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2006年4月30日 (日)

抒情へのまなざし

  生まれ育った土地を遠く離れて、その遠く離れた場所から生まれ育った土地を振り返るとき、そこに「故郷」という抒情的対象が立ち上がる。しかし、「故郷」は必然的に(自然に)甘味な抒情の対象となるわけではない。そこには「故郷」を抒情の対象として見ようする意思が働いているはずである。いや、対象は「故郷」に限らない。さまざまなものを抒情的に見ようとする意思、抒情そのものへのまなざしが大正という時代を覆っていたように思われる。
  「抒情詩人」西條八十(明治25年~昭和45年)を論じた筒井清忠編『西條八十と昭和の時代』(ウェッジ選書)の中で、筒井は次のように述べている

  大正八年、第一詩集『砂金』が刊行された。それは、一つ一つの詩が華麗な言葉によって堅固に構築された詩集であり、「寂しさ」が全体の基調になっていた。…(中略)…大正九年六月、抒情詩集『静かなる眉』が刊行される。以後、八十の抒情詩集は女学生を中心とした若い女性の間で熱烈に支持されることとなるのである。
  その背景にはこの時期、高等女学校校数・生徒数が急激に増加したことがあった。それは大正7年から一五年の八年間に、学校数では二・五倍、生徒数で約三・二倍という激しいものであった。飛躍的に増加した女学生の間で強く求められたのはロマンチズム(より正確にいえば、淡い無常観を伴った日本的ロマンチズム)であったし、八十はその欲求に最もよく応えられる人だった。(pp.19-21)

  ここで指摘されていることは文学の受容者(読者)における女性人口の増加並びに低年齢化ということだが、それは男性のメンタリティの女性化という現象も伴っていたはずでる。同書に収められている座談会「西條八十とその時代」(藤井叔禎・川本三郎・関川夏央・筒井清忠)の中で次のような世代論が展開されている。

  藤井 乱歩が明治二七年ですね。久米が明治二十四年、菊池が二十一年でちょっと上なんですが、何かこの辺の世代から、それ以前とはひと味違った柔軟な姿勢が見られるような感じがします。
  川本 明治の二代目でしょうかね。でも、青春時代は大正にかかっているのかな。
  筒井 二十代まで含めて考えると、大正初期から中期ということになりますね。
  川本 明治の人というより、むしろ大正の人ですよね。そうすると、なんとなくわかってきますね。
  関川 芥川も八十と同じ明治二十五年生まれですね。
  筒井 ええ、だから芥川と仲が良かった。愛蘭土(アイルランド)文学会というのを一緒にやっています。
  川本 明治の作家、たとえば永井荷風や里見弴の場合は、文学なんかやることに父親が反対した。父の重圧というのがすごくあったと思うんですが、西條八十の世代になるとその重石がなくなったという感じがしませんか。
  筒井 八十の場合は、お父さんは商売一途な人で、文学などには全然関心がなかったみたいですね。だから、抑圧ということでもなかったみたいですね。
  川本 しかも八十にはお姉さんという導きの人がいたので、前の世代とその点は全然違いますね。やはり明治の富国強兵の時代から、ある文化的な雰囲気が浸透してきた大正の世代の人だという気がしますね。
  藤井 輸入石鹸を扱っているお家なんていうのもすごく面白いですね、異国趣味というか。それに、時代もそういう欧米崇拝みたいなものが入ってきて、その頃に端を発するエキゾチックな作風とか感性みたいなものが相当その後長く-私は昭和四十年頃の歌謡曲の歌詞を連想するんですが、そのへんにまで流れているという感じがしますね。
  川本 里見弴の晩年に江藤淳がインタビューしていて、「大正時代というのはどういう時代ですか」と聞くと、里見弴が「天皇はああいうふうだったし、ともかく軟弱な時代だった。だからおれは生きていられた」みたいな答え方をしていますね。山本夏彦さんだったかな、「大正時代というのは要するに不良が許される時代だった」という言い方もしているから、そこで明治という強い偉大なる父親の時代とまったく違う雰囲気が生まれたという気がしますね。

  ここで私が思い出すのが、清水幾太郎が『私の読書と人生』の中で有本芳水の詩について語っていることである。

  小学校に入つてから、私は毎月「日本少年」を講読してゐた。その他にも何種類かの少年雑誌があつたが、私が「日本少年」を買ひ続けたのは、それに有本芳水の詩が載つてゐたからである。…(中略)…古いもの、遠いもの、亡びたもの、悲しいもの、さういうものの美しさを芳水の詩は私に教えてくれた。

  ふりさけ見れば浅間山
  黒き煙の渦まきて
  空より野邊に流れ落つ
  山の麓の町町の
  白き壁には日のかげの
  赤く悲しくたゆたいて       (「浅間山」)

  田舎といふものと全く縁がない町の子である私には、海や山や港は芳水の詩を通して初めて現実のものとなつた。いや、数十冊の立川文庫が一度も触れなかつた私の心の或る部分に、これ等の詩は強い刺戟を与えたのだ。言葉といふものの微妙な動き、その不思議な力に、私は漸く目覚めて来たのであらう。当時の「日本少年」には芳水のほかに松山思水といふ記者が活躍してゐたが、後者の荒つぽい文章と、これに相応しい内容とは私に一種の反発を感じさせ、その反発が一層私を芳水の方へ傾かせて行つたやうである。(著作集6,pp.371-372)

  清水は子ども時代のこうしたメンタリティーを、没落した旗本の末裔であることや、早熟さによって説明しているが、そもそも「日本少年」という少年向けのメディアに有本芳水の詩が連載されていたという事実は清水の個人的事情とは関係がないわけで、それは大正という時代のメンタリティーの反映としてとらえるべきものである。
  清水は明治40年の生まれだから、西條八十よりもさらに次の世代、「明治の三代目」であるわけで、ものごころついた頃から思春期の多感な時期を筒井のいう日本的ロマンチズムにたっぷりと浸りながら送った世代である。そのように考えると、清水の多くの文章に見え隠れするセンチメンタリズムや、「庶民」(大衆)の哀歓への共感というものを理解できるのでないだろうか。

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2006年4月26日 (水)

