2006年4月19日 (水)

群衆へのまなざし

  松田巌『群衆 機械のなかの難民』(読売新聞社、1996)の書き出しは秀逸だ。

  これから群衆についてだらだらと述べる。(p.7) 

  力みがないところがいい。本というものは、しばしば、著者が自分の頭のよさをひけらかすために書かれることがある。「だらだらと」書いたのでは頭のよさをひけらかすことはできない。単純明快な議論を展開するためには、枝葉の部分は思い切りよく切り捨てて、ついでに自分の議論の展開上都合の悪い部分も切り捨てて、「ほら、こんなにスッキリしましたよ」とファッションショーのモデルのような体型の文章に仕上げる必要がある。自分の頭のよさにうっとりしているだけの、つまらない文章がこうしてできあがる。松山の本はそうした貧困な精神とは縁遠いところで書かれている。

  二十世紀という百年は単純ではない。
  少なくとも群衆という存在が新しい表情をもって現れたことが、百年の複雑さを示している。二十世紀は進歩という風が激しく吹きすさんだ世紀である。その風のなかで群衆はどのように貌を変えるのか。ともあれ、群衆を軸にして二十世紀の日本を追いかけてみる。(p.30)

  都市への流入人口の増大によって形成されたのは、下層社会だけではない。群衆もまたそうである。群衆は一定の地域に居住している人々のことではなく、街角や駅前や広場などにひしめいている不特定多数の人々のことである。赤の他人同士である。したがって通常は互いに儀礼的無関心(civil inattention)を装っている。しかし、何かがきっかけになって、群衆が大きなエネルギーの塊となって、暴徒化することがある。都市の為政者にとってこれは最高度に警戒すべき脅威である。一方、社会主義の運動家、とりわけアナーキストにとっては、群衆は社会変革のためのエネルギー源である。かくして群衆へのまなざしは都市化と共に強まっていった。
  1905年(明治38年)9月5日、日露講和条約がポーツマスで調印されたその日、日比谷公園で開かれた講和反対国民大会は顕官隊との衝突から警察署・交番・内相官邸・政府系新聞社などを襲撃する騒ぎへと発展し、軍隊が出動してようやくこれを鎮圧したが、東京は9月6日から11月29日まで戒厳令下に置かれた。日比谷焼き打ち事件は近代日本が経験した最初の都市騒乱であった。
  群衆の暴徒化の背景には人々の不満や怒りがある。日比谷焼き打ち事件の場合、暴徒化の直接の原因は日露講和条約の内容(賠償金ゼロ、北緯50度以南の樺太の割譲のみ)への不満と怒りであるが(ナショナリズムの昂揚)、その背景には日露戦争中および戦後の生活苦がある。
  日比谷焼き打ち事件の前月、河上肇は雑誌『財界』に「将来の三大問題」という文章を寄せている。その三大問題とは、「農業者対商工業者の問題」(自由貿易をめぐる利害の対立)、「資本家対労働者の問題」、「男子対女子の問題」(男女関係の欧米化の問題、女子の就労問題)である。このころの河上はまだマルクス主義者ではなかった。社会主義への関心はあっても、社会問題は既存の社会体制の改良によって解消されうるものと考えていた。しかし、資本主義社会の発展が格差の拡大(二極化)という問題を必然的に生むだろうことを確実に見通していた。格差の拡大はつまるところ貧困問題として帰着するだろう。かくして河上は、それから11年後、1916年(大正5年)9月から大阪朝日新聞に『貧乏物語』の連載を始めた。
  地方から都市への人口の大量移動は、都市に下層社会と群衆を誕生させたが、それは「貧困」という社会問題の誕生とワンセットであった。 以後、日本社会はこの貧困問題の解決策を求めて動いていくといっても過言ではない。

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2006年4月14日 (金)

下層社会へのまなざし

  21世紀初頭の日本では、社会的格差の拡大や新たな下流社会の台頭にメディアの関心が集まっている。こうした現象は資本主義社会の発展ないし変容に伴うものであるから、類似の現象は明治以降今日に至るまで繰り返し観察される。
  中川清編『明治東京下層生活誌』(岩波文庫、1994)は、1886年(明治19年)から1912年(明治45年)までの間に、新聞や雑誌に載った東京の下層社会(貧民窟)に関するルポルタージュ14編を収録したものである。
  中川によると、明治期における下層社会へのまなざし(貧困言説)は4つの時期に区分することができる。
  第一期は、明治時代前半、日清戦争以前の時期(軽工業中心)で、「貧民窟」が東京のどこあるのか、その所在を明らかにすることに力点が置かれており、下層社会は「おおむね驚きや恐れの態度で、書き手の属する社会とは異質な存在、いわば社会の外部として」描かれている。
  第二期は、日清戦争と日露戦争の戦間期で(鉄工業や鉄道網の発達)、「下層社会に固有の職業や関係、さらには習俗や慣行にしたがって記述が展開され、異質な外部社会の内側の細部が、固有な生活世界として丹念に描かれる」ようになる。なお、岩波文庫にも収められている松原岩五郎『最暗黒の東京』(1983)は第一期と第二期を架橋する作品である。
  第三期は、日露戦争後すぐの時期で、明治社会主義(自由民権左派の流れを汲むもの)というフィルターを通した社会批判のニュアンスが記述の中に見られるようになる。やはり岩波文庫に収められている横山源之助『日本の下層社会』(1899)はこの時期の作品である。
  第四期は、明治40年代で(工業化や鉄道網の発展)、これまでに描かれた来た「貧民窟」の独自の共同性が新たな人口流入と東京の拡大に伴って解体し、下層社会に独自の変容が生じていることへの着目が見られる。
  では、この第四期、すなわち清水幾太郎の幼年時代の東京で起こった下層社会の変容とは具体的にどのようなものであったのか。横山源之助の「貧街十五年の移動」(『太陽』明治45年5月)から引いておこう。
  まずは職業の変容である。

