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2006年4月19日 (水)

群衆へのまなざし

  松田巌『群衆 機械のなかの難民』(読売新聞社、1996)の書き出しは秀逸だ。

  これから群衆についてだらだらと述べる。(p.7) 

  力みがないところがいい。本というものは、しばしば、著者が自分の頭のよさをひけらかすために書かれることがある。「だらだらと」書いたのでは頭のよさをひけらかすことはできない。単純明快な議論を展開するためには、枝葉の部分は思い切りよく切り捨てて、ついでに自分の議論の展開上都合の悪い部分も切り捨てて、「ほら、こんなにスッキリしましたよ」とファッションショーのモデルのような体型の文章に仕上げる必要がある。自分の頭のよさにうっとりしているだけの、つまらない文章がこうしてできあがる。松山の本はそうした貧困な精神とは縁遠いところで書かれている。

  二十世紀という百年は単純ではない。
  少なくとも群衆という存在が新しい表情をもって現れたことが、百年の複雑さを示している。二十世紀は進歩という風が激しく吹きすさんだ世紀である。その風のなかで群衆はどのように貌を変えるのか。ともあれ、群衆を軸にして二十世紀の日本を追いかけてみる。(p.30)

  都市への流入人口の増大によって形成されたのは、下層社会だけではない。群衆もまたそうである。群衆は一定の地域に居住している人々のことではなく、街角や駅前や広場などにひしめいている不特定多数の人々のことである。赤の他人同士である。したがって通常は互いに儀礼的無関心(civil inattention)を装っている。しかし、何かがきっかけになって、群衆が大きなエネルギーの塊となって、暴徒化することがある。都市の為政者にとってこれは最高度に警戒すべき脅威である。一方、社会主義の運動家、とりわけアナーキストにとっては、群衆は社会変革のためのエネルギー源である。かくして群衆へのまなざしは都市化と共に強まっていった。
  1905年(明治38年)9月5日、日露講和条約がポーツマスで調印されたその日、日比谷公園で開かれた講和反対国民大会は顕官隊との衝突から警察署・交番・内相官邸・政府系新聞社などを襲撃する騒ぎへと発展し、軍隊が出動してようやくこれを鎮圧したが、東京は9月6日から11月29日まで戒厳令下に置かれた。日比谷焼き打ち事件は近代日本が経験した最初の都市騒乱であった。
  群衆の暴徒化の背景には人々の不満や怒りがある。日比谷焼き打ち事件の場合、暴徒化の直接の原因は日露講和条約の内容(賠償金ゼロ、北緯50度以南の樺太の割譲のみ)への不満と怒りであるが(ナショナリズムの昂揚)、その背景には日露戦争中および戦後の生活苦がある。
  日比谷焼き打ち事件の前月、河上肇は雑誌『財界』に「将来の三大問題」という文章を寄せている。その三大問題とは、「農業者対商工業者の問題」(自由貿易をめぐる利害の対立)、「資本家対労働者の問題」、「男子対女子の問題」(男女関係の欧米化の問題、女子の就労問題)である。このころの河上はまだマルクス主義者ではなかった。社会主義への関心はあっても、社会問題は既存の社会体制の改良によって解消されうるものと考えていた。しかし、資本主義社会の発展が格差の拡大(二極化)という問題を必然的に生むだろうことを確実に見通していた。格差の拡大はつまるところ貧困問題として帰着するだろう。かくして河上は、それから11年後、1916年(大正5年)9月から大阪朝日新聞に『貧乏物語』の連載を始めた。
  地方から都市への人口の大量移動は、都市に下層社会と群衆を誕生させたが、それは「貧困」という社会問題の誕生とワンセットであった。 以後、日本社会はこの貧困問題の解決策を求めて動いていくといっても過言ではない。

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