故郷へのまなざし

  農村から都市への大量の人口移動は、「故郷」へのまなざしを強める。「故郷」はたんに人が生まれ育った場所ではない。ある場所で生まれ育った人が、その場所を遠く離れて、遠く離れた場所から自分が生まれ育った場所を振り返るとき、「故郷」という叙情的な対象が生まれる。
  数ある「故郷ソング」の中で、一番ポピュラーなものは、♪兎追いしかの山、小鮒つりしかの川、夢は今もめぐりて、忘れがたき故郷~、の文部省唱歌『故郷』(詞:高野辰之、曲:岡野貞一)であろう。1914年(大正3年)に世に出た歌である。読売新聞が身の上相談を始めた年であり、朝日新聞が漱石の『こころ』の連載を始めた年でもある。心理的な「内面(人生問題)」へのまなざしの普及と、空間的な「故郷」へのまなざしの普及は、どこかで連動しているように思う。
  『故郷』よりも以前の「故郷ソング」としては、♪夕空はれて、あきかぜふき、つきかげ落ちて、鈴虫なく~、の『故郷の空』(明治21年)。♪幾年ふるさと、来てみれば、咲く花鳴く鳥、そよぐ風~、の『故郷の廃屋』(明治40年)。♪園の小百合、撫子、垣根の千草~、の『故郷を離るる歌』(大正2年)などがある。しかし、これらの歌が外国の曲(『故郷の空』はスコットランド民謡、『故郷の廃屋』はアメリカの作曲家W.ヘイズの曲、『故郷を離るる歌』はドイツ民謡)に日本語の歌詞を付けた(訳詞とはいえない)ものであるのに対して、『故郷』は日本人による作詞・作曲、いわば和製「故郷ソング」なのである。
  日本は近代化の進展の中で多くのものを欧米から輸入した。モノや制度だけでなく、そこには「人生の物語」も含まれていた。近代版「人生の物語」の基本である「成功(立身出世)の物語」はまずもってサミュエル・スマイルズ『自助論』の翻訳である『西国立志編』によって広く普及し、ようやく大正時代も半ばになって、「野口英世」という日本人モデルを見出した。輸入品が先行し、続いて国産品が普及するというのは、近代化の後発国の一般的パターンである。
  『故郷』の三番の歌詞、♪志を果たして、いつの日にか帰らん~、に着目して、『故郷』を「立身出世ソング」の系列に位置づける見方に対して内田隆三は疑問を呈している(『国土論』、2002年)。

  第一の論点は、唱歌『故郷』に描かれた「故郷」への美しい憧憬の裏面には、たしかに「故郷」から逃げてきたり、「故郷」から追い出されたりした人たちがたくさん存在していたと思われることである。また、そこで歌われているように、志を果たして「故郷」に帰ることができると、人びとが実際に信じているかどうかもわからないことである。「故郷」にたいするロマンティックな感情の裏面には、「故郷」にたいするリアリズムとルサンチマンの心情が付着しており、その表/裏の奥行きを捨象してはならない(p.59)

  第二の論点は、…(中略)…それがそう単純に立身出世主義に志向していないことである。唱歌『故郷』は、大衆の社会的な動員や主体化を積極的で現実的な主題とする明治時代の歌曲から意味論的に逸れていき、心情的にも下降していく側面をもっている。吉本隆明は大正期の大衆歌謡にはその種の社会的主題の喪失が見られるというが、その意味で唱歌『故郷』は大正時代のこうした歌曲に連なっていく側面を色濃くもっているのである。
  …(中略)…こうした現実喪失、現実乖離とい視点を基準にしてみれば、唱歌『故郷』は、大衆のナショナリズムの明治から大正(一九一二-一九二五)へのまさに移行期に位置していることがわかるだろう。その歌は故郷を遠く離れ去ってしまった主体の望郷の思い、あるいは何らかの意味で故郷喪失の感情を歌っているからである。その歌には「志を果たしていつの日にか帰らん」という三番のフレーズ以外に大衆の社会的な動員という主題はとくに見られない。またこの三番のフレーズも、そうなればいいのだがというような、どこか消極的な色調を帯びている。むしろこの歌の主題は、もっぱら遠い「過去の追憶」に志向しており、子ども時代の友人や、父や母の消息や、故郷の風景の記憶を、一人孤独な思いで、あてもなく表象することにあるからである。(pp.60-61)

  確かに、『故郷』は実際に口に出して歌ってみると、一種の淋しさを伴った歌であることがわかる。今まさに故郷を離れて都会へと向かう列車に乗っている人の歌ではない。都会に着いて間もない頃の人の歌でもない。都会で暮らし始めてかなりの歳月が経ち、当初の立身出世の夢も色あせて、なんとなく先が見えてしまった人の歌のように思える。明治という「坂の上の雲」を見上げながら人々が歩いていた時代が終わり、「時代閉塞の現状」(石川啄木)が人々を憂鬱な気分にさせる時代へと入っていく、近代日本の青春の終わりを告げる歌のように思える。  

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2006年4月19日 (水)

群衆へのまなざし

  松田巌『群衆 機械のなかの難民』(読売新聞社、1996)の書き出しは秀逸だ。

  これから群衆についてだらだらと述べる。(p.7) 

  力みがないところがいい。本というものは、しばしば、著者が自分の頭のよさをひけらかすために書かれることがある。「だらだらと」書いたのでは頭のよさをひけらかすことはできない。単純明快な議論を展開するためには、枝葉の部分は思い切りよく切り捨てて、ついでに自分の議論の展開上都合の悪い部分も切り捨てて、「ほら、こんなにスッキリしましたよ」とファッションショーのモデルのような体型の文章に仕上げる必要がある。自分の頭のよさにうっとりしているだけの、つまらない文章がこうしてできあがる。松山の本はそうした貧困な精神とは縁遠いところで書かれている。

  二十世紀という百年は単純ではない。
  少なくとも群衆という存在が新しい表情をもって現れたことが、百年の複雑さを示している。二十世紀は進歩という風が激しく吹きすさんだ世紀である。その風のなかで群衆はどのように貌を変えるのか。ともあれ、群衆を軸にして二十世紀の日本を追いかけてみる。(p.30)

  都市への流入人口の増大によって形成されたのは、下層社会だけではない。群衆もまたそうである。群衆は一定の地域に居住している人々のことではなく、街角や駅前や広場などにひしめいている不特定多数の人々のことである。赤の他人同士である。したがって通常は互いに儀礼的無関心(civil inattention)を装っている。しかし、何かがきっかけになって、群衆が大きなエネルギーの塊となって、暴徒化することがある。都市の為政者にとってこれは最高度に警戒すべき脅威である。一方、社会主義の運動家、とりわけアナーキストにとっては、群衆は社会変革のためのエネルギー源である。かくして群衆へのまなざしは都市化と共に強まっていった。
  1905年(明治38年)9月5日、日露講和条約がポーツマスで調印されたその日、日比谷公園で開かれた講和反対国民大会は顕官隊との衝突から警察署・交番・内相官邸・政府系新聞社などを襲撃する騒ぎへと発展し、軍隊が出動してようやくこれを鎮圧したが、東京は9月6日から11月29日まで戒厳令下に置かれた。日比谷焼き打ち事件は近代日本が経験した最初の都市騒乱であった。
  群衆の暴徒化の背景には人々の不満や怒りがある。日比谷焼き打ち事件の場合、暴徒化の直接の原因は日露講和条約の内容(賠償金ゼロ、北緯50度以南の樺太の割譲のみ)への不満と怒りであるが(ナショナリズムの昂揚)、その背景には日露戦争中および戦後の生活苦がある。
  日比谷焼き打ち事件の前月、河上肇は雑誌『財界』に「将来の三大問題」という文章を寄せている。その三大問題とは、「農業者対商工業者の問題」(自由貿易をめぐる利害の対立)、「資本家対労働者の問題」、「男子対女子の問題」(男女関係の欧米化の問題、女子の就労問題)である。このころの河上はまだマルクス主義者ではなかった。社会主義への関心はあっても、社会問題は既存の社会体制の改良によって解消されうるものと考えていた。しかし、資本主義社会の発展が格差の拡大(二極化)という問題を必然的に生むだろうことを確実に見通していた。格差の拡大はつまるところ貧困問題として帰着するだろう。かくして河上は、それから11年後、1916年(大正5年)9月から大阪朝日新聞に『貧乏物語』の連載を始めた。
  地方から都市への人口の大量移動は、都市に下層社会と群衆を誕生させたが、それは「貧困」という社会問題の誕生とワンセットであった。 以後、日本社会はこの貧困問題の解決策を求めて動いていくといっても過言ではない。