  日清戦役前後貧街に多数を占めていたのは、ワラジ稼業といわれていた日稼ぎ人足と人力人亜足であった。…(中略)…日清戦役前後人力車夫業の隆昌であった時は、地方より出でて腕力があり、足力がある青年の徒は、大抵一度はこの人力車夫に落ちたものである。思うに大した熟練なく、大した準備を要せず、その日に着手して直ちに若干の収益を見たのはこの人力車夫で、要する所の知識は、東京全市の地理で、欠くべからざる資本は、二本の足力と腕力だけである。都鄙の失落者が、相率いて人力車夫となったのも無理がなかった。かつて馬車鉄道施設の時、自己の生活と職業とを奪うものなりとして、この稼業者の間に不平の声高かったが、事実は大した影響もなかったのである。
  当時貧民に注目せる者は、住居問題としては万年町、鮫ヶ橋または新網を見、職業としては、まずこの人力車夫を見たのであった。次いで日稼ぎ人足は、今日の如く工場人足は、今日の如く工場人足寡なく、車力人足を筆頭として、手伝い人足、道路人足、土方人足の類は多数を占めていた。で、今日もワラジ稼業である日稼ぎ人足が大多数を占めているのは依然として変わらないが、工場付属の人足が著しく増殖して来た。(PP.272-273)

  何度か映画化された『無法松の一生』は明治の終わりから大正にかけての九州小倉を舞台に人力車夫の松五郎を主人公にした作品で、東京ではないが、当時の人力車夫の世界を知る参考になるだろう。人力車夫はいまでは京都や鎌倉といった古都の観光地でしか見ることができないが、現代社会に置き換えれば「タクシードライバー」である。大都会の中のタクシードライバーの生活世界についてはロバート・デニーロ主演の映画『タクシー・ドライバー』(1976)で描かれている。で、そうした人力車夫(タクシードライバー)に取って代わって、工場勤めの人足が台頭してきたということである。工業化の進展は下層社会も必然的に巻き込んでいくのである。
 流入人口の出身地にも変化が見られる。

  いわゆる労働車の霜枯れ月に、一日千名ないし二千名の労働者が、斡旋人の手を以て、足尾銅山その他の鉱山に募集され都下の労働市場を去るのは、前に掲げた。毎年この霜枯れの月に東京より地方に散ずる労働者は、おそらく数千名で上るであろう。越後、信州の小作人は、冬季の閑時期に都門に入り、東京に放浪している下級労働者は、秋季の末頃より、坑内生活の暖気を慕うて東京を去るのは一種の光景である。そはともかくとして、この燕の如く来たり燕の如く去る富川町または花町等における木賃部落に近頃著しく増加して来たのは関西人の顔である。関西人の言語である。かつて喧嘩が迅いのは関東労働者の特徴であった。関西人の頭数加わった故か、あらぬか、柔順猫の如く、終日孜々として、喧噪の態がないのは、昨今の木賃部落である。事業界に関西人の勢力加わりつつあるのみならず、浮草の如き木賃労働者の間には、関西人が人数と勢力とを加えつつあるのである。(pp.273-274)

  かつて東北地方からの流入人口が主流であった東京に、関西地方からの流入人口が増えてきたという指摘である。交通機関の発達や東京の臨海地域における工業地帯の発達を背景としてものであろう。「関西人」を「外国人労働者」に置き換えれば、現代にも通じる話である。
  地価の上昇も下層社会の生活に影響を与えている。

  貧街の変遷を見るに、かつて坪三円ないし五円であった土地は、十円となり、二十円となり、三十円以上を告げ、かつて三十銭ないし五十銭の屋賃は、一円五十銭、二円、甚だしきは四、五円以上に飛んでいる。暫く万年町に例を取ろう。…(中略)…ただし万年町の特色は、屋賃の低廉にあらず、家屋の醜穢にあらず、住民の性質とその職業であった。一般市民より除外せられていた両側の光景と周囲の空気であったので、当時往還に商店を見たのは幾軒であったろう、表通りは大抵蔀(しとみ)を下ろし、襤褸(ぼろ)を纏っている小供が、前後左右に旁午しているほかには、ほとんど普通の市民は往来していなかった。路上の物干し竿には、腰巻が掛かっていた。で、その住民は、あるいは手伝い人足といい、あるいは土方人足というも、そは世間への体裁で、実は半丁に魂を打ち込んでいた遊人が多く、一度万年町に入れば、旧幕時代のそれと同じく、社会外の人と見られていた。万年町の住民が、東京市の細民部落と異なったのは、この故であった。しかるに木賃宿取締規則出でて万年町の光景俄に変じ、特殊学校の建築あって、更に面目を一新し、今は普通の市街と何ら相違がなくなったのは多大の変遷であった。地価または屋賃に大変動を現してきたのは自然の順序であろう。(pp.274-276)

