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2006年4月 1日 (土)

語られない現在

 清水の3冊の自伝に共通する特徴として、自伝の記述が自伝執筆の時点のかなり手前で終わっているということがある。『私の読書と人生』(1949年刊行、清水42歳)場合は、1945年の春(清水37歳)、間断なく続く空襲の日々の中で、自宅の湯殿で『社会と個人』の中巻と下巻のために書いた原稿を燃やす場面で終わっている。『私の心の遍歴』(1956年刊行、清水48歳)の場合は、自伝のカヴァーする期間はむしろ最初の自伝よりも短くなり、1936年の暮れ(清水29歳)、清水・妻・娘・女中の4人で、牛込の市ヶ谷田町に引越(母・妹・二人の弟とは別居)をしたところで終わっている。『わが人生の断片』(1975年刊行、清水67歳)の場合は、60年安保闘争の直後、現代思想研究会の立ち上げ、雑誌『現代思想』の創刊と廃刊などの話で終わっている。清水は『わが人生の断片』の「あとがき」に次のように書いている。

 書いているうちに調子が出て来たのか、実は、もっと後の時期まで書こうと考えたことがある。本書は、昭和三十七年頃、『現代思潮』が書けそうだと思うところで終わっているが、その後も、書けば書ける材料がある、と私は思った。…(中略)…しかし、これは駄目であった。如何に材料が揃っていても、また、何度か試みもしたが、肝心の筆が動いてくれない。総じて、自分の経験というものは、それが発生した平面とは別の平面に私が立った時に、漸く一つの客体として見えて来るのであろう。現在の私は、他に何があったにしろ、安保闘争後の私と同じような平面に立っているのであろう。(著作集14、pp.497-498)

 他の2冊の自伝が自伝執筆の時点のかなり手前で記述が終わっているのも同様の理由によるものであろう。すなわち「現在」をその一部に含むところの時期については語ることが難しいということである。これは歴史家の態度と似ている。歴史家にとって「現代史」というのは本来はありえない言葉である。歴史というものが、無数の事実の中から限られた数の事実を抽出して、それらの間に因果関係の連鎖を施したものである以上、現在進行中の事象についてはそういう作業は困難である。鼻の先に新聞を突きつけられても近すぎて判読が困難で、判読するためにはほどよい距離を置く必要があるが、空間的距離についていえることは時間的距離についてもあてはまろう。もちろん、清水のような自伝は稀で、ほとんどの自伝は自伝の執筆時点までをカヴァーしている。しかし、注意深い読者ならば、誰の自伝であれ「現在」を語る最終章は文章の調子がそれまでとは微妙に変化することを感じるはずである。一方は完了形で語られ、他方は進行形で語られる。「過去」を語るように「現在」を語ることはできないのだ。清水は『私の文章作法』という本を書くほど文章を書くという行為に自覚的な人であったから、そうした文章の調子の非一貫性に人一倍敏感であったのだと思う。

 しかし、「清水幾太郎と彼らの時代」を研究テーマにしている者にとっては、彼の自伝が安保闘争直後で終わっていることは、大変に残念である。清水は学習院大学を退職する際の最終講義(1969.1.18←東大安田講堂の攻防戦があった日!)の中で、自分の一生を一冊の書物に喩えている。第1章は最初の約20年(東大の学生時代まで)、第2章は次の約20年(ジャーナリスト時代)、第3章は次の約20年(学習院大学教授時代)、そして第4章はこれからの人生である。

 ここで、私は、新しく第4章を書き始めることにいたしました。第4章を書くために、まだ停年までには九年ばかりあるのですが、私は学習院を退職することにしたのであります。退職して、それからどうするのか、という質問を方々から受けます。私としては、今までやって来た勉強を少し纏めてみたいと考えております。コントなら、Synthese(綜合)というところですが、私はそれほど大きなことは考えてはおりません。…(中略)…私の第四章が、どのくらい長いものになるか、どのくらい短いものになるか、豊かなものになるか、貧しいものになるか、私には判りません。誰にも判らないでしょう。しかし、私は、第四章を書き始めようと思います。私の言うべきことは、以上で終わります。さようなら。(著作集11、pp.292-293)

 清水が亡くなったのは1988年8月10日。彼の人生の第四章も約20年であった。

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