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2006年4月14日 (金)

下層社会へのまなざし

  21世紀初頭の日本では、社会的格差の拡大や新たな下流社会の台頭にメディアの関心が集まっている。こうした現象は資本主義社会の発展ないし変容に伴うものであるから、類似の現象は明治以降今日に至るまで繰り返し観察される。
  中川清編『明治東京下層生活誌』(岩波文庫、1994)は、1886年(明治19年)から1912年(明治45年)までの間に、新聞や雑誌に載った東京の下層社会(貧民窟)に関するルポルタージュ14編を収録したものである。
  中川によると、明治期における下層社会へのまなざし(貧困言説)は4つの時期に区分することができる。
  第一期は、明治時代前半、日清戦争以前の時期(軽工業中心)で、「貧民窟」が東京のどこあるのか、その所在を明らかにすることに力点が置かれており、下層社会は「おおむね驚きや恐れの態度で、書き手の属する社会とは異質な存在、いわば社会の外部として」描かれている。
  第二期は、日清戦争と日露戦争の戦間期で(鉄工業や鉄道網の発達)、「下層社会に固有の職業や関係、さらには習俗や慣行にしたがって記述が展開され、異質な外部社会の内側の細部が、固有な生活世界として丹念に描かれる」ようになる。なお、岩波文庫にも収められている松原岩五郎『最暗黒の東京』(1983)は第一期と第二期を架橋する作品である。
  第三期は、日露戦争後すぐの時期で、明治社会主義(自由民権左派の流れを汲むもの)というフィルターを通した社会批判のニュアンスが記述の中に見られるようになる。やはり岩波文庫に収められている横山源之助『日本の下層社会』(1899)はこの時期の作品である。
  第四期は、明治40年代で(工業化や鉄道網の発展)、これまでに描かれた来た「貧民窟」の独自の共同性が新たな人口流入と東京の拡大に伴って解体し、下層社会に独自の変容が生じていることへの着目が見られる。
  では、この第四期、すなわち清水幾太郎の幼年時代の東京で起こった下層社会の変容とは具体的にどのようなものであったのか。横山源之助の「貧街十五年の移動」(『太陽』明治45年5月)から引いておこう。
  まずは職業の変容である。

  日清戦役前後貧街に多数を占めていたのは、ワラジ稼業といわれていた日稼ぎ人足と人力人亜足であった。…(中略)…日清戦役前後人力車夫業の隆昌であった時は、地方より出でて腕力があり、足力がある青年の徒は、大抵一度はこの人力車夫に落ちたものである。思うに大した熟練なく、大した準備を要せず、その日に着手して直ちに若干の収益を見たのはこの人力車夫で、要する所の知識は、東京全市の地理で、欠くべからざる資本は、二本の足力と腕力だけである。都鄙の失落者が、相率いて人力車夫となったのも無理がなかった。かつて馬車鉄道施設の時、自己の生活と職業とを奪うものなりとして、この稼業者の間に不平の声高かったが、事実は大した影響もなかったのである。
  当時貧民に注目せる者は、住居問題としては万年町、鮫ヶ橋または新網を見、職業としては、まずこの人力車夫を見たのであった。次いで日稼ぎ人足は、今日の如く工場人足は、今日の如く工場人足寡なく、車力人足を筆頭として、手伝い人足、道路人足、土方人足の類は多数を占めていた。で、今日もワラジ稼業である日稼ぎ人足が大多数を占めているのは依然として変わらないが、工場付属の人足が著しく増殖して来た。(PP.272-273)

  何度か映画化された『無法松の一生』は明治の終わりから大正にかけての九州小倉を舞台に人力車夫の松五郎を主人公にした作品で、東京ではないが、当時の人力車夫の世界を知る参考になるだろう。人力車夫はいまでは京都や鎌倉といった古都の観光地でしか見ることができないが、現代社会に置き換えれば「タクシードライバー」である。大都会の中のタクシードライバーの生活世界についてはロバート・デニーロ主演の映画『タクシー・ドライバー』(1976)で描かれている。で、そうした人力車夫(タクシードライバー)に取って代わって、工場勤めの人足が台頭してきたということである。工業化の進展は下層社会も必然的に巻き込んでいくのである。
 流入人口の出身地にも変化が見られる。

  いわゆる労働車の霜枯れ月に、一日千名ないし二千名の労働者が、斡旋人の手を以て、足尾銅山その他の鉱山に募集され都下の労働市場を去るのは、前に掲げた。毎年この霜枯れの月に東京より地方に散ずる労働者は、おそらく数千名で上るであろう。越後、信州の小作人は、冬季の閑時期に都門に入り、東京に放浪している下級労働者は、秋季の末頃より、坑内生活の暖気を慕うて東京を去るのは一種の光景である。そはともかくとして、この燕の如く来たり燕の如く去る富川町または花町等における木賃部落に近頃著しく増加して来たのは関西人の顔である。関西人の言語である。かつて喧嘩が迅いのは関東労働者の特徴であった。関西人の頭数加わった故か、あらぬか、柔順猫の如く、終日孜々として、喧噪の態がないのは、昨今の木賃部落である。事業界に関西人の勢力加わりつつあるのみならず、浮草の如き木賃労働者の間には、関西人が人数と勢力とを加えつつあるのである。(pp.273-274)

  かつて東北地方からの流入人口が主流であった東京に、関西地方からの流入人口が増えてきたという指摘である。交通機関の発達や東京の臨海地域における工業地帯の発達を背景としてものであろう。「関西人」を「外国人労働者」に置き換えれば、現代にも通じる話である。
  地価の上昇も下層社会の生活に影響を与えている。

  貧街の変遷を見るに、かつて坪三円ないし五円であった土地は、十円となり、二十円となり、三十円以上を告げ、かつて三十銭ないし五十銭の屋賃は、一円五十銭、二円、甚だしきは四、五円以上に飛んでいる。暫く万年町に例を取ろう。…(中略)…ただし万年町の特色は、屋賃の低廉にあらず、家屋の醜穢にあらず、住民の性質とその職業であった。一般市民より除外せられていた両側の光景と周囲の空気であったので、当時往還に商店を見たのは幾軒であったろう、表通りは大抵蔀(しとみ)を下ろし、襤褸(ぼろ)を纏っている小供が、前後左右に旁午しているほかには、ほとんど普通の市民は往来していなかった。路上の物干し竿には、腰巻が掛かっていた。で、その住民は、あるいは手伝い人足といい、あるいは土方人足というも、そは世間への体裁で、実は半丁に魂を打ち込んでいた遊人が多く、一度万年町に入れば、旧幕時代のそれと同じく、社会外の人と見られていた。万年町の住民が、東京市の細民部落と異なったのは、この故であった。しかるに木賃宿取締規則出でて万年町の光景俄に変じ、特殊学校の建築あって、更に面目を一新し、今は普通の市街と何ら相違がなくなったのは多大の変遷であった。地価または屋賃に大変動を現してきたのは自然の順序であろう。(pp.274-276)

