2006年4月30日 (日)

抒情へのまなざし

  生まれ育った土地を遠く離れて、その遠く離れた場所から生まれ育った土地を振り返るとき、そこに「故郷」という抒情的対象が立ち上がる。しかし、「故郷」は必然的に(自然に)甘味な抒情の対象となるわけではない。そこには「故郷」を抒情の対象として見ようする意思が働いているはずである。いや、対象は「故郷」に限らない。さまざまなものを抒情的に見ようとする意思、抒情そのものへのまなざしが大正という時代を覆っていたように思われる。
  「抒情詩人」西條八十(明治25年~昭和45年)を論じた筒井清忠編『西條八十と昭和の時代』(ウェッジ選書)の中で、筒井は次のように述べている

  大正八年、第一詩集『砂金』が刊行された。それは、一つ一つの詩が華麗な言葉によって堅固に構築された詩集であり、「寂しさ」が全体の基調になっていた。…(中略)…大正九年六月、抒情詩集『静かなる眉』が刊行される。以後、八十の抒情詩集は女学生を中心とした若い女性の間で熱烈に支持されることとなるのである。
  その背景にはこの時期、高等女学校校数・生徒数が急激に増加したことがあった。それは大正7年から一五年の八年間に、学校数では二・五倍、生徒数で約三・二倍という激しいものであった。飛躍的に増加した女学生の間で強く求められたのはロマンチズム(より正確にいえば、淡い無常観を伴った日本的ロマンチズム)であったし、八十はその欲求に最もよく応えられる人だった。(pp.19-21)

  ここで指摘されていることは文学の受容者(読者)における女性人口の増加並びに低年齢化ということだが、それは男性のメンタリティの女性化という現象も伴っていたはずでる。同書に収められている座談会「西條八十とその時代」(藤井叔禎・川本三郎・関川夏央・筒井清忠)の中で次のような世代論が展開されている。

  藤井 乱歩が明治二七年ですね。久米が明治二十四年、菊池が二十一年でちょっと上なんですが、何かこの辺の世代から、それ以前とはひと味違った柔軟な姿勢が見られるような感じがします。
  川本 明治の二代目でしょうかね。でも、青春時代は大正にかかっているのかな。
  筒井 二十代まで含めて考えると、大正初期から中期ということになりますね。
  川本 明治の人というより、むしろ大正の人ですよね。そうすると、なんとなくわかってきますね。
  関川 芥川も八十と同じ明治二十五年生まれですね。
  筒井 ええ、だから芥川と仲が良かった。愛蘭土(アイルランド)文学会というのを一緒にやっています。
  川本 明治の作家、たとえば永井荷風や里見弴の場合は、文学なんかやることに父親が反対した。父の重圧というのがすごくあったと思うんですが、西條八十の世代になるとその重石がなくなったという感じがしませんか。
  筒井 八十の場合は、お父さんは商売一途な人で、文学などには全然関心がなかったみたいですね。だから、抑圧ということでもなかったみたいですね。
  川本 しかも八十にはお姉さんという導きの人がいたので、前の世代とその点は全然違いますね。やはり明治の富国強兵の時代から、ある文化的な雰囲気が浸透してきた大正の世代の人だという気がしますね。
  藤井 輸入石鹸を扱っているお家なんていうのもすごく面白いですね、異国趣味というか。それに、時代もそういう欧米崇拝みたいなものが入ってきて、その頃に端を発するエキゾチックな作風とか感性みたいなものが相当その後長く-私は昭和四十年頃の歌謡曲の歌詞を連想するんですが、そのへんにまで流れているという感じがしますね。
  川本 里見弴の晩年に江藤淳がインタビューしていて、「大正時代というのはどういう時代ですか」と聞くと、里見弴が「天皇はああいうふうだったし、ともかく軟弱な時代だった。だからおれは生きていられた」みたいな答え方をしていますね。山本夏彦さんだったかな、「大正時代というのは要するに不良が許される時代だった」という言い方もしているから、そこで明治という強い偉大なる父親の時代とまったく違う雰囲気が生まれたという気がしますね。

