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2006年4月 9日 (日)

拝金主義批判

  清水幾太郎が生まれた1907年(明治40年)に作られた「ああ金の世や」(作詞・作曲 添田唖蝉坊)という演歌がある。

 ああ金の世や金の世や
 地獄の沙汰も金次第
 笑うも金よ泣くも金
 一も二も金三も金
 親子の中を割くも金
 夫婦の中を割くも金
 強欲非道とそしろうが
 我利我利亡者と罵ろうが
 痛くも痒くもあるものか
 金になりさえすればよい
 人の難儀や迷惑に
 遠慮していちゃ身がたたぬ
 ああ金の世や金の世や
 希望は聖き労働の
 我に手足はありながら
 見えぬくさりに繋がれて
 朝から晩まで絶え間なく
 こき使われて疲れはて
 人の味よむ暇もない
 これが自由の動物か

  演歌は元々は自由民権の思想の街頭宣伝ソングで、今風に言えば、演説のラップ版である。長たらしくて小難しい演説よりも、演歌の方が一般民衆への宣伝効果はあったのであろう。そうした政治的文脈をしだいに離れて、演芸のひとつのジャンルとして独立していって、現在の演歌へと繋がるわけである。
  「ああ金の世や」は社会主義思想を背景とした拝金主義批判をその内容としている。この世界を構成するさまざまな事物の中でお金に至上の価値を置く思想を拝金主義と呼ぶ。拝金主義は前近代社会からあったが、近代化(=資本主義化)の過程で生まれた「金持ち」たちの姿を借りて具体的に目に見える形で社会の表舞台に登場してきた。
  ポピュラーカルチャーに見られる拝金主義批判としては、尾崎紅葉の『金色夜叉』(1897年から読売新聞に長期連載)が有名で、読者は毎朝の新聞の配達を待ちかねてこれを読んだという。『金色夜叉』は日清戦争と日露戦争の間の時代に作られたが、この時代は日本の資本主義の発達過程でいえば産業の中心が軽工業から重工業へシフトしていく時期であった。その点からすると、許嫁(鴫沢宮)を銀行家の息子(富山唯継)に奪われた一高生(間貫一)が、勉学の道を捨てて、高利貸の手代となって世間に復讐するという筋書きは、「金持ち」の描き方としては前近代的なものであった。
  「ああ金の世や」が作られた時期は「成金」という言葉が流行していた。将棋の歩が敵陣に入ると裏返って金に変身するところから来た言葉だが、日露戦争後の好況は多くの「成金」を生んだ。その代表が鈴木久五郎だった。

 鈴木久五郎 明治時代後期の相場師。明治十年(一八七七)五月、埼玉県粕壁(春日部市)に生まれた。日露戦争後の好況期に株式投機で巨額な利益をあげ、相場師「鈴久」の名を天下に轟かせた。かれの名を有名にしたのは当時代表的な花形投機株の東株・鐘紡などの仕手戦で、買い方にまわった「鈴久」は瞬時にして一千万円の巨富を得た。一夜にして大富豪となったかれのことを人々は「成金」とよんだ。だが、そのかれも「売り」を知らないばかりに数年を待たずして株式暴落によって没落する。昭和十八年(一九四三)八月十六日没。六十七歳。(『日本近現代人名辞典』より)

  鈴木久五郎がはたして「ああ金の世や」で歌われているような強欲非道な我利我利亡者であったかどうは知らない。何を言われようと、金になりさえすればよい、とうそぶいていたかどうかも判らない。肝心なことは、一般の庶民が、「金持ち」とくに「成金」のことを、そうしたイメージでとらえていた、とらえたがっていたということである。ここには明らかに妬みの感情がある。自分たちも欲しているもの、しかしどうしても手に出来ないものを手に入れた人間への妬みである。「成金」なんてどうせひどい奴に決まっている、そう決めつけることで、心の安静を得ているわけで、精神衛生上の生活の知恵といえるだろう。すなわち拝金主義批判の背景には世間一般の水準における金銭欲や物欲の高まりがあると見るべきなのである。清水幾太郎が生まれた1907年(明治40年)は、そういう時代だった。

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