  経済の発達は貧民の生活を向上させる。相対的には貧民でも、絶対的には貧民から一般の庶民の水準へと近づいていく。ただしかつての貧民窟の生活の向上は貧民窟の消滅ではなく、新たな貧民窟の形成と表裏一体の現象である。

  転じて郡部または郡部に近き貧民部落を物色するに、近頃雑業者が増殖して来たのは、前掲の如く板橋、千住附近の貧民部落で、巣鴨、日暮里、三河島等の市外にも、貧民の住居が目眩ろしく殖えて来た。小石川の場末で、巣鴨に近き西丸町または西原町にも、彼の有名なる百軒長屋または穴倉長屋等がある。…(中略)…ここに注目に値するのは、万年町、山伏町の住民が、入谷町より三ノ輪または日暮里に移動すると同じく、小石川場末の貧民も同じく然りで、比較的屋賃高き百軒長屋(西丸町)より、屋賃低き穴倉長屋(西原町)に転じ、穴倉長屋の落武者は、巣鴨庚申塚の百軒長屋に転じつつあることである。すなわち昨今巣鴨庚申塚の百軒長屋に住せる者は、かつて西丸町の百軒長屋に住んでいた経歴があることである。…(中略)…百軒長屋の住民は、夫婦共稼ぎの健全なる者は多く、穴倉長屋のは、一定の職業なき日稼ぎ人足で、その稼ぎ人は酒飲者か、あるいは病体か、然らば首枷となる子供が多いのか、三者の中必ずその一におる。最も多いのは、子供が三、四人を控えて、内職が出来ないという連中であろう。総じて日清戦役前後には、鮫が橋等のほか余り見なかった襤褸の世界が、今や巣鴨に、大塚に板橋に、日暮里に、三河島に、千住に発散したのは今日の状況である。他方では工場職工、工場付属の人足、または例の燕の如き放浪人足は、深川本所の場末に拡がっているのである。(pp.276-278)

  清水幾太郎の一家が両国橋を渡って日本橋両国から本所へ引っ越していったのは大正八年のことであったが、それは新たに形成された下層社会地域へ「落ちていくような」引っ越しであったわけである。

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2006年4月 9日 (日)

拝金主義批判

  清水幾太郎が生まれた1907年(明治40年)に作られた「ああ金の世や」(作詞・作曲 添田唖蝉坊)という演歌がある。

 ああ金の世や金の世や
 地獄の沙汰も金次第
 笑うも金よ泣くも金
 一も二も金三も金
 親子の中を割くも金
 夫婦の中を割くも金
 強欲非道とそしろうが
 我利我利亡者と罵ろうが
 痛くも痒くもあるものか
 金になりさえすればよい
 人の難儀や迷惑に
 遠慮していちゃ身がたたぬ
 ああ金の世や金の世や
 希望は聖き労働の
 我に手足はありながら
 見えぬくさりに繋がれて
 朝から晩まで絶え間なく
 こき使われて疲れはて
 人の味よむ暇もない
 これが自由の動物か

  演歌は元々は自由民権の思想の街頭宣伝ソングで、今風に言えば、演説のラップ版である。長たらしくて小難しい演説よりも、演歌の方が一般民衆への宣伝効果はあったのであろう。そうした政治的文脈をしだいに離れて、演芸のひとつのジャンルとして独立していって、現在の演歌へと繋がるわけである。
  「ああ金の世や」は社会主義思想を背景とした拝金主義批判をその内容としている。この世界を構成するさまざまな事物の中でお金に至上の価値を置く思想を拝金主義と呼ぶ。拝金主義は前近代社会からあったが、近代化(=資本主義化)の過程で生まれた「金持ち」たちの姿を借りて具体的に目に見える形で社会の表舞台に登場してきた。
  ポピュラーカルチャーに見られる拝金主義批判としては、尾崎紅葉の『金色夜叉』(1897年から読売新聞に長期連載)が有名で、読者は毎朝の新聞の配達を待ちかねてこれを読んだという。『金色夜叉』は日清戦争と日露戦争の間の時代に作られたが、この時代は日本の資本主義の発達過程でいえば産業の中心が軽工業から重工業へシフトしていく時期であった。その点からすると、許嫁(鴫沢宮)を銀行家の息子(富山唯継)に奪われた一高生(間貫一)が、勉学の道を捨てて、高利貸の手代となって世間に復讐するという筋書きは、「金持ち」の描き方としては前近代的なものであった。
  「ああ金の世や」が作られた時期は「成金」という言葉が流行していた。将棋の歩が敵陣に入ると裏返って金に変身するところから来た言葉だが、日露戦争後の好況は多くの「成金」を生んだ。その代表が鈴木久五郎だった。

 鈴木久五郎 明治時代後期の相場師。明治十年(一八七七)五月、埼玉県粕壁(春日部市)に生まれた。日露戦争後の好況期に株式投機で巨額な利益をあげ、相場師「鈴久」の名を天下に轟かせた。かれの名を有名にしたのは当時代表的な花形投機株の東株・鐘紡などの仕手戦で、買い方にまわった「鈴久」は瞬時にして一千万円の巨富を得た。一夜にして大富豪となったかれのことを人々は「成金」とよんだ。だが、そのかれも「売り」を知らないばかりに数年を待たずして株式暴落によって没落する。昭和十八年(一九四三)八月十六日没。六十七歳。(『日本近現代人名辞典』より)

  鈴木久五郎がはたして「ああ金の世や」で歌われているような強欲非道な我利我利亡者であったかどうは知らない。何を言われようと、金になりさえすればよい、とうそぶいていたかどうかも判らない。肝心なことは、一般の庶民が、「金持ち」とくに「成金」のことを、そうしたイメージでとらえていた、とらえたがっていたということである。ここには明らかに妬みの感情がある。自分たちも欲しているもの、しかしどうしても手に出来ないものを手に入れた人間への妬みである。「成金」なんてどうせひどい奴に決まっている、そう決めつけることで、心の安静を得ているわけで、精神衛生上の生活の知恵といえるだろう。すなわち拝金主義批判の背景には世間一般の水準における金銭欲や物欲の高まりがあると見るべきなのである。清水幾太郎が生まれた1907年(明治40年)は、そういう時代だった。

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2006年4月 7日 (金)

マイノリティーの楽しみ

  清水幾太郎の卒論は「オーギュスト・コントに於ける三段階の法則について-知識社会学的一研究-」というものである。
  コントが「社会学の父」と呼ばれていることは社会学専修の学生なら誰でも知っている(はずである、たぶん・・・・)。しかし、コントの書いたものを、邦訳であれ、読んだことのある学生はほとんどいないであろう。私にしたところで、学生時代に、中央公論社の『世界の名著』の第36巻「コント スペンサー」に収められている「社会再組織に必要な科学的作業のプラン」という短い論文を比較的丹念に(傍線を引いたり、余白に書き込みをしたりしながら)読んだ程度である。コントは、誰もが知っているが、誰にも読まれない社会学者である。
  こうした事情は清水が卒論を書いていた当時(昭和5年頃)も似たようなものであったらしい