  ここで私が思い出すのが、清水幾太郎が『私の読書と人生』の中で有本芳水の詩について語っていることである。

  小学校に入つてから、私は毎月「日本少年」を講読してゐた。その他にも何種類かの少年雑誌があつたが、私が「日本少年」を買ひ続けたのは、それに有本芳水の詩が載つてゐたからである。…(中略)…古いもの、遠いもの、亡びたもの、悲しいもの、さういうものの美しさを芳水の詩は私に教えてくれた。

  ふりさけ見れば浅間山
  黒き煙の渦まきて
  空より野邊に流れ落つ
  山の麓の町町の
  白き壁には日のかげの
  赤く悲しくたゆたいて       (「浅間山」)

  田舎といふものと全く縁がない町の子である私には、海や山や港は芳水の詩を通して初めて現実のものとなつた。いや、数十冊の立川文庫が一度も触れなかつた私の心の或る部分に、これ等の詩は強い刺戟を与えたのだ。言葉といふものの微妙な動き、その不思議な力に、私は漸く目覚めて来たのであらう。当時の「日本少年」には芳水のほかに松山思水といふ記者が活躍してゐたが、後者の荒つぽい文章と、これに相応しい内容とは私に一種の反発を感じさせ、その反発が一層私を芳水の方へ傾かせて行つたやうである。(著作集6,pp.371-372)

  清水は子ども時代のこうしたメンタリティーを、没落した旗本の末裔であることや、早熟さによって説明しているが、そもそも「日本少年」という少年向けのメディアに有本芳水の詩が連載されていたという事実は清水の個人的事情とは関係がないわけで、それは大正という時代のメンタリティーの反映としてとらえるべきものである。
  清水は明治40年の生まれだから、西條八十よりもさらに次の世代、「明治の三代目」であるわけで、ものごころついた頃から思春期の多感な時期を筒井のいう日本的ロマンチズムにたっぷりと浸りながら送った世代である。そのように考えると、清水の多くの文章に見え隠れするセンチメンタリズムや、「庶民」(大衆)の哀歓への共感というものを理解できるのでないだろうか。

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2006年4月26日 (水)

故郷へのまなざし

  農村から都市への大量の人口移動は、「故郷」へのまなざしを強める。「故郷」はたんに人が生まれ育った場所ではない。ある場所で生まれ育った人が、その場所を遠く離れて、遠く離れた場所から自分が生まれ育った場所を振り返るとき、「故郷」という叙情的な対象が生まれる。
  数ある「故郷ソング」の中で、一番ポピュラーなものは、♪兎追いしかの山、小鮒つりしかの川、夢は今もめぐりて、忘れがたき故郷~、の文部省唱歌『故郷』(詞:高野辰之、曲:岡野貞一)であろう。1914年(大正3年)に世に出た歌である。読売新聞が身の上相談を始めた年であり、朝日新聞が漱石の『こころ』の連載を始めた年でもある。心理的な「内面(人生問題)」へのまなざしの普及と、空間的な「故郷」へのまなざしの普及は、どこかで連動しているように思う。
  『故郷』よりも以前の「故郷ソング」としては、♪夕空はれて、あきかぜふき、つきかげ落ちて、鈴虫なく~、の『故郷の空』(明治21年)。♪幾年ふるさと、来てみれば、咲く花鳴く鳥、そよぐ風~、の『故郷の廃屋』(明治40年)。♪園の小百合、撫子、垣根の千草~、の『故郷を離るる歌』(大正2年)などがある。しかし、これらの歌が外国の曲(『故郷の空』はスコットランド民謡、『故郷の廃屋』はアメリカの作曲家W.ヘイズの曲、『故郷を離るる歌』はドイツ民謡)に日本語の歌詞を付けた(訳詞とはいえない)ものであるのに対して、『故郷』は日本人による作詞・作曲、いわば和製「故郷ソング」なのである。
  日本は近代化の進展の中で多くのものを欧米から輸入した。モノや制度だけでなく、そこには「人生の物語」も含まれていた。近代版「人生の物語」の基本である「成功(立身出世)の物語」はまずもってサミュエル・スマイルズ『自助論』の翻訳である『西国立志編』によって広く普及し、ようやく大正時代も半ばになって、「野口英世」という日本人モデルを見出した。輸入品が先行し、続いて国産品が普及するというのは、近代化の後発国の一般的パターンである。
  『故郷』の三番の歌詞、♪志を果たして、いつの日にか帰らん~、に着目して、『故郷』を「立身出世ソング」の系列に位置づける見方に対して内田隆三は疑問を呈している(『国土論』、2002年)。