  経済の発達は貧民の生活を向上させる。相対的には貧民でも、絶対的には貧民から一般の庶民の水準へと近づいていく。ただしかつての貧民窟の生活の向上は貧民窟の消滅ではなく、新たな貧民窟の形成と表裏一体の現象である。

  転じて郡部または郡部に近き貧民部落を物色するに、近頃雑業者が増殖して来たのは、前掲の如く板橋、千住附近の貧民部落で、巣鴨、日暮里、三河島等の市外にも、貧民の住居が目眩ろしく殖えて来た。小石川の場末で、巣鴨に近き西丸町または西原町にも、彼の有名なる百軒長屋または穴倉長屋等がある。…(中略)…ここに注目に値するのは、万年町、山伏町の住民が、入谷町より三ノ輪または日暮里に移動すると同じく、小石川場末の貧民も同じく然りで、比較的屋賃高き百軒長屋(西丸町)より、屋賃低き穴倉長屋(西原町)に転じ、穴倉長屋の落武者は、巣鴨庚申塚の百軒長屋に転じつつあることである。すなわち昨今巣鴨庚申塚の百軒長屋に住せる者は、かつて西丸町の百軒長屋に住んでいた経歴があることである。…(中略)…百軒長屋の住民は、夫婦共稼ぎの健全なる者は多く、穴倉長屋のは、一定の職業なき日稼ぎ人足で、その稼ぎ人は酒飲者か、あるいは病体か、然らば首枷となる子供が多いのか、三者の中必ずその一におる。最も多いのは、子供が三、四人を控えて、内職が出来ないという連中であろう。総じて日清戦役前後には、鮫が橋等のほか余り見なかった襤褸の世界が、今や巣鴨に、大塚に板橋に、日暮里に、三河島に、千住に発散したのは今日の状況である。他方では工場職工、工場付属の人足、または例の燕の如き放浪人足は、深川本所の場末に拡がっているのである。(pp.276-278)

  清水幾太郎の一家が両国橋を渡って日本橋両国から本所へ引っ越していったのは大正八年のことであったが、それは新たに形成された下層社会地域へ「落ちていくような」引っ越しであったわけである。

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2006年4月 9日 (日)

拝金主義批判

  清水幾太郎が生まれた1907年(明治40年)に作られた「ああ金の世や」(作詞・作曲 添田唖蝉坊)という演歌がある。

 ああ金の世や金の世や
 地獄の沙汰も金次第
 笑うも金よ泣くも金
 一も二も金三も金
 親子の中を割くも金
 夫婦の中を割くも金
 強欲非道とそしろうが
 我利我利亡者と罵ろうが
 痛くも痒くもあるものか
 金になりさえすればよい
 人の難儀や迷惑に
 遠慮していちゃ身がたたぬ
 ああ金の世や金の世や
 希望は聖き労働の
 我に手足はありながら
 見えぬくさりに繋がれて
 朝から晩まで絶え間なく
 こき使われて疲れはて
 人の味よむ暇もない
 これが自由の動物か

  演歌は元々は自由民権の思想の街頭宣伝ソングで、今風に言えば、演説のラップ版である。長たらしくて小難しい演説よりも、演歌の方が一般民衆への宣伝効果はあったのであろう。そうした政治的文脈をしだいに離れて、演芸のひとつのジャンルとして独立していって、現在の演歌へと繋がるわけである。
  「ああ金の世や」は社会主義思想を背景とした拝金主義批判をその内容としている。この世界を構成するさまざまな事物の中でお金に至上の価値を置く思想を拝金主義と呼ぶ。拝金主義は前近代社会からあったが、近代化(=資本主義化)の過程で生まれた「金持ち」たちの姿を借りて具体的に目に見える形で社会の表舞台に登場してきた。
  ポピュラーカルチャーに見られる拝金主義批判としては、尾崎紅葉の『金色夜叉』(1897年から読売新聞に長期連載)が有名で、読者は毎朝の新聞の配達を待ちかねてこれを読んだという。『金色夜叉』は日清戦争と日露戦争の間の時代に作られたが、この時代は日本の資本主義の発達過程でいえば産業の中心が軽工業から重工業へシフトしていく時期であった。その点からすると、許嫁(鴫沢宮)を銀行家の息子(富山唯継)に奪われた一高生(間貫一)が、勉学の道を捨てて、高利貸の手代となって世間に復讐するという筋書きは、「金持ち」の描き方としては前近代的なものであった。
  「ああ金の世や」が作られた時期は「成金」という言葉が流行していた。将棋の歩が敵陣に入ると裏返って金に変身するところから来た言葉だが、日露戦争後の好況は多くの「成金」を生んだ。その代表が鈴木久五郎だった。

