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2006年4月 7日 (金)

マイノリティーの楽しみ

  清水幾太郎の卒論は「オーギュスト・コントに於ける三段階の法則について-知識社会学的一研究-」というものである。
  コントが「社会学の父」と呼ばれていることは社会学専修の学生なら誰でも知っている(はずである、たぶん・・・・)。しかし、コントの書いたものを、邦訳であれ、読んだことのある学生はほとんどいないであろう。私にしたところで、学生時代に、中央公論社の『世界の名著』の第36巻「コント スペンサー」に収められている「社会再組織に必要な科学的作業のプラン」という短い論文を比較的丹念に(傍線を引いたり、余白に書き込みをしたりしながら)読んだ程度である。コントは、誰もが知っているが、誰にも読まれない社会学者である。
  こうした事情は清水が卒論を書いていた当時(昭和5年頃)も似たようなものであったらしい

  相手にするなら、思想的意味のある、しかけの大きい社会学者でなければいけない、大粒でなければいけない、という気持ちが働いていたように思う。その点で、コントは申し分なかった。
  また、コントぐらいの大物になれば、マルクスと並べても、そう見劣りはしないであろう、というより、コントはコントなりに、マルクスと似た問題を持っていたのではないか、と私は考えていた。また、社会学の創始者であるコントを研究すれば、社会学という学問の真実の気持とでもいうものがつかめるであろう。それをつかむのに
マルクス主義の方法が役に立つのなら、これを使おうではないか、
  こうした多少理屈に合った気持といっしょに、もう一つ、あまり理屈に合わぬ気持、すなわち、見渡したところ、誰もコントなど勉強してはいない、研究室にあるコントの著作には厚い塵が積もっている、私だけがコッソリとこの大物に手を着けるのだという、犯罪者が味わうような快感が私をそそのかしていたのである。(清水幾太郎『社会学入門』、カッパ・ブックス、pp.112-113)

  清水がコントの研究をしているときに覚えていた「快感」を、私も清水の研究をしているときに覚えることがある。たとえば、丸山真男の研究書はたくさんあるが、清水幾太郎を単独で扱った研究書はほとんどない。天野恵一『危機のイデオローグ-清水幾太郎批判』(批評社、1979)と小熊英二『清水幾太郎-ある戦後知識人の軌跡-』(神奈川大学評論ブックレット26、2003)の2冊だけである。これに間もなくミネルヴァ書房の日本評伝選の1冊として竹内洋『清水幾太郎』が加わる予定だが、それでもまだ3冊である。私の『清水幾太郎と彼らの時代』の刊行時期は未定だが、「5本の指に入る」可能性は高いであろう。マイノリティーであることの楽しみ。だから、学生が「清水幾太郎」を「シミズキタロウ」と発音しても、心穏やかに、「西田幾多郎と間違ってないかい?」と注意することができるのである。

 

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