  第一の論点は、唱歌『故郷』に描かれた「故郷」への美しい憧憬の裏面には、たしかに「故郷」から逃げてきたり、「故郷」から追い出されたりした人たちがたくさん存在していたと思われることである。また、そこで歌われているように、志を果たして「故郷」に帰ることができると、人びとが実際に信じているかどうかもわからないことである。「故郷」にたいするロマンティックな感情の裏面には、「故郷」にたいするリアリズムとルサンチマンの心情が付着しており、その表/裏の奥行きを捨象してはならない(p.59)

  第二の論点は、…(中略)…それがそう単純に立身出世主義に志向していないことである。唱歌『故郷』は、大衆の社会的な動員や主体化を積極的で現実的な主題とする明治時代の歌曲から意味論的に逸れていき、心情的にも下降していく側面をもっている。吉本隆明は大正期の大衆歌謡にはその種の社会的主題の喪失が見られるというが、その意味で唱歌『故郷』は大正時代のこうした歌曲に連なっていく側面を色濃くもっているのである。
  …(中略)…こうした現実喪失、現実乖離とい視点を基準にしてみれば、唱歌『故郷』は、大衆のナショナリズムの明治から大正(一九一二-一九二五)へのまさに移行期に位置していることがわかるだろう。その歌は故郷を遠く離れ去ってしまった主体の望郷の思い、あるいは何らかの意味で故郷喪失の感情を歌っているからである。その歌には「志を果たしていつの日にか帰らん」という三番のフレーズ以外に大衆の社会的な動員という主題はとくに見られない。またこの三番のフレーズも、そうなればいいのだがというような、どこか消極的な色調を帯びている。むしろこの歌の主題は、もっぱら遠い「過去の追憶」に志向しており、子ども時代の友人や、父や母の消息や、故郷の風景の記憶を、一人孤独な思いで、あてもなく表象することにあるからである。(pp.60-61)

  確かに、『故郷』は実際に口に出して歌ってみると、一種の淋しさを伴った歌であることがわかる。今まさに故郷を離れて都会へと向かう列車に乗っている人の歌ではない。都会に着いて間もない頃の人の歌でもない。都会で暮らし始めてかなりの歳月が経ち、当初の立身出世の夢も色あせて、なんとなく先が見えてしまった人の歌のように思える。明治という「坂の上の雲」を見上げながら人々が歩いていた時代が終わり、「時代閉塞の現状」(石川啄木)が人々を憂鬱な気分にさせる時代へと入っていく、近代日本の青春の終わりを告げる歌のように思える。  

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2006年3月27日 (月)

自伝の変容

 清水幾太郎は生涯に3冊の自伝を書いている。最初の自伝が『私の読書と人生』(要書房、1949、42歳)、2冊目の自伝が『私の心の遍歴』(中央公論社、1956、48歳)、そして3冊目の自伝が『わが人生の断片』(文藝春秋、1975、67歳)である。

 昨日紹介した「易者」のエピソードは3冊の自伝すべてに出てくる。昨日の引用は最初の自伝からのものだが、2冊目の自伝ではこうなっている。

 インテリになりたい。そう思い詰めていた或る日、私はひとりの占者を訪ねました。彼は、私の顔をつくづく眺めて、「医者になれば、直ぐ金持になって、直ぐ博士になれる」と言いました。(『私の心の遍歴』、著作集10、p.291)