 鈴木久五郎 明治時代後期の相場師。明治十年(一八七七)五月、埼玉県粕壁(春日部市)に生まれた。日露戦争後の好況期に株式投機で巨額な利益をあげ、相場師「鈴久」の名を天下に轟かせた。かれの名を有名にしたのは当時代表的な花形投機株の東株・鐘紡などの仕手戦で、買い方にまわった「鈴久」は瞬時にして一千万円の巨富を得た。一夜にして大富豪となったかれのことを人々は「成金」とよんだ。だが、そのかれも「売り」を知らないばかりに数年を待たずして株式暴落によって没落する。昭和十八年(一九四三)八月十六日没。六十七歳。(『日本近現代人名辞典』より)

  鈴木久五郎がはたして「ああ金の世や」で歌われているような強欲非道な我利我利亡者であったかどうは知らない。何を言われようと、金になりさえすればよい、とうそぶいていたかどうかも判らない。肝心なことは、一般の庶民が、「金持ち」とくに「成金」のことを、そうしたイメージでとらえていた、とらえたがっていたということである。ここには明らかに妬みの感情がある。自分たちも欲しているもの、しかしどうしても手に出来ないものを手に入れた人間への妬みである。「成金」なんてどうせひどい奴に決まっている、そう決めつけることで、心の安静を得ているわけで、精神衛生上の生活の知恵といえるだろう。すなわち拝金主義批判の背景には世間一般の水準における金銭欲や物欲の高まりがあると見るべきなのである。清水幾太郎が生まれた1907年(明治40年)は、そういう時代だった。

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2006年3月24日 (金)

中年の危機

 明治30年代に高学歴の青年たちの間で起こった人生問題ブームは、やがて非高学歴の青年たちや、青年ではない人々(成人男女や少年少女)の間にも、浸透していった。人生問題が広く世間一般の人々の間に浸透していったルートの1つは、明治40年代に台頭してきた自然主義の小説である。

 田山花袋の『蒲団』の冒頭近くで、主人公の竹中時雄(=花袋)が直面している人生問題が語られる。

 今より三年前、三人目の子が細君の腹に出来て、新婚の快楽などはとうに覚め尽くした頃であった。世の中の忙しい事業も意味がなく、一生作(ライフワーク)に力を尽くす勇気もなく、日常の生活-朝起きて、出勤して、午後四時に帰って来て、同じように細君の顔を見て、飯を食って眠るという単調なる生活につくづく倦き果てて了った。家を引越歩いても面白くない、友人と語り合っても面白くない、外国小説を読み渉猟っても満足が出来ぬ。いや、庭樹の繁り、雨の点滴、花の開落などという自然の状態さえ、平凡なる生活をして更に平凡ならしめるような気がして、身を置くに処が無いほど淋しかった。道を歩いて常に若い美しい女、出来るならば新しい恋を為たいと痛切に思った。

 三十四五、実際この頃は誰にでもある煩悶で、この年頃に賤しい女に戯るるものの多いのも、畢竟その淋しさを医す為めである。世間に妻を離縁するものもこの年頃に多い。

 出勤する途上に、毎朝邂逅(であ)う美しい女教師があった。渠(かれ)はその頃この女に逢うのをその日その日の唯一の楽しみとして、その女に就いていろいろな空想を逞うした。恋が成立って、神楽坂あたりの小待合に連れて行って、人目を忍んで楽しんだらどうだろう・・・・。細君に知れずに、二人近郊を散歩したらどう・・・・。いや、それどころではない、その時、細君が懐妊しておったから、不図難産して死ぬ、その後にその女を入れるとしてどうかなどと考えて歩いた。(新潮文庫版、pp.11-12)

 ここに描写されている主人公の心理は、現代社会における「中年の危機」そのものである。30代半ばを「中年」と呼ぶには早過ぎると思うかもしれないが、当時と現代の標準的な人生の長さの違い考慮するならば、当時の30代半ばはすでに「中年」である。主人公が出勤の途中で見かける美しい女教師を、ダンス教室の講師に替えれば映画『Shall we ダンス?』になるであろう。竹中時雄の煩悶は藤村操の煩悶と比べればあまりに通俗的である。『蒲団』の功績、一般に自然主義の小説の功績の一つは、凡庸な人生問題を赤裸々に述べることでそれに市民権を与えたことである。普通の人生の普通の悩みではあっても、それは語るに価する悩みであることを、自然主義の小説は示したのである。すなわち人生問題の大衆化である。

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2006年3月23日 (木)

人生問題

 社会の近代化(工業化、都市化)に伴って生まれたのは社会問題だけではなかった。個人の平面における人生問題の誕生も注目すべきできごとである。人生問題とは「いかに生きるべきか」という問題である。ハムレットは「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」と言ったが、「生きるべき」を選択した後でも、「いかに生きるべきか」の問題は依然として残るのである。「いかに生きるべきか」ということが問題になりえるのは、第一に、「生き方」の選択肢が存在すること(選択肢が存在しなければ選択の問題は生じない)、第二に、ある「生き方」を選択したからといって必ずしもそれを実現できるとは限らないこと(社会的資源の多寡や個人の能力の有無のために)、第三に、同じ問題で悩む人々が一定数存在すること(そのとき初めて人生問題は個人の水準を超えて時代の問題になる)といったことが背景になければならない。日本おいてそうした条件が整い、人々、とくに若い人々の間で、人生問題の流行が起こるのは明治30年代に入ってからである。一高の秀才、藤村操は人生問題が原因で自殺した最初の人間ということになっている。1903年(明治36年)、華厳の滝から投身自殺をするにあたって、彼が書いた遺書(厳頭の感)は有名である。

