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2006年3月31日 (金)

三度自伝を書く理由

 『私の心の遍歴』の出版から20年後の1975年、清水67歳のとき、三冊目の自伝『わが人生の断片』(全2巻、文藝春秋)が出版された。書き下ろしではなく、雑誌『諸君!』の1973年7月号から1975年7月号まで25回に渡って連載されたものを単行本化したものである。400字詰原稿用紙換算で1200枚を越える分量は、清水の著作の中で最大のものである。『わが人生の断片』はこんな風に始まる。

 昭和十六年十二月の或る日、私たち数人の忘年会が、夕方から本郷の湯島の鳥屋で開かれた。数人の中には、三木清および中島健蔵が含まれていた。豊島与志雄も加わっていたような気がする。忘年会といっても、一向に気勢の揚がらぬ会であった。英米を敵とする戦争は、その日から二週間ばかり前に始まっていた。(著作集12、p.11)

 自伝の常道に反して『わが人生の断片』は人生の途中(34歳)から話が始まっている。この点について清水は同書の「あとがき」で次のように述べている。

 あれは何年頃であったろうか。編輯部から自伝の連載を依頼された時、私は引き受ける気持ちが全くなかった。…(中略)…私は自伝の執筆を断った。しかし、断った後も、編輯者は何度となく慎重且つ執拗に執筆を勧めた。何度となく勧められているうちに、仮に私が書くとしたら、何処で生まれて、如何なる学校に通って、という調子の通史(?)ではなく、幾つかのトピックスを中心に書くほかはない、と私は考えるようになった。売文業者の癖で、多少とも読者にとって-或いは、私自身にとって-興味のありそうなことだけを書こうという謂わばサービス精神のようなものが頭を擡げて来たのである。それと同時に、仮に書くとしたら、最初に取り上げるトピックは、私の出生などではなく、戦争中の経験でなければいけない、と私は思った。理由はなかった。ただ駄々っ子のように、そう私は思った。思っただけならよかったのだが、それをウッカリ口に出し、「勿論、それで結構です」と編輯者が答えたところから自伝の連載が始まることになった。(著作集、pp.496-497)

 出生からではなく、戦争中の経験から書き始めることに「理由はなかった」というのはもちろんレトリックである。「何処で生まれて、如何なる学校に通って、という調子の通史」をすでに清水は2冊書いているのだ。屋上屋を架すべからず。3冊目の自伝は前の2「冊の自伝との重複を避け、前の2冊の自伝の終わりの部分に相当する戦争中の話から書き始めようと考えたのは、「売文業者」としてはむしろ自然な発想であったろう。開戦の年から始まった物語は敗戦の翌年まで続き(第1部)、そこで一旦中断し、出生から開戦までの物語が挿入され(第2部)、その後で、敗戦の翌年からの物語が再開して1960年の安保闘争の敗北の直後で終わる(第3部)。『わが人生の断片』はこういうちょっと変わった構成になっている。

 第2部、すなわち前の2冊の自伝ですでに語られている時期に関して、『わが人生の断片』で初めて語られるエピソードというものは非常に少ない。前の2冊の自伝の読者にとっては「お馴染みの話」が続く。だから、これも一種のサービス精神の現れと見るべきであろうか、『わが人生の断片』には記憶の細部にこだわる傾向が見られる。たとえば、東京高等学校に願書を出しに行ったときの記述はこうなっている。

 東京高等学校は、鉄筋コンクリート三階建、東京府下の中野にあった。近くには武蔵野の雑木林や田圃があった。大正十四年に入ってからの或る日、私は、宮地敬三という同級生を誘って、一緒に願書を出しに行った。広い校庭を囲む土堤に雪が残っていた。その雪の中へ、私は「エアシップ」の吸殻を捨てた。煙草は一年ばかり前から吸っていた。(著作集14、p.1961)