 最初の自伝より記述は簡略だが、骨子は同じである。ところが、3冊目の自伝ではこうなっている。

 大正九年に入ってからの或る日、何の用事であったのか、私は、本所の或る洋品屋の店先に腰かけていた。易者は、大きな天眼鏡を袋に入れながら、「医者になりなさい」と私に言った。その店へ私が行ったとき、彼は先に来ていた。なぜか私に興味を持って、天眼鏡を取り出して、私の顔をつくづく眺めた末、彼はそう言った。(『わが人生の断片、』著作集14、p.146)

 1冊目と2冊目の自伝では、自分から易者を訪ねた、とある。しかし、3冊目の自伝では、易者との出会いは偶然であり、しかも、易者の方から彼に接触してきた、と書かれている。これは大きな違いである。異同の理由はいくつか考えられる。

 第一は、記憶の変容。時間が経つと記憶内容が変化することはわれわれも日常しばしば経験することである。しかし、「易者」のエピソードの場合、記憶の変容によって異同を説明することには無理があるように思う。なぜなら、前の2冊の自伝は3冊目の自伝を書くときに手元にあるわけだから(実際、同じエピソードを以前とまったく同じ言い回しで語っている箇所が『わが人生の断片』には散見さえる)、もし勘違いして書いても後から気付くはずである。

 第二は、正確な記憶が蘇った(1冊目と2冊目の記述が誤り)。私は心理学の専門家ではないので断定的なことは言えないが、13歳のときの出来事の記憶が40代では不正確で60代ではっきりするというのはありそうもない話である。

 第三は、ドラマチックに脚色した(1冊目と2冊目の記述が事実)。人生の転機における偶然的要素の強調というのはありそうな話だ。しかし、最初の自伝ならいざしらず、以前の記述との矛盾を指摘されることを承知の上でそういうことをするものだろうか。

 第四は、脚色するのを止めた(1冊目と2冊目の記述に脚色があった)。私はこの説を支持する。自分から易者を訪ねたというのは人生の転機における主体性を強調するための脚色-それがどの程度意識的に行われたものであるかは別として-だったのではないか。おそらく清水は最後の自伝のつもりで3冊目の自伝に取り組んだはずである。とすれば、以前の記述との矛盾を指摘されることを覚悟で、できるだけ記憶(主観的事実)に忠実な記述を心がけたとしても不思議ではないだろう。

 「語りの時点が異なると語られる内容も変化する」というライフストーリーの特性は、口述生活史の研究者には周知のことである。しかし、口述生活史の調査期間は短いもので数日、長いものでも数年である。したがって、そこで起こる語りの変容の多くは、対象者の置かれている状況が大きく変化した結果というよりも、むしろ語りを繰り返すことで記憶の細部が甦ったり、語り手と聞き手の関係がより親密になってそれまで語ってくれなかったことを語ってくれるようになった結果である。語り手自身の変化によって引き起こされるライフストーリーの変容を検証するためには、同一人物について人生の異なる時期に収集された(書かれた)複数のライフストーリーが必要とされる。そうした資料はめったにない。清水の3冊の自伝はその稀有な例である。

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2006年3月26日 (日)

易者

 新聞の「身の上相談」が自然主義小説における「告白」の庶民版であることは昨日述べたが。新聞の「身の上相談」には別の源流もある。それは江戸の町角にいた大道易者である。町人たちは悩み事や迷い事を易者に相談した。そこには相談者と回答者の二人しかいないから、相談者と回答者の他に編集者と読者が存在する「身の上相談」とは構造的には違うものなのだが、江戸の庶民にも人生問題はあったということは忘れてはいけない。ただし、問題は-シャレではないが-人生問題の内容であり、語られ方なのである。

 清水幾太郎の自伝には人生問題を易者に相談するエピソードが出てくる。

 やがて私は小学校を卒業したが、それからどうするという見当もついていないので、或る人の勧めるままに、神田の某商業学校に入った。今日と同様、その頃の私も実に軽率であった。商業学校に入ったものの、毎日の簿記と珠算とに閉口して、というより、学校の空気に愛想をつかして、一学期が終わらぬうちに退学届けを出してしまった。やがて夏休みになる頃から、どこかの中学校に入ろうと考え、方々の中学の受付を訪れてみたが、誰も真面目に相手をしてはくれない。仕方ないので、二学期から日本橋の高等小学校に入れて貰った。勿論この学校を卒業するという気持ちはなく、三学期を終えたら中学へ行こうと考えていた。私が或る易者を訪れたのも、やはりその頃であったろう。彼は私の顔をつくづくと眺めて、医者になる方がよい、直ぐ博士になって、直ぐ金持になる、と断言した。そこで私は、当時医者を志望するものが集まっていた独逸学協会学校中学へ行こうと決心した。(『私の読書と人生』〔著作集6〕、p.378)

