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2006年4月26日 (水)

故郷へのまなざし

  農村から都市への大量の人口移動は、「故郷」へのまなざしを強める。「故郷」はたんに人が生まれ育った場所ではない。ある場所で生まれ育った人が、その場所を遠く離れて、遠く離れた場所から自分が生まれ育った場所を振り返るとき、「故郷」という叙情的な対象が生まれる。
  数ある「故郷ソング」の中で、一番ポピュラーなものは、♪兎追いしかの山、小鮒つりしかの川、夢は今もめぐりて、忘れがたき故郷~、の文部省唱歌『故郷』(詞:高野辰之、曲:岡野貞一)であろう。1914年(大正3年)に世に出た歌である。読売新聞が身の上相談を始めた年であり、朝日新聞が漱石の『こころ』の連載を始めた年でもある。心理的な「内面(人生問題)」へのまなざしの普及と、空間的な「故郷」へのまなざしの普及は、どこかで連動しているように思う。
  『故郷』よりも以前の「故郷ソング」としては、♪夕空はれて、あきかぜふき、つきかげ落ちて、鈴虫なく~、の『故郷の空』(明治21年)。♪幾年ふるさと、来てみれば、咲く花鳴く鳥、そよぐ風~、の『故郷の廃屋』(明治40年)。♪園の小百合、撫子、垣根の千草~、の『故郷を離るる歌』(大正2年)などがある。しかし、これらの歌が外国の曲(『故郷の空』はスコットランド民謡、『故郷の廃屋』はアメリカの作曲家W.ヘイズの曲、『故郷を離るる歌』はドイツ民謡)に日本語の歌詞を付けた(訳詞とはいえない)ものであるのに対して、『故郷』は日本人による作詞・作曲、いわば和製「故郷ソング」なのである。
  日本は近代化の進展の中で多くのものを欧米から輸入した。モノや制度だけでなく、そこには「人生の物語」も含まれていた。近代版「人生の物語」の基本である「成功(立身出世)の物語」はまずもってサミュエル・スマイルズ『自助論』の翻訳である『西国立志編』によって広く普及し、ようやく大正時代も半ばになって、「野口英世」という日本人モデルを見出した。輸入品が先行し、続いて国産品が普及するというのは、近代化の後発国の一般的パターンである。
  『故郷』の三番の歌詞、♪志を果たして、いつの日にか帰らん~、に着目して、『故郷』を「立身出世ソング」の系列に位置づける見方に対して内田隆三は疑問を呈している(『国土論』、2002年)。

  第一の論点は、唱歌『故郷』に描かれた「故郷」への美しい憧憬の裏面には、たしかに「故郷」から逃げてきたり、「故郷」から追い出されたりした人たちがたくさん存在していたと思われることである。また、そこで歌われているように、志を果たして「故郷」に帰ることができると、人びとが実際に信じているかどうかもわからないことである。「故郷」にたいするロマンティックな感情の裏面には、「故郷」にたいするリアリズムとルサンチマンの心情が付着しており、その表/裏の奥行きを捨象してはならない(p.59)

  第二の論点は、…(中略)…それがそう単純に立身出世主義に志向していないことである。唱歌『故郷』は、大衆の社会的な動員や主体化を積極的で現実的な主題とする明治時代の歌曲から意味論的に逸れていき、心情的にも下降していく側面をもっている。吉本隆明は大正期の大衆歌謡にはその種の社会的主題の喪失が見られるというが、その意味で唱歌『故郷』は大正時代のこうした歌曲に連なっていく側面を色濃くもっているのである。
  …(中略)…こうした現実喪失、現実乖離とい視点を基準にしてみれば、唱歌『故郷』は、大衆のナショナリズムの明治から大正(一九一二-一九二五)へのまさに移行期に位置していることがわかるだろう。その歌は故郷を遠く離れ去ってしまった主体の望郷の思い、あるいは何らかの意味で故郷喪失の感情を歌っているからである。その歌には「志を果たしていつの日にか帰らん」という三番のフレーズ以外に大衆の社会的な動員という主題はとくに見られない。またこの三番のフレーズも、そうなればいいのだがというような、どこか消極的な色調を帯びている。むしろこの歌の主題は、もっぱら遠い「過去の追憶」に志向しており、子ども時代の友人や、父や母の消息や、故郷の風景の記憶を、一人孤独な思いで、あてもなく表象することにあるからである。(pp.60-61)

  確かに、『故郷』は実際に口に出して歌ってみると、一種の淋しさを伴った歌であることがわかる。今まさに故郷を離れて都会へと向かう列車に乗っている人の歌ではない。都会に着いて間もない頃の人の歌でもない。都会で暮らし始めてかなりの歳月が経ち、当初の立身出世の夢も色あせて、なんとなく先が見えてしまった人の歌のように思える。明治という「坂の上の雲」を見上げながら人々が歩いていた時代が終わり、「時代閉塞の現状」(石川啄木)が人々を憂鬱な気分にさせる時代へと入っていく、近代日本の青春の終わりを告げる歌のように思える。  

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