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2006年4月 6日 (木)

『近代日本社会学者小伝』

  歴史辞典の中の「清水幾太郎」を取り上げたついでに、もう1冊、辞典の類をあげておく。川合隆男・竹村英樹編『近代日本社会学者小伝』(勁草書房、1998)である。定価1万5千円。この本は1829年生まれの西周から1931年生まれの湯崎稔まで、出生年順に編まれた、140名の近代日本の社会学者の小伝集である。もっとも福沢諭吉や長谷川如是閑のような普通は社会学者とはみなさい人物や、アーネスト・フェノロサやロナルド・ドーアといった日本と関係の深い外国人の社会学者も含まれている。1907年生まれの清水は120番目に登場する。執筆者は中筋直哉(当時、山梨大学助教授)。

  東京都生まれ。東京高等学校を経て東京帝国大学社会学科に学ぶ。高校時代より社会学に熱中する。卒業後同学科副手。卒業論文の一部が雑誌『思想』に掲載され、三木清(1897-1945)に激賞される。引き続き『思想』および「唯物論研究会」で活躍。逆に東大副手の職を免じられ、以後市井の文筆家として生計を立てることになった。戦時下には三木に従って「昭和研究会」で活動し、さらに太平洋協会アメリカ研究室、海軍技術研究所などの政府機関にも関与した。戦後は進歩的文化人の代表として、米軍基地反対闘争や日米安保反対運動等で世論をリードした。また学習院大学教授として教壇にも立った。ところが安保反対運動以降急速に主張を変え、反動的文化人の代表の1人と目されるようになった。晩年は卒業論文以来のテーマであるA・コントの文献研究に沈潜した。

  清水が遍歴した準拠集団・所属集団に着目して書かれている点が特徴といえるだろう。「反動的文化人」というのは「進歩的文化人」の反対語であろうが、政治セクトの文書などで使われるほかは、普段はあまり耳にしない言葉で、辞典的記述の中で用いるのはどうかと思う。この後に、「略年譜」「略伝」「著作文献目録」「研究参考書誌」が来るが、面白いのは「略伝」(短めの評伝)である。印象に残った箇所を引いておく。

  彼の全生涯を見渡すとき、戦後15年間の華々しい活躍はむしろ特異に映る。そこで彼の「現代社会学」は現実の大衆社会による実証に曝されるのだが、「離脱の精神」に基づく以上それは原理的に不可能な試みであった。当時の代表作とされる「庶民」の論文と、彼が支援した基地反対闘争の当事者との論争「内灘村長への手紙」との間にある落差には、出自としての庶民に深く執着しつつ、現実の庶民にはあくまでも進歩的文化人として対立する他ない彼の思想の不可能性が露出している。自ら帰郷すべき庶民を見出すことこそ彼の思想の最大の課題であることは、この時期にこそ明白となったはずである。
  しかし彼は、「離脱の精神」に固執するがゆえに庶民の思想家たり得なかった。安保闘争以後の知的隠遁は、進歩的か反動的かという区別を越えて、現実世界そのものから離脱の様相を呈している。転向と揶揄された晩年の著作群にしても、他のイデオローグたちと異なり、明確な論拠、背景となる私的利害が希薄である。それは庶民の保守イデオロギーですらあり得ない。保守主義者として清水の名は今やほとんど忘れさられている。清水の「現代社会学」の栄光と困難は、社会学自らの生の問題を社会に向かって表現する一つの方法たり得ることを初めて示したことと、それが結局は語り手のモノローグに過ぎないことをさらけ出したこととの間にある。それは私たちの社会学のひとつの可能性であり、ひとつの限界である。

  少々結論を急ぎすぎているきらいはあるが、「庶民」が清水の思索と行動を理解する上でのキーワードであることは間違いない。
  なぜ清水は「庶民」にこだわったのか。彼が「庶民」の出身だからという説明では不十分である。自分の社会階層にしろ、エスニシティにしろ、ジェンダーにしろ、ものごころついたときにはすでに備えていた属性に対して意識的になるには、それと反対の属性を備えた他者の出現を待たねばならない。日本人として生まれたから自分が日本人であることを意識するのではなく、外国人や外国文化との出会いや遭遇があって、そしてその出会いや遭遇がショッキングなものであったとき、自分が日本人であることを強く意識するようになるのである。清水が「庶民」を前面に押し出すようになったのは、「エリート」の出現があったからである。具体的に言えば、その「エリート」とは、『世界』1946年5月号に「超国家主義の論理と心理」を引っさげて衝撃的な論壇デビューを飾った32歳の丸山真男(当時、東京大学法学部助教授)である。敗戦直後の数年間、戦時中に読売新聞論説委員として戦争協力的な社説を書いていたことや、戦後の流行思想である民主主義やマルクス主義に同調できないこともあって、少々燻っていた感のある清水が、戦後日本のオピニオンリーダーの一人として自信に満ちた足取りで歩き始めたのは、ライバルとしての「エリート」の出現によって、自分の言論人としてのスタンスがはっきりしたからであろう・・・・という趣旨のことを、私は最近、「清水幾太郎における戦中と戦後の間」という論文(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第51輯第1分冊、2006年2月)に書いた。私のホームページの「清水幾太郎と彼らの時代」のコーナーにアップしたので、関心のある方は読んでみて下さい。

http://www.f.waseda.jp/ohkubo/aida.htm

  私が清水幾太郎に関して次に書こうとしている論文は、早稲田社会学会の機関誌『社会学年誌』48号(来年2月刊行予定)に寄稿する予定のもの(タイトル未定)で、実態としての「庶民」および清水の中のイメージとしての「庶民」の変容がどのように起こり、それが清水の思索と行動にどのように反映されていったのかを論じることになる。これは夏休みの仕事である。

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