« 「父」の世代 | トップページ | 立身出世 »

2006年3月19日 (日)

「兄」の世代

 「彼ら」について考える場合、自分と同じ世代、「父」の世代、これらに加えて「兄」の世代というものが重要であるように思う。「兄」の世代とは、自分が歩もうとしている道の数歩先を歩いている人たち、人生の具体的モデルを提示してくれる人たちである。清水幾太郎は二冊目の自伝『私の心の遍歴』(1954年1月から55年12月まで『婦人公論』に連載)の中で「兄」について語っている。

 私は長男で、弟や妹というものは知っていますが、兄や姉というものは知りません。私は、幼い時から、無意識のうちに、兄というものを求めていたのでしょう。誰かを兄に見立てたかったのでしょう。しかし、親戚を見渡しても、それらしい人物はいません。中学では上級生はいますが、私の中学は医者志望の人間ばかりが集まる学校で、私の方は早くから社会学志望ときめていたのですから、ここも駄目です。高等学校では仲間の殆んどすべては官吏の卵で、こちらはもう社会学専攻の大学生のようなつもりで社会学の文献にかじりついているのですから、また、私の高等学校は新設の学校で、私たちが第一回の卒業生と来ているのですから、ここにも兄はいません。兄に見立てるような人間に初めて巡り合ったのは、大学へ行ってからです。専攻はみな社会学ときまっていますし、研究室には卒業生が助手や副手や大学院生という資格で来ています。ここには兄貴がいる。幼い時からの願いがようやく満たされることになりました。現在、東大で教育社会学を担当している牧野巽、東京教育大学で社会学を講じている岡田謙、私はこういう諸君の中に兄に似たものを発見しました。(著作集10、pp.406-407)

 この感覚は私にも理解できる(私も長男である)。現在、聖心女子大学教授の岩上真珠さんや早稲田大学人間科学部教授の池岡義孝さんは、私が大学院へ進んだときに出会った姉貴であり兄貴である。もし清水が研究室を飛び出さずに(追い出されずに)アカデミックな世界の住人であり続けたら、東大社会学研究室の先輩たちが「兄」の世代の中核となっていたはずである。しかし、そうはならなかった。

 どこまで自分が選んだのか判りませんが、私はアカデミックでない世界へ自分を押し出して行かねばなりませんでした。学問の好きな痩せた青年として東京の街頭に立った私には、それ以外に生活の道はありません。しかし、その生活の道がどこかで学問と結びついていないとしたら、人生は私にとって何の意味も持たないでしょう。アカデミックでない方面で、しかし、学問と関係のある仕事をする。それが望ましい理想であったか否かは別として、それを除いて、この地球上に自分を立たせる地点がないのです。同時に、この地点をつくづく眺める人間にとって、三木清を初めとする前記の人々〔羽仁五郎、谷川徹三、林達夫、三枝博音ー引用注〕が一般のインテリにとってとは全く別の意味を持って来るのは極めて当然のことでしょう。なぜなら、この人々は私が眺めている地点の近くに身を置いている人々なのですから、この人たちは私の先輩になりました。私の兄になりました。〔著作集10、pp.407-408〕

 アカデミックでない世界で、しかし、そこと結びついている場所とは、高級ジャーナリズムの世界、岩波文化の世界である。清水の卒業論文は、東大に非常勤で教えに来ていた法政大学教授の松本潤一郎が、同じ法政大学教授で岩波書店の雑誌『思想』の編集委員であった谷川徹三に口を利いてくれて、その一部が『思想』に掲載された。それを読んだ三木清は「是非、一度お目にかかって、いろいろお話を承りたいと思います」というハガキを清水にくれた。三枝博音は清水が『思想』のヘーゲル特集号に載せるヘーゲル研究文献の詳細な目録の作成を依頼されたときに、清水にたくさんの便宜を提供してくれた。林達夫も谷川と同じく『思想』の編集委員をしていた。羽仁五郎は、岩波書店の大番頭である小林勇が一時期経営していた鉄塔書院から出ていた左翼系雑誌『新興科学の旗の下に』の三木清と並ぶ中心メンバーであった。彼らは私立大学の教員であったから、アカデミックな世界と無縁というわけではなかったが、私立大学は帝国大学より数段低く見られていたから、彼らの名声はもっぱら高級ジャーナリズの世界でのものであった。清水は彼らを範として、体制の外部ないしはその周辺における学問的立身出世に人生の目標を切り替えたのである。

|

« 「父」の世代 | トップページ | 立身出世 »