 「神田の某商業学校」とは神田仲猿楽町(現在の神保町交差点附近)にあった順天中学校の校舎を夜間に借用して開校していた東京高等商工学校のことである(現在の埼玉工業大学につながっている)。清水は昼間は家業(洋品雑貨店)を手伝いながら、夜学に通っていたわけだ。それにしても高等小学校の1年生(13歳)が進路を易者に相談したことには驚くが、当時はそれほど珍しいことではなかったのかもしれない。人生問題の相談のメディアとして易者はまだまだ現役であった。読売新聞の「身の上相談」にこんな例がある。

 私は二十七歳で、この頃結婚話がありました。従妹にあたる女ですが、私はその女の親が快諾したら結婚しようと申しました。ところがある易者に私たちの結婚を占ってもらいますと、彼女は巳年、私は土星の巳年ゆえ相性が合わぬとのこと。もし結婚すれば病人が絶えないというのです。彼女は親の許しを得たと言ってきましたが、何とかうまく断る方法はありませんか。私は易者の言葉を信じずにはいられません。(大正8年2月11日)

 易というものは個人の意志や努力とは独立に存在するその人の運勢というものを前提としている点において、前近代的なものであるように思えるが、そうであるからこそ、個人の意志や努力を強調する近代的な人生の物語と共存が可能なのである。鈴木健太郎によれば、雑誌『婦人世界』に占い記事が初めて掲載されたのは明治42年1月号のことで、こうした「占いの情報化」は大正10年頃を境に一挙に加速されていったという(「婦人雑誌と占い」、『近代日本文化論9 宗教と生活』所収、岩波書店、1999)。

 すべてが運命の決した因果律によって否応なく生起しているがごとくに、自分の身の上に生じた出来事や体験を運命の糸で結ぶことで、物語の全体に一つの必然的な流れ、因果的一貫性、不可避的連続性を与えるような語り…(中略)…を、ここでは「運命律」と呼ぶことにしよう。…(中略)…次のように考えられないだろうか。すなわち、投稿者自身が語り、またその周囲の人々によって日常的に語られる投稿者の身の上や境遇についての物語は、投稿者を悩ませ苦しめるものであり、そうした語りからの一時退却先あるいは避難所を求めて、投稿者は運命律によるオルタナティブな物語を読者という見えざる他者に向けて語り出している、と。ふだんの語り方/語られ方では羞恥や後悔あるいは自責を感じないではいられない過去の身の上や現在の境遇であっても、それを運命のなせる業として語り直すことによって、まとわりつく心理的負荷をいったん棚上げすることができる、うまくすれば無毒化も可能だ。日常的な語りの文脈では自分自身の道義的責任や落ち度あるいは人格的未熟さや弱さといったものに関連づけられてしまいがちな出来事や行為でも、運命律の文脈の中に再配置することができれば、そうした関連づけをひとまず解除し、自分をいつまでも責め苛むように、傷つけ続けるようにしむける日常の物語に潜む暴力性から身を守れる。(鈴木、pp.214-216)

 個人の意志や努力や「自己責任」が強調される時代になればなるほど、傷つきやすい近代的自我のための一種のセーフティネットとして、運勢や運命といった要因を重視する人生の物語が補完的に機能するということである。

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2006年3月25日 (土)

身の上相談

 近代的自我の構造的特徴が外面(公的自己)と内面(私的自己)の二重構造にあるとすれば、そうして二重構造は内面を語ることを通して形成される。内面を語るとは、具体的には、他人に言えない悩みや秘密を語るということである。逆に言えば、近代的自我を持つためには悩みや秘密がなくてはならないのである。