  相手にするなら、思想的意味のある、しかけの大きい社会学者でなければいけない、大粒でなければいけない、という気持ちが働いていたように思う。その点で、コントは申し分なかった。
  また、コントぐらいの大物になれば、マルクスと並べても、そう見劣りはしないであろう、というより、コントはコントなりに、マルクスと似た問題を持っていたのではないか、と私は考えていた。また、社会学の創始者であるコントを研究すれば、社会学という学問の真実の気持とでもいうものがつかめるであろう。それをつかむのに
マルクス主義の方法が役に立つのなら、これを使おうではないか、
  こうした多少理屈に合った気持といっしょに、もう一つ、あまり理屈に合わぬ気持、すなわち、見渡したところ、誰もコントなど勉強してはいない、研究室にあるコントの著作には厚い塵が積もっている、私だけがコッソリとこの大物に手を着けるのだという、犯罪者が味わうような快感が私をそそのかしていたのである。(清水幾太郎『社会学入門』、カッパ・ブックス、pp.112-113)

  清水がコントの研究をしているときに覚えていた「快感」を、私も清水の研究をしているときに覚えることがある。たとえば、丸山真男の研究書はたくさんあるが、清水幾太郎を単独で扱った研究書はほとんどない。天野恵一『危機のイデオローグ-清水幾太郎批判』(批評社、1979)と小熊英二『清水幾太郎-ある戦後知識人の軌跡-』(神奈川大学評論ブックレット26、2003)の2冊だけである。これに間もなくミネルヴァ書房の日本評伝選の1冊として竹内洋『清水幾太郎』が加わる予定だが、それでもまだ3冊である。私の『清水幾太郎と彼らの時代』の刊行時期は未定だが、「5本の指に入る」可能性は高いであろう。マイノリティーであることの楽しみ。だから、学生が「清水幾太郎」を「シミズキタロウ」と発音しても、心穏やかに、「西田幾多郎と間違ってないかい?」と注意することができるのである。

 

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2006年4月 6日 (木)

『近代日本社会学者小伝』

  歴史辞典の中の「清水幾太郎」を取り上げたついでに、もう1冊、辞典の類をあげておく。川合隆男・竹村英樹編『近代日本社会学者小伝』(勁草書房、1998)である。定価1万5千円。この本は1829年生まれの西周から1931年生まれの湯崎稔まで、出生年順に編まれた、140名の近代日本の社会学者の小伝集である。もっとも福沢諭吉や長谷川如是閑のような普通は社会学者とはみなさい人物や、アーネスト・フェノロサやロナルド・ドーアといった日本と関係の深い外国人の社会学者も含まれている。1907年生まれの清水は120番目に登場する。執筆者は中筋直哉(当時、山梨大学助教授)。

  東京都生まれ。東京高等学校を経て東京帝国大学社会学科に学ぶ。高校時代より社会学に熱中する。卒業後同学科副手。卒業論文の一部が雑誌『思想』に掲載され、三木清(1897-1945)に激賞される。引き続き『思想』および「唯物論研究会」で活躍。逆に東大副手の職を免じられ、以後市井の文筆家として生計を立てることになった。戦時下には三木に従って「昭和研究会」で活動し、さらに太平洋協会アメリカ研究室、海軍技術研究所などの政府機関にも関与した。戦後は進歩的文化人の代表として、米軍基地反対闘争や日米安保反対運動等で世論をリードした。また学習院大学教授として教壇にも立った。ところが安保反対運動以降急速に主張を変え、反動的文化人の代表の1人と目されるようになった。晩年は卒業論文以来のテーマであるA・コントの文献研究に沈潜した。

  清水が遍歴した準拠集団・所属集団に着目して書かれている点が特徴といえるだろう。「反動的文化人」というのは「進歩的文化人」の反対語であろうが、政治セクトの文書などで使われるほかは、普段はあまり耳にしない言葉で、辞典的記述の中で用いるのはどうかと思う。この後に、「略年譜」「略伝」「著作文献目録」「研究参考書誌」が来るが、面白いのは「略伝」(短めの評伝)である。印象に残った箇所を引いておく。

  彼の全生涯を見渡すとき、戦後15年間の華々しい活躍はむしろ特異に映る。そこで彼の「現代社会学」は現実の大衆社会による実証に曝されるのだが、「離脱の精神」に基づく以上それは原理的に不可能な試みであった。当時の代表作とされる「庶民」の論文と、彼が支援した基地反対闘争の当事者との論争「内灘村長への手紙」との間にある落差には、出自としての庶民に深く執着しつつ、現実の庶民にはあくまでも進歩的文化人として対立する他ない彼の思想の不可能性が露出している。自ら帰郷すべき庶民を見出すことこそ彼の思想の最大の課題であることは、この時期にこそ明白となったはずである。
  しかし彼は、「離脱の精神」に固執するがゆえに庶民の思想家たり得なかった。安保闘争以後の知的隠遁は、進歩的か反動的かという区別を越えて、現実世界そのものから離脱の様相を呈している。転向と揶揄された晩年の著作群にしても、他のイデオローグたちと異なり、明確な論拠、背景となる私的利害が希薄である。それは庶民の保守イデオロギーですらあり得ない。保守主義者として清水の名は今やほとんど忘れさられている。清水の「現代社会学」の栄光と困難は、社会学自らの生の問題を社会に向かって表現する一つの方法たり得ることを初めて示したことと、それが結局は語り手のモノローグに過ぎないことをさらけ出したこととの間にある。それは私たちの社会学のひとつの可能性であり、ひとつの限界である。

  少々結論を急ぎすぎているきらいはあるが、「庶民」が清水の思索と行動を理解する上でのキーワードであることは間違いない。
  なぜ清水は「庶民」にこだわったのか。彼が「庶民」の出身だからという説明では不十分である。自分の社会階層にしろ、エスニシティにしろ、ジェンダーにしろ、ものごころついたときにはすでに備えていた属性に対して意識的になるには、それと反対の属性を備えた他者の出現を待たねばならない。日本人として生まれたから自分が日本人であることを意識するのではなく、外国人や外国文化との出会いや遭遇があって、そしてその出会いや遭遇がショッキングなものであったとき、自分が日本人であることを強く意識するようになるのである。清水が「庶民」を前面に押し出すようになったのは、「エリート」の出現があったからである。具体的に言えば、その「エリート」とは、『世界』1946年5月号に「超国家主義の論理と心理」を引っさげて衝撃的な論壇デビューを飾った32歳の丸山真男(当時、東京大学法学部助教授)である。敗戦直後の数年間、戦時中に読売新聞論説委員として戦争協力的な社説を書いていたことや、戦後の流行思想である民主主義やマルクス主義に同調できないこともあって、少々燻っていた感のある清水が、戦後日本のオピニオンリーダーの一人として自信に満ちた足取りで歩き始めたのは、ライバルとしての「エリート」の出現によって、自分の言論人としてのスタンスがはっきりしたからであろう・・・・という趣旨のことを、私は最近、「清水幾太郎における戦中と戦後の間」という論文(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第51輯第1分冊、2006年2月)に書いた。私のホームページの「清水幾太郎と彼らの時代」のコーナーにアップしたので、関心のある方は読んでみて下さい。

http://www.f.waseda.jp/ohkubo/aida.htm

  私が清水幾太郎に関して次に書こうとしている論文は、早稲田社会学会の機関誌『社会学年誌』48号(来年2月刊行予定)に寄稿する予定のもの(タイトル未定)で、実態としての「庶民」および清水の中のイメージとしての「庶民」の変容がどのように起こり、それが清水の思索と行動にどのように反映されていったのかを論じることになる。これは夏休みの仕事である。