 万有の真相は唯一言にして悉す曰く「不可解」。我この恨を懐て煩悶終に死を決するに至る。既に厳頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。初めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。

 当時、一高で藤村と同学だった岩波茂雄は、1942年(昭和17年)に大東亜会館で催した「回顧三十年感謝晩餐会」の挨拶の中で次のように言っている。

 私の一高時代は、所謂人生問題が青年の最大関心事で、俗に煩悶時代と云われた頃でありまして、畏友藤村操君の死が、私共青年に与えた衝撃は、実に大なるものがありました。私共は君を勝利者の如く考えて讃歎し、自分の如きは美に憧るる純情が足らず、真剣さが足らず、勇気が足らざるが故に死の勝利を贏ち得ず、敗残者として生きているのだとさえ考えたのであります。…(中略)…名を後世に掲げるというような、それまでの立身出世主義の人生観は魅力を失い、寧ろこれを蔑視するようになりましたが、同時に勉学の目的をも見失って、一時私は学業さえ放擲したのでありました。(『図書』1942年12月号)

 立身出世主義は「いかに生きるべきか」に関する近代日本の公式見解であった。それは五箇条の誓文の中の一項、「官武一途庶民二至る迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」にすでに表明されていた。国民ひとりひとりが人生の目標(志)を立てその実現に不断の努力をする生き方である。その目標が垂直に高く掲げられるとき、立身出世という生き方になる。しかし明治30年代後半の青年たちの一部はそうした生き方に懐疑のまなざしを向けるようになっていた。彼らの多くは学歴的にはエリートで、しかし、理系ではなく、文系の中でも法律や政治といった社会的関心と結びついた学問ではなく、哲学や文学といった実社会とは距離を置いた学問に向かう傾向があった。立身出世主義への反感がそうしたコースを選ばせたのか、立身出世のメインストリートから落ちこぼれてしまった挫折感が立身出世主義への嫌悪を強めたのか、おそらくは相乗効果ではないかと思うが、「世の中の役に立たない」場所にいると、自身の存在価値に対して敏感になり、人生問題に悩むということも一つの能力であるから、煩悶青年は煩悶することに自身の人間としての優等性を感じていたのであろう。どんなことで悩むかにも優劣があるのである。人生問題で悩むことは自分が人生問題で悩む(ことのできる)人間であるという自己アピールでもあったのである。そして人生問題に悩む人々がある一定数を越えると、資本主義社会では、人生問題が一種の商品としての価値をもってくる。夏目漱石『こころ』や阿部次郎『三太郎の日記』や倉田百三『愛と認識との出発』などには、そうした商品としての側面が多分にあった。

 清水幾太郎は『本はどう読むか』(講談社現代新書、1972)の中で、中学卒業時に4年間級長を務めたことに対する慰労品としてもらった『合本 三太郎の日記』が自分の興味をまったく引かなかったというエピソードを語っている。

 『合本 三太郎の日記』を読んだ時期が悪かったというのは、大部分、私が自分の職業を決定した後であったためである(清水はすでに将来は社会学者になることを心に決めていた-引用注)。なぜなら、若い人間にとっては、自分の職業が決定されると同時に、人生の問題は解決されてしまうからである。もちろん、それで問題の全部が完全に解決されるということはないけれども、その大部分は解決されてしまう。…(中略)…世の中には、一生を通じて、深刻な面持ちで人生の諸問題を論じている人間が何人かいるけれども、この人たちは、そういう問題で本当に苦しんでいるのではなく、それを論じるのが、彼らの「職業」なのである。それを論じることによって収入を得て、それで家庭を支えているのである。そういう人たちのペースに巻き込まれてはいけない。(pp.46-47)

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2006年3月20日 (月)

立身出世

 「清水幾太郎と彼らの時代」のキーワードの一つは「立身出世」である。

 立身出世とは、社会学の言葉で言い換えれば、社会階層間の上昇移動である。社会的資源(お金、権力、権威、知識、愛情、時間、健康的な環境など人々の欲望の対象となるもの)が社会のメンバーに不平等に分配され固定化されている状態を社会階層と呼ぶ。社会階層は古来から存在するが、近代社会の特徴は階層間の移動が正当化されるとともに、実際に階層間の移動が活発になったことである。階層間の移動は、学校教育を経由して、職業選択や配偶者選択を契機として起こり、その際、地域移動を伴うことが多い。階層間の移動は一人の人間の生涯の中で起こることもあれば(世代内移動)、親と子の間で起こることもある(世代間移動)。人は自身の立身出世ばかりでなく、配偶者や子どもの立身出世も願う。こうして近代社会の人生の物語は立身出世(成功)というテーマをめぐって編成されることになる。「大きくなったら何になる?」という問いは近代社会の子どもたちに固有な問いである。子どもたちは大人から繰り返しこの質問を受け、それに答えることを通して、人生とは何かになる過程であるという感覚を内面化していく。その日その日を漫然と生きることではなく、将来に目標を設定し、その実現に向けて努力することが人生というものなのだと考えるようになる。自伝というものがすぐれて近代の文学のジャンルであることの理由がここにある。