 読売新聞の紙面に「身の上相談」が設けられたのは1914年(大正3年)5月2日のことである。以後、日中戦争から敗戦直後までの期間を除いて、「身の上相談」は現在まで続いている(現在の名称は「人生案内」)。一般の読者が個人的な悩み事、すなわち人生問題を投稿し、回答者が紙面でそれに答えるという「身の上相談」は、言ってみれば、田山花袋が『蒲団』で確立した「告白」という制度の庶民版である。文学青年たちが私小説という形式を使って行おうとしたことを、庶民は新聞の「身の上相談」において行おうとしたのである。

 当時の相談内容には、たとえば「夫が一日にミカンを20個も食べるが、何か衛生上悪いことはないでしょうか」(大正4年1月31日)というような、われわれから見て「これが人生問題といえるだろうか」と思えるものが混じっている。反対に、たとえば「毎日毎日閑散な日を過ごすのは、何だか自然の道に背くような気がして、罰があたりはせぬかと良心に恥ずることもあります」(大正6年11月15日)という34歳の主婦からの相談のように「専業主婦の憂鬱」としてわれわれにはお馴染みのものが、「これはまた珍しいお尋ねですね」と回答者によって新種の人生問題として扱われていることもあった。

 端的に言えば、「身の上相談」は個人的問題が人生問題として社会的に承認される場所であった。相談者はただ単に自分が困っている問題を相談するのではなく、「身の上相談」が取り上げてくれるであろう問題を相談する。新聞社は相談をランダムに採用するのではなく、「身の上相談」で取り上げるに相応しい問題を採用する。回答者は個々の相談への回答がその場限りの特殊のものではなく、同種の相談に対して繰り返し適用可能な一般性のある回答をする。読者は相談者と回答者のやりとりを対岸の火事を見物するように読むのではなく(そういう面もあるが、それだけでなく)、自身の人生問題への対処の参考にしようとして読む。こうした相談者、新聞社、回答者、読者の協同作業の産物として、その時代、その社会における人生問題が構築されていく。

 ちなみに読売新聞が「身の上相談」を始めるよりも12日早く(4月20日)、ライバルの東京朝日新聞では夏目漱石の『こころ』の連載が始まっている。人生問題への高まりが時代の趨勢であったことを物語る符号の一致といえよう。

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2006年3月22日 (水)

東都新繁昌記

 清水幾太郎の一家が両国橋を西から東へ渡ったのは1919年(大正8年)のことであったが、その前年に出版された山口孤剣『東都新繁昌記』という本がある。東京への流入人口の増大を背景として明治の終わり頃から東京案内本の類がブームになったが、そうした中の一冊で、「お役所の麹町」「書生の神田」といった具合に東京市の地域(区)ごとにその特徴を論じるという構成になっている。その見出しを借用するなら、清水の一家は「和製の日本橋」から「職工の本所」へ引っ越したのである。

 …京橋は日本橋や、神田と同じく近年殆んど戸数が一定して、著しき相違がないのに、本所、深川、浅草、巣鴨、渋谷は大速力で戸数の増加して行くのは、思ふに人間が中央から四つ隅にはみ出さんとするものであつて、其処に悲しき痛ましき生活問題が横たわつてゐる。単に大東京の膨張などと太平楽に看過するべきものではない。(『東都新繁昌記』p.122)

 清水の一家はまさに「はみ出さんとするもの」であった。山口孤剣は社会主義者で、清水が生まれた1907年に平民新聞に「父母を蹴れ」という文章を書いて逮捕・投獄され、翌年6月に出所した。その出所歓迎会が神田錦輝館で開かれたときに「無政府共産」の赤旗が掲げられて警官が介入したのが有名な赤旗事件である。この事件で、山口は、大杉栄や堺利彦や荒畑寒村とともに逮捕されるのだが、逮捕されたおかげで、入獄中に起こった大逆事件とは関わりをもたずにすんだ。大逆事件後の社会主義の「冬の時代」を山口は雑誌記者や新聞記者をしながら糊口をしのいでいたのだが、大正4年12月から大正6年2月まで大隈重信主宰の雑誌『新日本』に連載していた記事を本にしたのがこの『東都新繁昌記』である。そこには社会主義者のまなざし、生活問題=社会問題を発見しようとするまなざしが遍在している。社会問題の発生は、一方で、それを実践的に解決しようとする社会主義の台頭と、他方でそれを実証的に研究しようとする社会学の台頭とつながっている。清水は本所という社会問題のるつぼのような土地に引っ越して、その場所から、無政府主義やマルクス主義に染まりながら、東大社会学研究室につながる学問的立身出世の階段を昇っていったのである。実践的であることと実証的であること、ジャーナリスティックであることとアカデミックであること、体制外(在野)であることと体制内(講壇)であること、清水の社会学への志向には当初からアンビバレンツなものが含まれていた。