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2006年4月 5日 (水)

『日本近現代人名辞典』

  「吉田松陰・坂本竜馬から渥美清・小泉純一郎まで。重要人物4500人を収録。初の本格的〈近現代人名辞典〉誕生!」と帯に書かれた吉川弘文館『日本近現代人名辞典』が刊行されたのは2001年7月のことだった。定価2万円。早稲田大学生協文学部店の歴史コーナーでそれを見つけた私が最初にしたことは、もちろん、「清水幾太郎」が載っているかどうかの確認である。はい、ちゃんと載っていました。

 しみずいくたろう 清水幾太郎 一九〇七-八八 昭和時代の社会学者、ジャーナリスト、思想家。明治四十年(一九〇七)七月九日、東京市日本橋区薬研堀町(東京都中央区)に生まれる。昭和六年(一九三一)東京帝国大学文学部社会学科卒業。東大副手を経て、十四年東京朝日新聞社学芸部嘱託(コラム「槍騎兵」で時評を担当)、十六年読売新聞社論説委員。第二次世界大戦後の二十一年、二十世紀研究所を設立してその所長となり、戦後日本の民主化に対処する知識人集団を組織した。二十四-四十四年学習院大学教授。昭和八年の『社会学批判序説』から六十一年の『私の社会学者たち』に至るまで、常に日本の社会学者として学会のトップランナーであり、実証研究の分野での有賀喜左衛門、経済社会学の視点から独自の社会学理論を構築した高田保馬とともに、きわめて大きな影響力を発揮した。前期の清水社会学は敗戦前のそれであり、自然法と有機体説の対立のうちに社会学の成立を見るものだった。中期は、敗戦から六〇年安保闘争の直後までの戦後日本の民主化・産業化に即応し、アメリカ社会学・社会心理学の成果を積極的に吸収した時期で、代表作『社会学講義』(昭和二十五年)と『社会心理学』(二十六年)によって特徴づけられる。後期の清水社会学は、産業化から情報化・管理化へと推転していく日本社会のなかで、マス(大衆)としての近代的個人という逆説への深いペシミズムとその反動としての民族・国家・伝統への回帰を基調とする。清水の社会学は人間的自然の社会学であり、これら三期の展開は、日本人であるわれわれ自身の人間的自然の諸力と諸可能性の実践的検証とのつきあわせを要請している。昭和六十三年八月十日没。八十一歳。墓は東京都八王子市の高尾霊園にある。『清水幾太郎著作集』全十九巻(講談社)が刊行されている。(田中義久)

  『岩波日本史辞典』は活動中心の記述だったが、『近現代人名辞典』の場合は、記述の分量が多い(約2倍)こともあって、清水の思想(清水社会学)の特徴にまで話が及んでいる。「マス(大衆)としての近代的個人という逆説への深いペシミズムとその反動としての民族・国家・伝統への回帰を基調とする」という指摘は的確である。ただし、「常に日本の社会学者として学会のトップランナーであり」云々の部分は、持ち上げ過ぎという印象を受ける。清水は中学生のときに社会学者を志し、高校入学と同時に設立間もない日本社会学会の会員になったが、1971年(学習院大学退職の2年後)、学会を退会している。

  一昨年の夏、私は日本社会学会を退会した。何か特別の事情があったわけではなく、機関誌『社会学評論』を読んでも面白くないし、稀に年次大会へ出席しても面白くないという経験を重ねた末、会員であることが惰性のように思われ、惰性で生きるのは恥ずかしいと気がついたためであった。(清水幾太郎「戸田貞三先生のこと」『思想』1973年5月号)

  清水は学会という同業者のコミュニティーの中で業績をあげることをめざすタイプの社会学者ではまったくなかった。20年間、学習院大学の教授であったが、所属箇所は政経学部政治学科だったから、社会学プロパーの弟子は少ない。この点、東大法学部教授として「丸山山脈」と形容される人脈を学会の中に形成した丸山真男とは好対照である。清水は英独仏の外国語で書かれた文献に通じていたので、時代の先端にある問題や概念をいち早く吸収し、それを使って新鮮でシャープな現代社会批判を行っていたが、学問的に「清水社会学」と呼べるようなオリジナリティーのある社会学理論や社会学的概念を構築したわけではない。

  ジャーナリスティックな傾向と言ってしまえば簡単であるが、何処かに、「面白さの平面」というようなものがあって、どんな問題にしろ、その平面まで分析せねば気が済まないし、また、その平面を越えて分析を勧める気にならないという態度が以前から私にはあった。(清水幾太郎「或る告別式」『図書』1972年3月号)

  清水が現在の日本の社会学者たちに影響を与えているとしたら、その一番のものは、彼らが(私も含めて)社会学の門をくぐったときに、社会学の魅力というものを教えてくれたことだろう。ある年齢以上の社会学者には清水が書いた本を読んで社会学の門をくぐった者が非常に多いのである。

  社会学を勉強するというのは、ただ社会学という名のついた本を読むことではない。そうではなくて、本当は、社会を勉強することなのである。私たちがそこに生き、そこで苦しんでいる現代の日本の社会の諸問題を取りあげて、その解決に向かって活動することである。少なくとも、そういう活動の一つなのである。現代の社会そのものに何の関心も見識もない社会学者などというものは、まったくのナンセンスなのである。…(中略)…社会学を勉強する人は、いつも社会問題や社会思想を勉強していなければいけない。社会学者も、社会運動家も、社会思想家も、突きつけられている問題は同じなのである。この点を忘れて自分を社会学というトーチかに閉じこめると、私たちは社会学学者になってしまう。勉強家ほど、なりやすい。(清水幾太郎『社会学入門』カッパブックス、1959年)

  ちなみに執筆者(『岩波日本史辞典』は無署名)の田中義久は法政大学教授(社会学)。田中先生とは私が大学院の学生だった頃、八王子セミナーハウスで開かれる早稲田、慶応、法政の社会学の学生の合同合宿の打合せで、法政大学の近くにある私学会館で夕食をご一緒したことがある。安価なコース料理で、デザートにバナナが出て来た。バナナがデザートに出て来たのにも驚いたが、それを田中先生がマナーに則って生真面目にナイフとフォークを使って食べ始めたのにはもっと驚いた。私は自分がバナナをどんな風に食べたのか覚えていないが、田中先生のマネはしなかったと思う。かといって普通に手で皮を剥いてパクリと食べるのは田中先生に対して失礼だから、もしかしたら「もうお腹がいっぱいで・・・・」と言って、手を付けなかったかもしれない。一度、田中先生にご自身と清水との関わりについて伺ってみたいものである。

