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2006年4月14日 (金)

下層社会へのまなざし

  21世紀初頭の日本では、社会的格差の拡大や新たな下流社会の台頭にメディアの関心が集まっている。こうした現象は資本主義社会の発展ないし変容に伴うものであるから、類似の現象は明治以降今日に至るまで繰り返し観察される。
  中川清編『明治東京下層生活誌』(岩波文庫、1994)は、1886年(明治19年)から1912年(明治45年)までの間に、新聞や雑誌に載った東京の下層社会(貧民窟)に関するルポルタージュ14編を収録したものである。
  中川によると、明治期における下層社会へのまなざし(貧困言説)は4つの時期に区分することができる。
  第一期は、明治時代前半、日清戦争以前の時期(軽工業中心)で、「貧民窟」が東京のどこあるのか、その所在を明らかにすることに力点が置かれており、下層社会は「おおむね驚きや恐れの態度で、書き手の属する社会とは異質な存在、いわば社会の外部として」描かれている。
  第二期は、日清戦争と日露戦争の戦間期で(鉄工業や鉄道網の発達)、「下層社会に固有の職業や関係、さらには習俗や慣行にしたがって記述が展開され、異質な外部社会の内側の細部が、固有な生活世界として丹念に描かれる」ようになる。なお、岩波文庫にも収められている松原岩五郎『最暗黒の東京』(1983)は第一期と第二期を架橋する作品である。
  第三期は、日露戦争後すぐの時期で、明治社会主義(自由民権左派の流れを汲むもの)というフィルターを通した社会批判のニュアンスが記述の中に見られるようになる。やはり岩波文庫に収められている横山源之助『日本の下層社会』(1899)はこの時期の作品である。
  第四期は、明治40年代で(工業化や鉄道網の発展)、これまでに描かれた来た「貧民窟」の独自の共同性が新たな人口流入と東京の拡大に伴って解体し、下層社会に独自の変容が生じていることへの着目が見られる。
  では、この第四期、すなわち清水幾太郎の幼年時代の東京で起こった下層社会の変容とは具体的にどのようなものであったのか。横山源之助の「貧街十五年の移動」(『太陽』明治45年5月)から引いておこう。
  まずは職業の変容である。

  日清戦役前後貧街に多数を占めていたのは、ワラジ稼業といわれていた日稼ぎ人足と人力人亜足であった。…(中略)…日清戦役前後人力車夫業の隆昌であった時は、地方より出でて腕力があり、足力がある青年の徒は、大抵一度はこの人力車夫に落ちたものである。思うに大した熟練なく、大した準備を要せず、その日に着手して直ちに若干の収益を見たのはこの人力車夫で、要する所の知識は、東京全市の地理で、欠くべからざる資本は、二本の足力と腕力だけである。都鄙の失落者が、相率いて人力車夫となったのも無理がなかった。かつて馬車鉄道施設の時、自己の生活と職業とを奪うものなりとして、この稼業者の間に不平の声高かったが、事実は大した影響もなかったのである。
  当時貧民に注目せる者は、住居問題としては万年町、鮫ヶ橋または新網を見、職業としては、まずこの人力車夫を見たのであった。次いで日稼ぎ人足は、今日の如く工場人足は、今日の如く工場人足寡なく、車力人足を筆頭として、手伝い人足、道路人足、土方人足の類は多数を占めていた。で、今日もワラジ稼業である日稼ぎ人足が大多数を占めているのは依然として変わらないが、工場付属の人足が著しく増殖して来た。(PP.272-273)

  何度か映画化された『無法松の一生』は明治の終わりから大正にかけての九州小倉を舞台に人力車夫の松五郎を主人公にした作品で、東京ではないが、当時の人力車夫の世界を知る参考になるだろう。人力車夫はいまでは京都や鎌倉といった古都の観光地でしか見ることができないが、現代社会に置き換えれば「タクシードライバー」である。大都会の中のタクシードライバーの生活世界についてはロバート・デニーロ主演の映画『タクシー・ドライバー』(1976)で描かれている。で、そうした人力車夫(タクシードライバー)に取って代わって、工場勤めの人足が台頭してきたということである。工業化の進展は下層社会も必然的に巻き込んでいくのである。
 流入人口の出身地にも変化が見られる。

