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2006年3月29日 (水)

再度の自伝を書く理由

 二冊目の自伝『私の心の遍歴』が出版されたのは『私の読書と人生』の出版から6年3ヵ月後の1956年1月である。しかも、『私の心の遍歴』は書き下ろしではなく、『婦人公論』に1954年1月から翌年12月まで連載されたものを単行本にしたものだから、実質的には最初の自伝の出版からわずか4年3ヵ月後に2冊目の自伝の執筆に着手したことになる。自伝を2冊書くこと自体が普通のことではないが、その間隔が4年3ヵ月というのは尋常ではない。

 ここからすぐに予想されることは、『私の心の遍歴』は『私の読書と人生』の二番煎じ、焼き直しであろうということだが、それはおそらく、『私の心の遍歴』の連載を開始するにあたって清水が一番避けたかったことであろう。自分のことをしばしば「売文業者」と称していた職人気質の清水にとって、「同じものを二本書いた」と言われることは不名誉この上ないことである。もちろん一人の人間が二つの人生を生きてきたわけではないから、内容に重複が見られるのは当然である。しかし、『私の心の遍歴』には『私の読書と人生』とは別の側面から自分の人生を語ろうとする方針がはっきりと見てとれる。すなわち、『私の読書と人生』が学校経歴と職業経歴を軸として展開されていたのに対して、『私の心の遍歴』は家族経歴の記述にかなりの分量が割かれている。最初の自伝では十分に語られていなかった家族の物語(子供時代の暮らしぶり、妻との出会い、父親の死、娘の誕生など)が、2冊目の自伝では存分に語られている。

 清水が『私の心の遍歴』で家族の物語を語ったのは、第一に、『婦人公論』の読者を意識したためであろう。自伝の書き手はたんに自分が書きたいことを書くのではなく、読者が関心をもつであろうことを書くのである。これはライフストーリーのインタビュー調査の場合も同様で、聞き手がいくら「自由に語って下さい」と注文しても、語り手は自分の話に対する聞き手の反応に敏感である。もちろんこのことは清水が心ならずも私生活を語ったということではない。第二に、むしろ清水は家族の物語を語りたかったのであろう。『婦人公論』から注文があったから家族のことを語ったというよりも、家族のことを語りたかったから『婦人公論』の注文に応じたと考えるべきだろう。いずれにしろ2冊の自伝は相互補完的な関係、双生児的な関係にあり、両者を併せて、出生から30歳代の終わり(終戦直前)までの1冊の自伝と見ることができる。

 『清水幾太郎著作集』の編集責任者、清水礼子は『私の心の遍歴』の装幀についてこう語っている。

 一七・一センチメートル、一〇・六センチメートルという大きさは、分類を施せば新書版に入る。しかし、他の新書に比べると縦が二ミリメートル短く、横が六ミリメートル広いためか、安定感のある本である。少し和紙に似た紙を使い、天に化粧裁ちを施さず、角に微かな丸みを与えていることも、穏やかな落ち着きを生み出しているのかもしれない。表紙は恩知孝四郎、カヴァーは大和春穂のデザイン。カヴァーは、象牙色の地に柔らかな中間色を用いて、表側に一三、袖の部分に三つ、合計一六のカット風の小さな絵を配している。ISというイニシアルの読める太い古風な万年筆、紐の付いたインク瓶、編上げのドタ靴、角帽、銀杏の葉、鉄砲、木製のベンチ、裸電球の下に並んだ本、市電、土手の土筆・・・・・・。黒い華奢な明朝体で刷られたタイトルの中で「心」という文字だけが原色の赤で浮かぶ。『私の心の遍歴』の内部に一度深く潜った末でなければ生まれるデザインであり、著者の作品を包んだ夥しいカヴァーのうちで、最も優しい温かい雰囲気を持つものである。(著作集10、解題、p.450)

 私は古本屋で『私の心の遍歴』を探しているが、いまだ見つかっていない。三刷まで出た本なので、とくに初版本でないとならないということはない。ただし、カヴァーが付いていないものは駄目である。

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