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2006年4月 4日 (火)

『岩波日本史辞典』

  山川出版の『日本史広辞典』(1997)に「清水幾太郎」の名前が載っていなかったことは、びっくりすると同時に、一種の義憤めいたものを覚える出来事だった。この感じは、清水が亡くなったとき(1988.8.10)、すべての全国紙が彼の死亡記事を載せた中で、共産党の「赤旗」だけがそれをしなかったときの感じに似ている。共産党は、清水を批判することによってではなく、その死を黙殺することによって、彼を「忘れられた思想家」にしようとしたのである。ある人物が忘れられるかどうかは、決して自然の過程ではなく、高度に政治的な過程なのである。
  このことがあったので、岩波書店から『岩波日本史辞典』(1999)が出たときは、そこに「清水幾太郎」の名前が載っているのかどうかが、まず気になった。はたして、550頁にそれは載っていた。

 清水幾太郎 しみずいくたろう 1907.7.9-88.8.10 社会学者、評論家。東京生れ。東大社会学科卒。東大副手を経て、東京朝日新聞嘱託としてコラムを担当、1941-45年読売新聞論説委員。49-69年学習院大学教授。マルクス主義の社会学者として出発。32年唯物論研究会に参加。その後プラグマティズムに接近。40年には全体主義への批判を伴った「社会的人間論」を著すが、戦時中、戦争協力者的論説を書いた。46年二十世紀研究所を設立、ついで平和問題談話会会員として活躍。50年代には内灘・砂川の基地反対闘争に参加、60年安保闘争では全学連主流派と行動をともにした。高度成長下の60年代には近代化論に結びつき、戦後民主主義の理念と決別。さらにタカ派の論客へと変貌した。〔著作集・19巻・1992-93〕

  岩波書店と清水との間には浅からぬ因縁がある。清水が論壇デビューを飾ったのは雑誌『思想』であったし、戦後創刊された『世界』の常連の執筆者の一人であったし、岩波書店がスポンサーであった平和問題談話会は「清水でもっている」と周囲から見られていた。それが60年安保の行動方針をめぐって共産党を批判したことで、左翼の統一戦線をめざしていた編集長吉野源三郎と対立し、その後、『世界』へは執筆をしなくなった。しかし、さすがに岩波書店というべきだろう、そうしたいきさつはいきさつとして、「清水幾太郎」は歴史に名前を残すべき人物であるという判断をきちんと行った。もちろんその記述は「左寄り」の視点からのものであるが、そもそも、歴史記述に「中立」(没価値的)ということはありえないのである。

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2006年4月 3日 (月)

忘れられつつある思想家

 私は清水幾太郎を論じた論文を数本書いているが、その中に「忘れられつつある思想家-清水幾太郎論の系譜-」がある(早稲田大学文学研究科紀要44ー1、1999年)。このタイトルがハーバート・ノーマン『忘れられた思想家-安藤昌益のこと-』(岩波新書)を意識したものであることは、ある年齢以上の読書家にとっては説明するまでもないことなのだが、ある年齢以下の人たちにとっては必ずしもそうではないようである。これは、和歌でいえば「本歌取り」というやつで、有名なところでは、定家の「駒とめて袖打ち払ふ蔭もなし佐野の渡の雪の夕暮」は万葉集巻三の「苦しくも降りくる雨か三輪が崎佐野の渡に家もあらなくに」を本歌としている。本歌取りという技法は、当然、読み手が本歌を知っていること(一定の文学的教養)を前提としているわけで、二つの歌を重ね合わせながら読んでもらうことで、作品に奥行きが与えられると同時に、作者と読者の間で一種のコミュニケーション(「ご存じですよね?」「もちろん!」)が成立するわけである。こうした伝統的技法はいまでも引き継がれていて、たとえば、三谷幸喜の「12人の優しい日本人」はレジナルド・ローズの「12 Angry Men(十二人の怒れる男)」のパロディである。もちろんそんなことを知らなくても、「12人の優しい日本人」は十分に面白い芝居なのだが、そういう背景を知っていれば、そこに日米文化比較という視点が加わって、十二分に面白い芝居になるのである。

 閑話休題。清水幾太郎が「忘れられつつある思想家」であることを私が実感したのは、清水の死から10年目(1997年)に出版された『日本史広辞典』(山川出版)に「清水幾太郎」という項目がないことに気づいたときである。あの「日本史の山川」が出した辞典に「清水幾太郎」の名前が載っていないというのは、大変なことである。なぜなら「清水幾太郎は歴史に名前を残すべき人物ではない」という判断がそこで下されたわけだから。『日本史広辞典』には、「丸山真男」「福田恆存」「大塚久雄」「川島武宜」らの名前は載っている。「宮本顕治」や「大江健三郎」といったまだ鬼籍に入っていない人の名前も載っている。うっかりではないとすれば、「清水幾太郎」が外された理由はなんだろうか? 論文の中で私は次のような推測を行った。

 山川出版社の『日本史小年表』は携帯に便利なので、私は愛用している。しかし、この年表には一つ欠点がある。それは一九二八年六月二九日に「治安維持法改悪」と書かれている点だ。 これは「治安維持法改正」でなくてはならない。「治安維持法改正」とは一九二五年四月二二日に公布された治安維持法では最高刑が「十年の懲役」となっていたところを、「死刑又は無期 」に引き上げたことをいう。治安維持法は悪法であるから、その改正は「改悪」を意味する、と言いたい気持は分かる。しかし、それは教師が授業の中で言えばいいことであって、あらかじめ 年表に書くべきことではない。一旦そういうことをしてしまったら、他の法改正についても同様のチェックをしないわけにはいかなくなるが、『日本史小年表』はそれはやっていない(まさか、 チェックはしたが、治安維持法改正以外のすべての法改正は「正しい」ものだったというわけではあるまい)。こうした「細工」を年表に加える出版社から出た歴史辞典に、治安維持法を弁護した 「清水幾太郎」の名前が載っていないのは当然のことなのかも知れない。

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2006年4月 2日 (日)

清水幾太郎の手紙

 私が大学院の授業で清水幾太郎の話をよくするものだから、学生から「先生は清水幾太郎の授業に出ていたのですか」と聞かれることがある。清水は1969年3月に学習院大学を退職し、私は1973年に早稲田大学に入学したので、時間的・空間的な接点はない。私は清水の著作を通して彼について知っているだけである。

