活』所収、岩波書店、1999)。

 すべてが運命の決した因果律によって否応なく生起しているがごとくに、自分の身の上に生じた出来事や体験を運命の糸で結ぶことで、物語の全体に一つの必然的な流れ、因果的一貫性、不可避的連続性を与えるような語り…(中略)…を、ここでは「運命律」と呼ぶことにしよう。…(中略)…次のように考えられないだろうか。すなわち、投稿者自身が語り、またその周囲の人々によって日常的に語られる投稿者の身の上や境遇についての物語は、投稿者を悩ませ苦しめるものであり、そうした語りからの一時退却先あるいは避難所を求めて、投稿者は運命律によるオルタナティブな物語を読者という見えざる他者に向けて語り出している、と。ふだんの語り方/語られ方では羞恥や後悔あるいは自責を感じないではいられない過去の身の上や現在の境遇であっても、それを運命のなせる業として語り直すことによって、まとわりつく心理的負荷をいったん棚上げすることができる、うまくすれば無毒化も可能だ。日常的な語りの文脈では自分自身の道義的責任や落ち度あるいは人格的未熟さや弱さといったものに関連づけられてしまいがちな出来事や行為でも、運命律の文脈の中に再配置することができれば、そうした関連づけをひとまず解除し、自分をいつまでも責め苛むように、傷つけ続けるようにしむける日常の物語に潜む暴力性から身を守れる。(鈴木、pp.214-216)

 個人の意志や努力や「自己責任」が強調される時代になればなるほど、傷つきやすい近代的自我のための一種のセーフティネットとして、運勢や運命といった要因を重視する人生の物語が補完的に機能するということである。

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