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2006年4月30日 (日)

抒情へのまなざし

  生まれ育った土地を遠く離れて、その遠く離れた場所から生まれ育った土地を振り返るとき、そこに「故郷」という抒情的対象が立ち上がる。しかし、「故郷」は必然的に(自然に)甘味な抒情の対象となるわけではない。そこには「故郷」を抒情の対象として見ようする意思が働いているはずである。いや、対象は「故郷」に限らない。さまざまなものを抒情的に見ようとする意思、抒情そのものへのまなざしが大正という時代を覆っていたように思われる。
  「抒情詩人」西條八十(明治25年~昭和45年)を論じた筒井清忠編『西條八十と昭和の時代』(ウェッジ選書)の中で、筒井は次のように述べている

  大正八年、第一詩集『砂金』が刊行された。それは、一つ一つの詩が華麗な言葉によって堅固に構築された詩集であり、「寂しさ」が全体の基調になっていた。…(中略)…大正九年六月、抒情詩集『静かなる眉』が刊行される。以後、八十の抒情詩集は女学生を中心とした若い女性の間で熱烈に支持されることとなるのである。
  その背景にはこの時期、高等女学校校数・生徒数が急激に増加したことがあった。それは大正7年から一五年の八年間に、学校数では二・五倍、生徒数で約三・二倍という激しいものであった。飛躍的に増加した女学生の間で強く求められたのはロマンチズム(より正確にいえば、淡い無常観を伴った日本的ロマンチズム)であったし、八十はその欲求に最もよく応えられる人だった。(pp.19-21)

  ここで指摘されていることは文学の受容者(読者)における女性人口の増加並びに低年齢化ということだが、それは男性のメンタリティの女性化という現象も伴っていたはずでる。同書に収められている座談会「西條八十とその時代」(藤井叔禎・川本三郎・関川夏央・筒井清忠)の中で次のような世代論が展開されている。

  藤井 乱歩が明治二七年ですね。久米が明治二十四年、菊池が二十一年でちょっと上なんですが、何かこの辺の世代から、それ以前とはひと味違った柔軟な姿勢が見られるような感じがします。
  川本 明治の二代目でしょうかね。でも、青春時代は大正にかかっているのかな。
  筒井 二十代まで含めて考えると、大正初期から中期ということになりますね。
  川本 明治の人というより、むしろ大正の人ですよね。そうすると、なんとなくわかってきますね。
  関川 芥川も八十と同じ明治二十五年生まれですね。
  筒井 ええ、だから芥川と仲が良かった。愛蘭土(アイルランド)文学会というのを一緒にやっています。
  川本 明治の作家、たとえば永井荷風や里見弴の場合は、文学なんかやることに父親が反対した。父の重圧というのがすごくあったと思うんですが、西條八十の世代になるとその重石がなくなったという感じがしませんか。
  筒井 八十の場合は、お父さんは商売一途な人で、文学などには全然関心がなかったみたいですね。だから、抑圧ということでもなかったみたいですね。
  川本 しかも八十にはお姉さんという導きの人がいたので、前の世代とその点は全然違いますね。やはり明治の富国強兵の時代から、ある文化的な雰囲気が浸透してきた大正の世代の人だという気がしますね。
  藤井 輸入石鹸を扱っているお家なんていうのもすごく面白いですね、異国趣味というか。それに、時代もそういう欧米崇拝みたいなものが入ってきて、その頃に端を発するエキゾチックな作風とか感性みたいなものが相当その後長く-私は昭和四十年頃の歌謡曲の歌詞を連想するんですが、そのへんにまで流れているという感じがしますね。
  川本 里見弴の晩年に江藤淳がインタビューしていて、「大正時代というのはどういう時代ですか」と聞くと、里見弴が「天皇はああいうふうだったし、ともかく軟弱な時代だった。だからおれは生きていられた」みたいな答え方をしていますね。山本夏彦さんだったかな、「大正時代というのは要するに不良が許される時代だった」という言い方もしているから、そこで明治という強い偉大なる父親の時代とまったく違う雰囲気が生まれたという気がしますね。

  ここで私が思い出すのが、清水幾太郎が『私の読書と人生』の中で有本芳水の詩について語っていることである。

  小学校に入つてから、私は毎月「日本少年」を講読してゐた。その他にも何種類かの少年雑誌があつたが、私が「日本少年」を買ひ続けたのは、それに有本芳水の詩が載つてゐたからである。…(中略)…古いもの、遠いもの、亡びたもの、悲しいもの、さういうものの美しさを芳水の詩は私に教えてくれた。

  ふりさけ見れば浅間山
  黒き煙の渦まきて
  空より野邊に流れ落つ
  山の麓の町町の
  白き壁には日のかげの
  赤く悲しくたゆたいて       (「浅間山」)

  田舎といふものと全く縁がない町の子である私には、海や山や港は芳水の詩を通して初めて現実のものとなつた。いや、数十冊の立川文庫が一度も触れなかつた私の心の或る部分に、これ等の詩は強い刺戟を与えたのだ。言葉といふものの微妙な動き、その不思議な力に、私は漸く目覚めて来たのであらう。当時の「日本少年」には芳水のほかに松山思水といふ記者が活躍してゐたが、後者の荒つぽい文章と、これに相応しい内容とは私に一種の反発を感じさせ、その反発が一層私を芳水の方へ傾かせて行つたやうである。(著作集6,pp.371-372)

  清水は子ども時代のこうしたメンタリティーを、没落した旗本の末裔であることや、早熟さによって説明しているが、そもそも「日本少年」という少年向けのメディアに有本芳水の詩が連載されていたという事実は清水の個人的事情とは関係がないわけで、それは大正という時代のメンタリティーの反映としてとらえるべきものである。
  清水は明治40年の生まれだから、西條八十よりもさらに次の世代、「明治の三代目」であるわけで、ものごころついた頃から思春期の多感な時期を筒井のいう日本的ロマンチズムにたっぷりと浸りながら送った世代である。そのように考えると、清水の多くの文章に見え隠れするセンチメンタリズムや、「庶民」(大衆)の哀歓への共感というものを理解できるのでないだろうか。

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