 ただし、一度だけ、清水と手紙のやりとりをしたことはある。1978年のことだ。当時、大学院の入試の勉強をしていた私は、自分の卒業論文を清水に読んでもらいたくて、しかし、現物そのままでは分量的に失礼だろうと考え、その要約を作って、郵送したのである。私の卒業論文は「子供と社会に関する発達社会学的考察」と題するもので、社会学の根本問題である「社会と個人」の問題が個人の成長(社会への組み込まれ)の過程でどのように発生し、変容していくのかを論じたものである。発達社会学という用語は私の造語ではないが、それを使っている人はほとんどなく、発達を扱うのはもっぱら心理学者の仕事(発達心理学)だと思われていたのだが、発達を社会学の分析枠組を使って考察するというのが私のアイデアであった。そしてこのアイデアは私が清水の著作を読んでいて思いついたものである。その著作というのは、『社会と個人-社会学成立史』(1935)と『社会的人間論』(1940)である。前者は社会学という学問の成立の契機としての「社会と個人」の問題の発生を歴史的に検証したもので、後者は個人の一生を集団から集団への遍歴としてとらえることで、個人が社会に組み込まれつつ、同時に個人が社会を作っていく相互作用過程を論じたものである。私は前者から問題(社会と個人)を、後者から方法(発達的アプローチ)を学んだ。そういう経緯があったので、自分の卒論をぜひ清水に読んでもらいたかったのである。そのときの手紙にどんなことを書いたのか、コピーを取っておかなかったので覚えていないが、たぶんファンレターのような文面であったろうと思う。清水からの返信があったのは、2ヵ月ほど後のことだった。

 雑用に追われ、返事が遅れて申し訳ありません。お手紙および学士論文要約、拝読しました。前者を読んで大いに恐縮し、後者を読んで大変に見事だと思いました。立派なものだと思います。似たようなテーマ-ただし目的や条件は全く違いますが-は「社会的人間論」(昭和十五年)で少し扱ったことはありますが、甚だ粗雑なもので、われながら恥づかしい次第です。小生、ご承知のように、あちらこちらと放浪を重ね、経済学に手を出したり、哲学に文句をつけたり…聊か身を持ち崩していますが、どうか私のように右往左往せず、確実な研究者の道を歩いて下さい。現在は、修士課程でしょうか。修士論文完成の暁は、是非、「要約」を拝読したいものです。小生は、昨年、「昨日の旅」(『文藝春秋』)の連載を終り、昔からの宿題であるオーギュスト・コントに関する本の準備を進めているところです。しかし、なかなか捗りません。エネルギーが大分減って来たためでしょう。ご健勝を祈ります。

 三月四日                          清水幾太郎

  無名の高校野球選手が長嶋茂雄から手紙をもらったようなものである。お世辞だとわかってはいても、自分の卒論が「大変に見事だと思いました」とか「立派なものだと思います」と言われて、嬉しくないはずはない。ブタもおだてりゃ木に登るというやつである。大学院に合格したばかりで(当時の院試は2月か3月かにあった)、まだ入学はしていなかったが、自分は研究者としてやっていけるだろうと思った。

 清水幾太郎『オーギュスト・コント-社会学とは何か-』(岩波新書)が出たのは、その年の9月のことである。小さな本には不釣り合いなほどの大量の文献を渉猟した末のその上澄みだけを使って書かれた本である。しかし、その年、世間の耳目を集めたのは、この小さな研究書ではなくて、清水が『中央公論』6月号に発表した「戦後を疑う」という刺激的な評論の方であった。その内容は(進歩的な)戦後思想の二大公理であった共和制と社会主義が治安維持法への復讐の心理に由来するものであることを論じたもので、「右往左往」してきた清水が、最後の大きなステップを「右」に向けて踏み出したことを示すものであった。

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2006年4月 1日 (土)

語られない現在

 清水の3冊の自伝に共通する特徴として、自伝の記述が自伝執筆の時点のかなり手前で終わっているということがある。『私の読書と人生』(1949年刊行、清水42歳)場合は、1945年の春(清水37歳)、間断なく続く空襲の日々の中で、自宅の湯殿で『社会と個人』の中巻と下巻のために書いた原稿を燃やす場面で終わっている。『私の心の遍歴』(1956年刊行、清水48歳)の場合は、自伝のカヴァーする期間はむしろ最初の自伝よりも短くなり、1936年の暮れ(清水29歳)、清水・妻・娘・女中の4人で、牛込の市ヶ谷田町に引越(母・妹・二人の弟とは別居)をしたところで終わっている。『わが人生の断片』(1975年刊行、清水67歳)の場合は、60年安保闘争の直後、現代思想研究会の立ち上げ、雑誌『現代思想』の創刊と廃刊などの話で終わっている。清水は『わが人生の断片』の「あとがき」に次のように書いている。

 書いているうちに調子が出て来たのか、実は、もっと後の時期まで書こうと考えたことがある。本書は、昭和三十七年頃、『現代思潮』が書けそうだと思うところで終わっているが、その後も、書けば書ける材料がある、と私は思った。…(中略)…しかし、これは駄目であった。如何に材料が揃っていても、また、何度か試みもしたが、肝心の筆が動いてくれない。総じて、自分の経験というものは、それが発生した平面とは別の平面に私が立った時に、漸く一つの客体として見えて来るのであろう。現在の私は、他に何があったにしろ、安保闘争後の私と同じような平面に立っているのであろう。(著作集14、pp.497-498)

 他の2冊の自伝が自伝執筆の時点のかなり手前で記述が終わっているのも同様の理由によるものであろう。すなわち「現在」をその一部に含むところの時期については語ることが難しいということである。これは歴史家の態度と似ている。歴史家にとって「現代史」というのは本来はありえない言葉である。歴史というものが、無数の事実の中から限られた数の事実を抽出して、それらの間に因果関係の連鎖を施したものである以上、現在進行中の事象についてはそういう作業は困難である。鼻の先に新聞を突きつけられても近すぎて判読が困難で、判読するためにはほどよい距離を置く必要があるが、空間的距離についていえることは時間的距離についてもあてはまろう。もちろん、清水のような自伝は稀で、ほとんどの自伝は自伝の執筆時点までをカヴァーしている。しかし、注意深い読者ならば、誰の自伝であれ「現在」を語る最終章は文章の調子がそれまでとは微妙に変化することを感じるはずである。一方は完了形で語られ、他方は進行形で語られる。「過去」を語るように「現在」を語ることはできないのだ。清水は『私の文章作法』という本を書くほど文章を書くという行為に自覚的な人であったから、そうした文章の調子の非一貫性に人一倍敏感であったのだと思う。

 しかし、「清水幾太郎と彼らの時代」を研究テーマにしている者にとっては、彼の自伝が安保闘争直後で終わっていることは、大変に残念である。清水は学習院大学を退職する際の最終講義(1969.1.18←東大安田講堂の攻防戦があった日!)の中で、自分の一生を一冊の書物に喩えている。第1章は最初の約20年(東大の学生時代まで)、第2章は次の約20年(ジャーナリスト時代)、第3章は次の約20年(学習院大学教授時代)、そして第4章はこれからの人生である。

 ここで、私は、新しく第4章を書き始めることにいたしました。第4章を書くために、まだ停年までには九年ばかりあるのですが、私は学習院を退職することにしたのであります。退職して、それからどうするのか、という質問を方々から受けます。私としては、今までやって来た勉強を少し纏めてみたいと考えております。コントなら、Synthese(綜合)というところですが、私はそれほど大きなことは考えてはおりません。…(中略)…私の第四章が、どのくらい長いものになるか、どのくらい短いものになるか、豊かなものになるか、貧しいものになるか、私には判りません。誰にも判らないでしょう。しかし、私は、第四章を書き始めようと思います。私の言うべきことは、以上で終わります。さようなら。(著作集11、pp.292-293)

 清水が亡くなったのは1988年8月10日。彼の人生の第四章も約20年であった。

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