  いわゆる労働車の霜枯れ月に、一日千名ないし二千名の労働者が、斡旋人の手を以て、足尾銅山その他の鉱山に募集され都下の労働市場を去るのは、前に掲げた。毎年この霜枯れの月に東京より地方に散ずる労働者は、おそらく数千名で上るであろう。越後、信州の小作人は、冬季の閑時期に都門に入り、東京に放浪している下級労働者は、秋季の末頃より、坑内生活の暖気を慕うて東京を去るのは一種の光景である。そはともかくとして、この燕の如く来たり燕の如く去る富川町または花町等における木賃部落に近頃著しく増加して来たのは関西人の顔である。関西人の言語である。かつて喧嘩が迅いのは関東労働者の特徴であった。関西人の頭数加わった故か、あらぬか、柔順猫の如く、終日孜々として、喧噪の態がないのは、昨今の木賃部落である。事業界に関西人の勢力加わりつつあるのみならず、浮草の如き木賃労働者の間には、関西人が人数と勢力とを加えつつあるのである。(pp.273-274)

  かつて東北地方からの流入人口が主流であった東京に、関西地方からの流入人口が増えてきたという指摘である。交通機関の発達や東京の臨海地域における工業地帯の発達を背景としてものであろう。「関西人」を「外国人労働者」に置き換えれば、現代にも通じる話である。
  地価の上昇も下層社会の生活に影響を与えている。

  貧街の変遷を見るに、かつて坪三円ないし五円であった土地は、十円となり、二十円となり、三十円以上を告げ、かつて三十銭ないし五十銭の屋賃は、一円五十銭、二円、甚だしきは四、五円以上に飛んでいる。暫く万年町に例を取ろう。…(中略)…ただし万年町の特色は、屋賃の低廉にあらず、家屋の醜穢にあらず、住民の性質とその職業であった。一般市民より除外せられていた両側の光景と周囲の空気であったので、当時往還に商店を見たのは幾軒であったろう、表通りは大抵蔀(しとみ)を下ろし、襤褸(ぼろ)を纏っている小供が、前後左右に旁午しているほかには、ほとんど普通の市民は往来していなかった。路上の物干し竿には、腰巻が掛かっていた。で、その住民は、あるいは手伝い人足といい、あるいは土方人足というも、そは世間への体裁で、実は半丁に魂を打ち込んでいた遊人が多く、一度万年町に入れば、旧幕時代のそれと同じく、社会外の人と見られていた。万年町の住民が、東京市の細民部落と異なったのは、この故であった。しかるに木賃宿取締規則出でて万年町の光景俄に変じ、特殊学校の建築あって、更に面目を一新し、今は普通の市街と何ら相違がなくなったのは多大の変遷であった。地価または屋賃に大変動を現してきたのは自然の順序であろう。(pp.274-276)

  経済の発達は貧民の生活を向上させる。相対的には貧民でも、絶対的には貧民から一般の庶民の水準へと近づいていく。ただしかつての貧民窟の生活の向上は貧民窟の消滅ではなく、新たな貧民窟の形成と表裏一体の現象である。

  転じて郡部または郡部に近き貧民部落を物色するに、近頃雑業者が増殖して来たのは、前掲の如く板橋、千住附近の貧民部落で、巣鴨、日暮里、三河島等の市外にも、貧民の住居が目眩ろしく殖えて来た。小石川の場末で、巣鴨に近き西丸町または西原町にも、彼の有名なる百軒長屋または穴倉長屋等がある。…(中略)…ここに注目に値するのは、万年町、山伏町の住民が、入谷町より三ノ輪または日暮里に移動すると同じく、小石川場末の貧民も同じく然りで、比較的屋賃高き百軒長屋(西丸町)より、屋賃低き穴倉長屋(西原町)に転じ、穴倉長屋の落武者は、巣鴨庚申塚の百軒長屋に転じつつあることである。すなわち昨今巣鴨庚申塚の百軒長屋に住せる者は、かつて西丸町の百軒長屋に住んでいた経歴があることである。…(中略)…百軒長屋の住民は、夫婦共稼ぎの健全なる者は多く、穴倉長屋のは、一定の職業なき日稼ぎ人足で、その稼ぎ人は酒飲者か、あるいは病体か、然らば首枷となる子供が多いのか、三者の中必ずその一におる。最も多いのは、子供が三、四人を控えて、内職が出来ないという連中であろう。総じて日清戦役前後には、鮫が橋等のほか余り見なかった襤褸の世界が、今や巣鴨に、大塚に板橋に、日暮里に、三河島に、千住に発散したのは今日の状況である。他方では工場職工、工場付属の人足、または例の燕の如き放浪人足は、深川本所の場末に拡がっているのである。(pp.276-278)

  清水幾太郎の一家が両国橋を渡って日本橋両国から本所へ引っ越していったのは大正八年のことであったが、それは新たに形成された下層社会地域へ「落ちていくような」引っ越しであったわけである。

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