« 再度の自伝を書く理由 | トップページ | 三度自伝を書く理由 »

2006年3月30日 (木)

4年3ヵ月の影響

 『私の読書と人生』と『私の心の遍歴』が相互補完的、双生児的な関係にあり、2冊で1冊の自伝と考えられるものであることは昨日述べた。しかし、2冊の自伝を隔てる数年の歳月は、2冊目の自伝の内容に微妙な影響を与えることになった。

 『私の心の遍歴』に「あこがれの避暑」という章がある。そこには小学校3年のときに経験した福島県横向温泉での出来事が詳しく書かれている。身体によいからと知り合いの医者の一家に誘われて、9歳の清水は親元を離れて一夏を山奥の温泉宿で過ごすことになった。両親は心配したが、清水は温泉宿での避暑というものにわくわくしていた。しかし期待は見事に裏切られた。

 宿について、いろいろな事情が判って来るにつれて、私は自分の立場がないことに気がつきました。この宿にいる人間は、滞在客か、医者の家族か、その使用人か、この三種類なのです。私だけはそのどれにも入らないのです。私は、宿料を払うお客ではありません。むしろ、朝と午後、お客の部屋へ、お茶と梅干しとを運ぶのが、いつの間にか、私の仕事になっていました。私はお客ではありません。また、私は医者の家族と同行しては来たものの、勿論、この家族の一員ではありません。…(中略)…そして、私は使用人でもないのです。使用人は私に向かってゾンザイな言葉を使いはしますが、自分たちの仲間とも見ていないようです。私は、一体、何者なのでしょうか。私はどこにいても邪魔なような気がしてきました。(著作集、pp.280-281)

 さらに悪いことに、横向温泉の気温は東京に比べて大変低かったために、清水は風邪を引いてしまい、百日咳のような深い咳が絶えず出るようになった。清水は、ただただ心細くて、東京に帰ることばかり考えていた。結局、2週間あまりが経過した頃に、息子の境遇を人づてに知った父親が迎えに来てくれたおかげで、清水はようやく東京に帰ることができた。この体験は清水にとってのトラウマとなった。

 他人の目から見れば、これは誠に小さな事件です。けれども、九歳の私にとっては、実に大きな事件でした。これは、後に関東大震災に遭ったり、徴用員としてビルマへ連れて行かれたりしたのに劣らぬ大事件でした。この大事件のために、私は一層臆病になってしまったようです。ウカウカと見知らぬ世界へ踏み込んだら、どういうことになるか、それを身にしみて感じたのでしょう。とにかくすっかり臆病になりました。…(中略)…無事東京へ帰りはしたのですが、どうしても、それが夢のように思われてならないのです。まだ、横向温泉の玄関脇の一室に寝ているのではないか。それが恐ろしくて堪りませんでした。父にも母にも黙っていましたが、毎朝の恐怖は、三年間ばかり、つまり、小学校を卒業するまで続きました。今でも、時々、横向温泉の夢を見ます。(著作集10、pp.283-284)

 不思議なのは、「関東大震災に遭ったり、徴用員としてビルマへ連れて行かれたりしたのに劣らぬ大事件」とあるが、震災や徴用の話が3冊の自伝全部で取り上げられているのに対し、この横向温泉の一件は『私の心の遍歴』にしか出てこないことだ。これはなぜだろうか。震災や戦争が清水個人にとってのみならず日本の社会全体にとっても大事件であるのに対して、横向温泉の一件はあまりに個人的な事件であるためだろうか。そういうこともあるかもしれない。しかし、それだけでは説明にならない。そもそも自伝とは個人的な出来事を書くものであるし、横向温泉の一件があまりに個人的な出来事であるために他の2冊の自伝では語られなかったとするなら、なぜ『私の心の遍歴』ではそれがあえて語られているのかが逆に問われなければならないだろう。

 私の仮説はこうである。横向温泉の一件が『私の心の遍歴』で大きく取り上げられたのは、「ウカウカと見知らぬ世界へ踏み込んだら、どういうことになるか、それを身にしみて感じた」経験が『私の心の遍歴』を執筆していたときの清水にもあったのではないか。それが最初の自伝では封印されていたトラウマチックなエピソードと共鳴し、その封印が解かれたのではないか。『私の心の遍歴』執筆時に清水が深くかかわっていた平和運動には、活動の華々しさの裏側に、横向温泉の一件を連想させるような負の側面があったのではないか。清水の3冊目の自伝『わが人生の断片』の中に次のような記述がある。

 私は再び孤独になり悲壮になって行った。昭和二十五年の秋、平和問題談話会が事実上の解散を行い、私は、自分だけがポツンと取り残されたように感じ、孤独になり悲壮になっていたが、その私に声をかけてくれたのは、総評および左派社会党であった。私は俄に見方を得たように思い、先方は、「小さな人気者」としての私に利用価値を見出していたのであろう。しかし、何回か内灘村へ通っているうちに、腑に落ちないことが次第に殖えてきた。けれども、平和問題談話会の場合は、仲間が同じようなインテリで、みな政治の素人であったが、今度は、周囲にいるのは政治の玄人ばかりで、私だけが素人である。何事につけても、私は、自分の経験の狭さということを先ず考え、政党は、私などの知らぬ沢山の仕事を抱え込んでいるのであろう、手が廻らないのであろう、と考えてきた。しかし、いくら謙虚な態度を取ったつもりでも、腑に落ちない問題が残ってしまう。平和問題談話会によって宣言された、軍事基地絶対反対という道を真直ぐに歩いていこうとすると、それを三原則の一つに掲げた左派社会党の人々からも離れてしまうのではないか。二年ばかり前の孤独で悲壮な気持ちが再び戻ってきた。(著作集14、p.368)

 清水の人生は、本来は非党派的な人間が、さまざまな党派の間を遍歴した人生である。だから清水はいつもそのとき属している党派と自分との距離に敏感であった。「仲間外れ」や「孤独」ということに敏感であった。清水は『中央公論』1954年1月号に「わが愛する社会党左派について」を書き、左派社会党の運動方針を批判し、批判された左派社会党は『中央公論』2月号に「清水幾太郎氏の愛情にこたえて」を載せて清水を反駁した。「あこがれの避暑」の章が『婦人公論』1954年5月号に掲載されたのは、清水と左派社会党との間でこうした応酬が行われた直後のことであった。

|

« 再度の自伝を書く理由 | トップページ | 三度自伝を書く理由 »