 山口孤剣は『東都新繁昌記』が出た翌年、『改造』大正8年10月号に「日本社会主義運動史」を寄稿し、「社会党の冬は去って春は来た」と書いたが、それから一年後、大正9年9月、腎臓病のため37歳で亡くなった。

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2006年3月21日 (火)

橋を渡る

 社会移動と地域移動はしばしば連動する。「上京して一旗あげて故郷に錦を飾る」ことは近代日本人の人生の物語の典型的なモデルであった。なぜ社会移動と地域移動が連動するのかと言えば、社会的資源の分布に地域間格差があるからである。原則として、人々は社会的資源の乏しい地域から豊かな地域へ移動していく。「原則として」と言ったのは、第一に、移動を禁止ないし抑制する社会的装置が働いている場合があるからであり、第二に、社会的競争に敗れて心ならずも社会的資源の乏しい地域に移動しなくてはならない場合があるからである。

 清水の自伝には彼が小学校6年のときに経験した最初の引越のことが書かれている。

 月も日も覚えていないが、大正八年の或る日、家財道具を積んだ馬車の後について、両国橋を西から東へ渡って行った。父にとっても、私にとっても、これは最初の引越であった。単なる引越でなく、落ちて行くような引越であった。橋の中途で、妹は、「いつ日本橋に帰るの」と私に聞いたが、私は聞こえない振りをしていた。近頃は、「下町」という言葉が見境もなく用いられているが、当時の古い小さな東京では、本所でも、回向院や旧吉良邸辺りまでの、隅田川に近い地帯は、下町と呼ばれたかも知れないが、東へ進むにつれて、「場末」になる。柳島横川町は、力と富とを求めて、というよりも、生きる道を求めて東京へ流れ込んだ人たちの住んでいる地帯である。公害という言葉のない時代であったが、一日中、空気が臭かった。江戸時代からの言葉や趣味や人情を探す方が馬鹿で、そこに住む人々は、各地の方言や風習を無遠慮に持ち込んでいた。(『わが人生の断片』著作集14、p.145)

 この引越は、竹屋という時代遅れの商売がいよいよ立ちゆかなくなった一家が、洋品雑貨の商売を始めることに伴うものであった。清水幾太郎は没落士族の末裔として下町(庶民の世界)に生まれたが、そこから一直線に山の手(インテリの世界)を目指したのではない。清水の学問的立身出世は、場末(貧民の世界)を経由した、貧しさからの脱出を目的としたものであった。

 両国橋の名称はそれが武蔵と下総という二つの国の間に架かるものであるところから来ているが、一般に、「橋」は二つの異質な世界を繋ぐもののメタファーである。部落差別を主題とした住井すゑの小説のタイトルは『橋のない川』であった。橋のないことは絶望的だが、橋が架かっていることも人生の喜怒哀楽の原因となる。将棋の十四世名人木村義雄の自伝の書き出しは次のようなものである。

 十二歳の少年が、父に連れられて、両国橋を渡った。(『将棋一代』)

 木村義雄は1905年の生まれ。清水よりも2歳年長である。生まれた場所は東京本所。父は下駄屋を営んでいた。木村が父に連れられて両国橋を渡ったのは柳橋から浅草橋へ向かう通りの角の網船屋の二階に住んでいた井上義雄八段のところへ入門を申し出るためであった。結局、木村は井上八段ではなく関根八段(後に十三世名人)の通い弟子になるのだが、「両国橋を渡った」ことは木村の立身出世物語の冒頭にもってくるに相応しいエピソードだったのである。清水が両国橋を木村とは反対方向の「西から東へ」渡ったのは、このエピソードから3年後のことであった。