 清水幾太郎の二冊目の自伝『私の心の遍歴』に小学生の彼が「リン」と呼ばれる竹を立てかけておく場所(清水の家は竹屋という商売を営んでいた)に登る場面が出てくる。

 私が子供であったせいか、リンは非常に高いものに思われました。小学校へ入ってからは、時々、このリンの天辺まで登ってみました。或る高さまでは、ギイギイとしなう長い梯子で登れるのですが、それ以上は、リンに縋って登らればなりません。天辺まで登ると、何でも見えます。そして、何という明るさでしょう。正面の小学校の高い建物は目障りで困りますが、少し方向を変えると、平常は仰ぎ見るような建物が、一つ残らず、私の眼下にあります。銀行も会社も大商店もお屋敷も、すべて私の眼下にあります。無数の家々の屋根を越えて、直ぐ目の前に、日本橋の三越が見えます。私は、幾度か、このリンへ登って、快哉を叫びました。黙っていようとしても、明るい叫び声が腹の底から出て来てしまうのです。何でも見えるのです。何も彼も明るいのです。私は、竹屋という商売に大きな誇りを感じていました。(著作集10、pp.238)

 清水の家は昔から竹屋であったわけではない。祖父は旗本であった。その祖父(天保六年=1834年の生まれ)が維新のときに俸禄の奉還と引換にもらった現金を元手に趣味を生かして始めた商売が竹屋なのであった。いわゆる士族の商法というやつで、時代の先を読んだ商売でもなかったから、暮らしは貧しかった。しかし元旗本というプライドだけは高く、清水が生まれたときに着せられた産衣は十五代将軍慶喜が着たものであったという。幼い清水は家に集まる老人たちが「世が世なら、あの子だって・・・・」と語るのを襖越しによく聞いたという。幼年時代の清水の周囲には没落という下降的社会移動の湿った空気が漂っていた。清水はそこから立身出世の学問的形態を志していくことになる。

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2006年3月14日 (火)

田山花袋

 雨声会のメンバー20人の中に田山花袋が入っていることは、現代の視点から見れば、当然と映るかもしれないが、彼が代表作『蒲団』を雑誌『新小説に』発表したのは1907年の9月、つまり雨声会よりも数ヶ月後である。彼は『蒲団』の作家、自然主義文学の開祖としてではなく、新人作家の登竜門であった投稿雑誌『文章世界』の編集主任で、国木田独歩や島崎藤村の盟友である人物としてリストアップされたのである。おそらく雨声会のメンバーに選ばれたということが、彼をして、内弟子の女性とのスキャンダルを赤裸々に(ありのままに=自然に)綴った小説『蒲団』を発表するにあたっての自信となったであろう。『蒲団』は私小説の嚆矢であるばかりでなく、百年の時を隔てて、ブログ日記の源流の一つともなっている。

 清水幾太郎にとって田山花袋が1908年に読売新聞に連載した小説『生』は大きな意味をもつ。「私の一生を決めた田山花袋著『生』」というエッセイを彼は書いている。清水は東大の社会学研究室の副手時代にこの小説を読んだことで、家族の社会学的研究(研究室の主任で清水の指導教授であった戸田貞三の専門)を断念したのである。その決断は、彼がもしかしたら東大教授という地位へと続いていたかも知れないポストを捨てて、ジャーナリズムの世界へ飛び込んでいくことの契機の一つであった。

 私の気が散っていたせいであろう、家族に関する文献は、何冊読んでも一向に面白くなかった。戸田先生は、家族を科学的に研究される反面、「夫婦や親子の感情的融合及び全人格的信頼」という風に家族というものをお考えになっていた。この点に触れる時、教壇の先生は、必ず眼を半ば閉じて、恍惚と呼びたいような表情になる。私たち学生は、「始まったぞ」と囁き合った。家族がそんな甘いものでないことは、学生たちも知っていた。

 欠伸をしながら家族文献を読んでいる途中、気晴らしのつもりで、田山花袋の『生』(明治四十一年)を岩波文庫版で読んだ。…(中略)…『生』は、明治末年の、早稲田付近の、田舎のような土地の家庭の話である。読み始めるや否や、私は、夫婦、姑、肉親……の間の、醜い、愚かな、悲しい関係の生々しい描写に吸い込まれて行った。

 『生』を読み終わると同時に、私は、読みかけていた家族研究の洋書を放り出した。「百巻ノ研究文献、一篇ノ小説ニ如カズ」とでもいうような見当違いの気持になった。家族の研究なんか御免だ。その勢いで、私は「赤い十年間」へ飛び込んで、身を社会学研究室に置きながら、社会学は現実の社会問題の解決に全く無力なブルジョア科学であるなどという文章を雑誌に書き始めた。昭和八年三月、戸田先生は、「君は研究室を辞め給え」と言われた。私は街頭の一青年になった。田山花袋の『生』は、学問とジャーナリズムとの間をウロウロする私の人生の出発点を作った。(著作集19、pp.57-58)

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2006年3月13日 (月)

