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2006年3月21日 (火)

橋を渡る

 社会移動と地域移動はしばしば連動する。「上京して一旗あげて故郷に錦を飾る」ことは近代日本人の人生の物語の典型的なモデルであった。なぜ社会移動と地域移動が連動するのかと言えば、社会的資源の分布に地域間格差があるからである。原則として、人々は社会的資源の乏しい地域から豊かな地域へ移動していく。「原則として」と言ったのは、第一に、移動を禁止ないし抑制する社会的装置が働いている場合があるからであり、第二に、社会的競争に敗れて心ならずも社会的資源の乏しい地域に移動しなくてはならない場合があるからである。

 清水の自伝には彼が小学校6年のときに経験した最初の引越のことが書かれている。

 月も日も覚えていないが、大正八年の或る日、家財道具を積んだ馬車の後について、両国橋を西から東へ渡って行った。父にとっても、私にとっても、これは最初の引越であった。単なる引越でなく、落ちて行くような引越であった。橋の中途で、妹は、「いつ日本橋に帰るの」と私に聞いたが、私は聞こえない振りをしていた。近頃は、「下町」という言葉が見境もなく用いられているが、当時の古い小さな東京では、本所でも、回向院や旧吉良邸辺りまでの、隅田川に近い地帯は、下町と呼ばれたかも知れないが、東へ進むにつれて、「場末」になる。柳島横川町は、力と富とを求めて、というよりも、生きる道を求めて東京へ流れ込んだ人たちの住んでいる地帯である。公害という言葉のない時代であったが、一日中、空気が臭かった。江戸時代からの言葉や趣味や人情を探す方が馬鹿で、そこに住む人々は、各地の方言や風習を無遠慮に持ち込んでいた。(『わが人生の断片』著作集14、p.145)

 この引越は、竹屋という時代遅れの商売がいよいよ立ちゆかなくなった一家が、洋品雑貨の商売を始めることに伴うものであった。清水幾太郎は没落士族の末裔として下町(庶民の世界)に生まれたが、そこから一直線に山の手(インテリの世界)を目指したのではない。清水の学問的立身出世は、場末(貧民の世界)を経由した、貧しさからの脱出を目的としたものであった。

 両国橋の名称はそれが武蔵と下総という二つの国の間に架かるものであるところから来ているが、一般に、「橋」は二つの異質な世界を繋ぐもののメタファーである。部落差別を主題とした住井すゑの小説のタイトルは『橋のない川』であった。橋のないことは絶望的だが、橋が架かっていることも人生の喜怒哀楽の原因となる。将棋の十四世名人木村義雄の自伝の書き出しは次のようなものである。

 十二歳の少年が、父に連れられて、両国橋を渡った。(『将棋一代』)

 木村義雄は1905年の生まれ。清水よりも2歳年長である。生まれた場所は東京本所。父は下駄屋を営んでいた。木村が父に連れられて両国橋を渡ったのは柳橋から浅草橋へ向かう通りの角の網船屋の二階に住んでいた井上義雄八段のところへ入門を申し出るためであった。結局、木村は井上八段ではなく関根八段(後に十三世名人)の通い弟子になるのだが、「両国橋を渡った」ことは木村の立身出世物語の冒頭にもってくるに相応しいエピソードだったのである。清水が両国橋を木村とは反対方向の「西から東へ」渡ったのは、このエピソードから3年後のことであった。

 両国橋ということで、ついでに言えば、山本周五郎の小説『さぶ』の書き出しは次のようなものである。

 小雨が靄のようにけぶる夕方、両国橋を西から東へ、さぶが泣きながら渡っていた。

 小川町の経師屋「芳古堂」の奉公人であるさぶが、おかみさんに叱られて、店を飛び出し、葛西の実家に帰ろうとしている場面である。「橋を渡る」という行為にはさまざまなドラマがある。

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