 両国橋ということで、ついでに言えば、山本周五郎の小説『さぶ』の書き出しは次のようなものである。

 小雨が靄のようにけぶる夕方、両国橋を西から東へ、さぶが泣きながら渡っていた。

 小川町の経師屋「芳古堂」の奉公人であるさぶが、おかみさんに叱られて、店を飛び出し、葛西の実家に帰ろうとしている場面である。「橋を渡る」という行為にはさまざまなドラマがある。

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2006年3月20日 (月)

立身出世

 「清水幾太郎と彼らの時代」のキーワードの一つは「立身出世」である。

 立身出世とは、社会学の言葉で言い換えれば、社会階層間の上昇移動である。社会的資源(お金、権力、権威、知識、愛情、時間、健康的な環境など人々の欲望の対象となるもの)が社会のメンバーに不平等に分配され固定化されている状態を社会階層と呼ぶ。社会階層は古来から存在するが、近代社会の特徴は階層間の移動が正当化されるとともに、実際に階層間の移動が活発になったことである。階層間の移動は、学校教育を経由して、職業選択や配偶者選択を契機として起こり、その際、地域移動を伴うことが多い。階層間の移動は一人の人間の生涯の中で起こることもあれば(世代内移動)、親と子の間で起こることもある(世代間移動)。人は自身の立身出世ばかりでなく、配偶者や子どもの立身出世も願う。こうして近代社会の人生の物語は立身出世(成功)というテーマをめぐって編成されることになる。「大きくなったら何になる?」という問いは近代社会の子どもたちに固有な問いである。子どもたちは大人から繰り返しこの質問を受け、それに答えることを通して、人生とは何かになる過程であるという感覚を内面化していく。その日その日を漫然と生きることではなく、将来に目標を設定し、その実現に向けて努力することが人生というものなのだと考えるようになる。自伝というものがすぐれて近代の文学のジャンルであることの理由がここにある。

 清水幾太郎の二冊目の自伝『私の心の遍歴』に小学生の彼が「リン」と呼ばれる竹を立てかけておく場所(清水の家は竹屋という商売を営んでいた)に登る場面が出てくる。

 私が子供であったせいか、リンは非常に高いものに思われました。小学校へ入ってからは、時々、このリンの天辺まで登ってみました。或る高さまでは、ギイギイとしなう長い梯子で登れるのですが、それ以上は、リンに縋って登らればなりません。天辺まで登ると、何でも見えます。そして、何という明るさでしょう。正面の小学校の高い建物は目障りで困りますが、少し方向を変えると、平常は仰ぎ見るような建物が、一つ残らず、私の眼下にあります。銀行も会社も大商店もお屋敷も、すべて私の眼下にあります。無数の家々の屋根を越えて、直ぐ目の前に、日本橋の三越が見えます。私は、幾度か、このリンへ登って、快哉を叫びました。黙っていようとしても、明るい叫び声が腹の底から出て来てしまうのです。何でも見えるのです。何も彼も明るいのです。私は、竹屋という商売に大きな誇りを感じていました。(著作集10、pp.238)

 清水の家は昔から竹屋であったわけではない。祖父は旗本であった。その祖父(天保六年=1834年の生まれ)が維新のときに俸禄の奉還と引換にもらった現金を元手に趣味を生かして始めた商売が竹屋なのであった。いわゆる士族の商法というやつで、時代の先を読んだ商売でもなかったから、暮らしは貧しかった。しかし元旗本というプライドだけは高く、清水が生まれたときに着せられた産衣は十五代将軍慶喜が着たものであったという。幼い清水は家に集まる老人たちが「世が世なら、あの子だって・・・・」と語るのを襖越しによく聞いたという。幼年時代の清水の周囲には没落という下降的社会移動の湿った空気が漂っていた。清水はそこから立身出世の学問的形態を志していくことになる。

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