雨声会

 1907年の文展開設に象徴されるような文化領域への国家の介入(およびそれへの迎合)は、同じ年、文学の領域においても見られた。『近代日本総合年表』(岩波書店)には、1907年6月17日、「西園寺公望、田山花袋・広津柳浪・森鴎外・泉鏡花ら20人を招待、雨声会となづける」と記されている。これだけでは何のことかわからないであろうが、伊藤整の『日本文壇史』11(講談社学芸文庫)にはこの「事件」が詳しく取り上げられている。

 明治四〇年の二月頃、「読売新聞」の主筆なる三叉竹越与三郎は、新しい企画を思いついた。それは彼の親近している総理大臣西園寺公望を中心として一流文士の集会を作る、ということであった。うまく捗れば、それはヨーロッパ流のアカデミーを日本に成立させることになるかも知れない、と彼は考えた。(p.9)

 西園寺首相が近く文士を招待するという消息は、早くから時々新聞に出ていたが、この明治四〇年の六月十四日、招待される文士の氏名とともに、それが大きく各新聞紙に発表された。招待会は三日に分けられ、六月十七日、十八日、十九日にわたって、神田駿河台の西園寺邸で行われることになった。(p.17)

 招待された文士の氏名は、森鴎外、坪内逍遙、幸田露伴、巌谷小波、塚原渋柿園、内田魯庵、広津柳浪、川上眉山、夏目漱石、二葉亭四迷、大町桂月、後藤宙外、泉鏡花、小栗風葉、徳田秋声、柳川春葉、小杉天外、国木田独歩、島崎藤村、田山花袋の二十名であった。…(中略)…

 この発表は文壇人にとって大きな事件であった。誰が選んだにしろ二十名の文士を首相の名で招待するというのは、それは当代の文学を代表する文士であることを意味していた。一面で時流に媚びることを嫌いながらも、一面で世評を気にかけることの最も甚だしいものは文士である。入るべくして選に入ったものはそれを当然のこととしているが、危うく選に入ったものはそれを誇りとし、危うく選に漏れたものはそれを屈辱とした。常に道聴塗説を事とし、伝説とゴシップに明け暮れる文壇の末流は、この事件で騒然となった。(pp.17-18)

 騒然とした文壇の中を噂は電光のように行き交っていた。一つは、夏目漱石が招宴を断る手紙を出し、その手紙の終わりに、「時鳥(ほととぎす)厠半ばに出かねたり」という馬鹿にしたような句を添えた、ということであった。また一つは、坪内逍遙が鄭重な手紙を書いて断ったということであった。もう一つは二葉亭四迷もまた断ったということであった。親友の内田魯庵がそれを聞いて出向き、招待を断るというのはあまりに頑なではないかと言ったところ、二葉亭は、そういう場所へおれが行くもんか、と言って相手にしなかったという話も伝わった。

 六月十七日の招宴の第一目には眉山、柳浪、花袋、風葉、春葉の五人が西園寺邸へ出向いた。十八日には、鴎外、小波、宙外、天外、鏡花、秋声の六名、十九日には桂月、露伴、渋柿園、魯庵、藤村、独歩の六名が招かれて行った。その第一夜が雨降りであったのに因んで、この会は雨声会と名づけられた。(pp.20-21)

 『近代日本総合年表』の記述だけでは、招宴は6月17日の1回だけで、招待した20名が全員出席して、名称も最初から「雨声会」と名づけられていたように誤解される恐れがあるが、実際は、3夜連続の分散開催で、欠席者は3名で、「雨声会」という名称も後付のものであったわけだ。それにしても、招待された20名のリストを見ると、塚原渋柿園なんていう「この人、誰?」という名前も若干混じってはいるものの(渋柿園は東京日日新聞専属の歴史小説作家)、全体としては、後の「日本近代文学全○○巻」という類の企画ものには欠かせない作家たちが入っている。そういう作家たちが選ばれたというよりも、ここで選ばれた作家たちが「日本近代文学」のイメージを規定していったとみるべきだろう。小森陽一は次のように述べている。

 明治四十(1907)年に、日本の近代文学は、大文字の「文学」となった。

 大文字の文学とは何か。それは、新聞という活字メディアが、国民の大多数に読まれるようなリテラシーと、言語商品としての生産・販売・流通・消費のシステムが形成され、小説を中心とした近代「文学」が、日常的に享受される習慣が発生し、その言葉による表象の中に、近代国民国家が想像的なものとして立ちあがることである。またそれは、「文学」によって、近代国民国家を一つの統合体として表象しうるという可能性を国家の側が発見し、その発見に内包される期待(あるいは命令)に、「文学」を創作する側が自発的に答えていこうとする、相補性といってもよいような関係が成立することにほかならない。(『日本文壇史』11の解説「近代国家の形成と文壇ジャーナリズム」)

 ちなみに招待客20名の中で清水幾太郎の人生に一番影響を与えたのは田山花袋であるが、その話は明日に回そう。

 

 

                            

 

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2006年3月12日 (日)

南風

 1907年の西洋の絵画を代表する作品がピカソの「アヴィニョンの娘たち」であるとすれば、同じ年の日本の絵画を代表する作品は和田三造の「南風」ではないだろうか。筏に乗って大島沖を漂流する男達の姿を雄々しく描いた、日露戦争後の高揚した時代の気分がよく表現されている作品である。