『私の読書と人生』にはこの日の記述はない。「大正十四年に東京高等学校に入学した」とあるだけである。『私の心の遍歴』には記述があるが、「願書を出しに行ってみると、予想通り、志願者は非常に少数でした。私は、ひとり、ホクホクしていました」という調子のものである。雪の中に「エアシップ」を捨てたというのは、生活史的事実としてはさして重要ではない。しかし、文学的には-「私小説的には」というべきか-印象的な情景であり、文章に生気を与えている。一緒に願書を出しに行った同級生の名前をわざわざフルネームで記している点にも細部へのこだわり、リアリティへのこだわりが感じられる(以前の記事で「易者」をめぐるエピソードの記述の異同の問題を取り上げて、3冊目の自伝の記述が事実なのであろうと結論付けた理由がここにある)。

 細部へのこだわりの他に、もう1つ、『わが人生の断片』の特徴として、アクチュアルな問題への言及ということがある。清水は個人的なエピソードを語りながら、戦後の日本社会の諸問題(それらはやがて評論集『戦後を疑う』において正面から取り上げられることになる)にしばしば言及する。たとえば、中学時代のドイツ語の授業でドイツ語のアルファベットもまだろくに覚えないうちから動詞の主要変化形(アーベルボー)を毎時間合唱させられ、生徒たちはそれを体で覚えたというエピソードが紹介された後で、清水はあまりに民主主義的なりすぎた戦後の教育の批判を始める。

 ドイツ語だけの話ではない。どんな教育でも、或る段階においては、また、或る側面においては、必ずアーベルボーの合唱や暗記のようなところがなければならない。理屈抜きの、有無を言わせぬところがなければならない。それがないと、教育というものの底が抜けてしまう。…(中略)…個性とか創造性とかいうのは、肝腎の伝達が確実に行われた後のことで、子供の個性を口実にして肝腎の伝達を怠ったら、それはもう教育とは別のものになってしまう。人間の教育は、或る段階および或る側面において、必ず犬の調教と同じようなところがある。もし人間が犬よりも大切な動物であるならば、人間の教育は、犬の場合よりも徹底的に行われねばならぬ。正しく調教されていない犬は、飼主にとって不幸であり、近所の人にとっても不幸であるが、とりわけ、犬自身にとって不幸である。同じことは人間についても言える。数年前に学習院大学を退いてから、私は、国電の車内でしか学生を見ていないが、座席に浅く腰かえて、寝そべったような姿で漫画本を読んでいる彼らは、調教されなかった犬のように思われる。(著作集14、pp.152-153)

 このように『わが人生の断片』には自伝の形式を借りた社会批評という趣がある。こうしたスタイルの背景には「清水研究室談話会」の存在がある。清水は1969年3月(62歳)に学習院大学を退職し、新宿区大京町のマンション(一階は野口英世記念館になっている)の一室に清水研究室を開設したが、そこで月に一度「談話会」がもたれるようになったのは、研究室開設半年後のことである。「談話会」は清水の孤独を癒す社交の場であると同時に、彼が再び論壇の表舞台に復帰するための下稽古の場所となった。

 1973年9月から翌年6月までの「談話会」は「戦後教育批判シリーズ」と呼ばれている。シリーズの最終回の報告者となった清水は「戦後教育の崩壊について」という刺激的なタイトルで話をした。この話は『中央公論』1974年11月号に「戦後の教育について」という穏やかなタイトルで掲載され、大きな反響を呼んだ。先ほど引用したアーベルボーの話は『諸君!』1974年3月号に掲載された分からのものである。すわなち「談話会」で「戦後教育批判シリーズ」が展開されている最中、しかも清水が「戦後教育の崩壊」について話す数ヶ月前に書かれた原稿である。自伝の執筆時の状況が自伝の内容に反映することの顕著な例といえよう。

 「戦後の教育」についての大きな反響のかなりの部分は、文章の内容それ自体よりも、それを書いたのがかつての進歩的文化人の代表的存在であった清水幾太郎であったことに由来する。自伝というものは人生の転換点に書かれるべきものであるというのが清水の持論であるが、『わが人生の断片』は確かにその実践であったわけである。

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