 地下鉄東西線の竹橋駅を上がってすぐ、北の丸公園の一角に、東京国立近代美術館がある。展示フロアーは4階に分かれていて、最上階から始まって時代を追いながら下の階に降りていくという作品配置になっている。「南風」は4階のフロアーの「第1章-1 明治・大正期の美術 文展開設前後」という順路のスタート地点にあたるコーナーに常設展示されている。「文展開設前後」の「文展」とは「文部省美術展覧会」のことで、1907年10月25日から11月30日まで第一回が開催され、「南風」が洋画部門の2等(1等作品はなかったので、事実上の最高賞)を受賞した。

 東京国立近代美術館の作品展示が「文展開設前後」からスタートしているという事実は、「日本の近代美術」の成立を考える上で、示唆的である。西洋の絵画と出会って、その技法を積極的に採り入れた作品の創作に情熱を注いだ日本人は文展開設のずっと前からいた(高橋由一や浅井忠や黒田清輝ら)。しかしたんにそうした個人やグループが存在しているだけでは「日本の近代美術」という制度(ディルケームのいう社会的事実)は立ち上がらない。立ち上がるためには国家の後押し(介入)が必要だった。開国以来、富国強兵をスローガンとして国造りを進めてきた日本が、ロシアという一等国の一角を倒した(少なくとも国民はそう認識していた)ことを契機として、文化政策にも本格的に目を向け始めたことの表れの一つが文展開設であった。

 竹橋は大学への通勤の途中にある駅なので、私はときどき東京国立近代美術館に立ち寄って、「南風」を眺める。群青の海、白い波頭、晴れ渡った空。漂流中とはとても思えない、きりりと引き締まった男達の肉体と表情。カラリとした明るさと、すがすがしい風と、不屈の精神に溢れた絵である。和田三造や文展を観に来た人々は、これから先、日本国が辿るであろう道筋について、どんなふうに考えていたのだろうか、ということを私は考える。

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2006年3月11日 (土)

アヴィニョンの娘たち

 清水幾太郎『現代思想』(岩波書店、1966)は、清水の数多い著作の中でも、『倫理学ノート』(岩波書店、1972)と並んで、最もアカデミックな水準の高いものである。この本は一枚の絵画の話から始まっている。

 「一九〇七年、ピカソは「アヴィニョンの娘たち」という奇妙な絵を描いた。この作品は多くの画集に収められているから、大部分の読者は知っているであろう。義理にも美しいと言えぬ五人の女性を描いた絵が非常に有名になっているのは、ほぼ二つの理由によるようである。第一に、それがキュビズムの最初の重要な作品であるということ、第二に、それがアフリカの黒人芸術から強い影響を受けているということ。この絵には、客体を幾何学的図形に分解し、この図形の総合として客体を新しく構成して行こうという合理性の追求と、異国的なもののうちに豊かな生命を探ろうとするエネルギーの追求とが見られる。最近、ローゼンソールは、こうした「抽象」と「情熱」との結合をスペイン芸術に固有の伝統と見て、それがスペイン生まれのピカソのうちに生きているという点を強調している。実際、そういう事情もあるではあろうが、私には、もう少し大きい問題のように考えられる。…(中略)…ピカソの作品に見られる二つの傾向が、或る時は結合し、或るときは分裂しながら、一方では西ヨーロッパの芸術の古い伝統を無残に破戒し、他方では、二十世紀の芸術の大きな流れを形作って来たことが重要であるように思われる。いや、芸術の世界を越えて、それが二十世紀の思想そのものの運動を予告したことが大切であるように思う。」(pp.1-2)

 清水が『現代思想』で試みようとしたことは、19世紀風の大思想の崩壊過程として20世紀の思想をスケッチすることであった。19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて企てられたさまざなま精神の冒険(ニーチェの哲学、プランクの量子仮説、フロイトの精神分析、ベルンシュタインの社会主義論など)の中で、清水がとくにピカソの絵画を冒頭にもってきたのは、そこにリアリズムの批判という20世紀思想にとって決定的に重要な意味を見たからである。

 「リアリズムは、満足した社会の自画像であった。それゆえに、貴紳富豪が芸術と芸術家とを愛して来たのも当然であったろうし、一群の大胆な芸術家がリアリズムを拒絶して、文化の内部に美しく安定していた客体を勝手に分解し、文化の外部に野性的なエネルギーを求め始めた時、それが忽ちスキャンダルになったのも当然であったであろう。」(pp.8-9)

 文章の長短にかかわらず、書き出しをどうするかは常に悩ましい問題である。「アヴィニョンの娘たち」の話を冒頭にもってくるというアイデアを思いついたとき、清水は「よし、これで行こう!」と小さく声に出して言ったのではなかろうか。20世紀の最初の10年間に生まれたことを「小さな誇り」と感じている清水にとって、『現代思想』を自分の生年である1907年に書かれた絵画の話から始めることは、気の利いたアイデアであったに違いない。そして、これはもちろん清水自身は意識していなかったであろうが、ピカソが生涯を通じてさまざまな作風を示した「変貌の画家」であったことも、『現代思想』=清水自身の思索の遍歴の検証作業という点から考えて、意味のある符号の一致と言えるのではなかろうか。

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