2006年5月 4日 (木)

マルクス主義へのまなざし(安吾の場合)

  清水幾太郎の思索と行動の軌跡を見ていこうとするとき、マルクス主義や共産党との関係について考えないわけにはいかない。これは清水に限らず、戦前・戦中・戦後を通じて日本のインテリ一般について言えることである。その理由は、第一に、マルクス主義は資本主義化する社会に発生する社会問題(貧富の二極化問題)の解決のための思想で、当時の日本社会の状況に適応可能だっこと。第二に、マルクス主義は西洋からの輸入思想だが、インテリは西洋思想の輸入・販売のエージェントとして機能してきたこと。第三に、富国強兵という実利優先の時代にあっては、(文系の)インテリは体制の周辺ないし外部に置かれることが多かったから、体制批判の理論としてのマルクス主義とは親和性があったこと、などをあげることができる。
  ただし、インテリとマルクス主義や共産党との関係は、時代や、インテリの出身階層によって異なる。森鴎外や夏目漱石はマルクス主義や共産党とは無縁であった(日本共産党が非合法下に結成されたのは1922年=大正11年である)。1960年代以降の生まれのインテリにとってもマルクス主義や共産党との関係は大きな問題ではないだろう。労働者階級出身のインテリにとってマルクス主義や共産党が親和性をもつものであったのは当然だが、他方、資本家階級出身のインテリにとっても「自責の念」と「社会正義」を伴った社会科学的な理論と運動として大きな影響力をもった。
  清水幾太郎は1907年(明治40年)の生まれで、祖父は元旗本、父親は日本橋で竹屋という時代遅れの商売を継いでいたが、1919年(大正8年)に本所に移って洋品雑貨の商売に転じた。世代的には青年の間の流行思想が無政府主義からマルクス主義へと移行する過渡的な世代であり、階層的には世代間の下降的社会移動の結果としての下層自営業者の出身である。したがって、清水とマルクス主義や共産党の関係は単純明快なものではない。
  清水よりも一つ年長(1906年=明治39年生まれ)の坂口安吾の自伝的小説「暗い青春」(1947年)の中にこんな箇所がある。

  戦争中のことであつたが、私は平野謙にかう訊かれたことがあつた。私の青年期に左翼運動から思想の動揺をうけなかつたか、といふのだ。私はこのとき、いともアッサリと、受けませんでした、と答へたものだ。
  受けなかつたと言ひ切れば、たしかそんなものでもある。もとより青年たる者が時代の流行に無関心でゐられる筈のものではない。その関心はすべてこれ動揺の種類であるが、この動揺の一つに就て語るには時代のすべての関心に関連して語らなければならない性質のもので、一つだけ切り離すと、いびつなものになり易い。
  私があまりアッサリと動揺は受けませんでした、と言ひ切つたものだから、平野謙は苦笑いのていであつたが、これは彼の質問が無理だ。した、しなかつた、私はどちらを言ふこともでき、そのどちらも、さう言ひきれば、さういふやうなものだつた。
  …(中略)…
  私はともかくハッキリと人間に賭けてゐた。
  私は共産主義は嫌ひであつた。彼らは自らの絶対、自らの永遠、自らの真理を信じてゐるからであつた。
  我々の一生は短いものだ。我々の過去には長い歴史があつたが、我々の未来にはその過去よりも更に長い時間がある。我々の短い一代に於て、無限の未来に絶対の制度を押しつけるなどとは、無限なる時間に対し、無限なる進化に対して冒涜ではないか。あらゆる時代がその各々の最善をつくし、自らの生を尊び、バトンを渡せば、足りる。
  政治とか社会制度は常に一時的なもの、他より良きものに置き換へられるべき進化の一段階であることを自覚さるべき性のもので、政治はたゞ欠陥を修繕訂正する実際の施策で足りる。政治は無限の訂正だ。
  その各々の訂正が常に時代の正義であればよろしいので、政治が正義であるために必要欠くべからざる根底の一事は、たゞ、各人の自由の確立といふことだけだ。
  自らのみの絶対を信じる政治は自由を裏切るものであり、進化に反逆するものだ。
  私は、革命、武力の手段を嫌ふ。革命に訴へても実現されねばならぬことは、たゞ一つ、自由の確立といふことだけ。
  私にとつて必要なのは、政治ではなく、先ず自ら自由人たれといふことであつた。
  然し、私が政治に就てかう考えたのは、このときが始めてゞではなく、私にとつて政治が問題になつたとき、かなり久しい以前から、かう考へてゐた筈であつた。だが、人の心は理論によつてのみ動くものではなかつた。矛盾撞着。私の共産主義への動揺は、あるいひは最も多く主義者の「勇気」ある踏切りに就てゞではなかつたかと思ふ。ヒロイズムは青年にとつて理智的にも盲目的のも蔑まれつゝ、あこがれられるものであつた。…(中略)…
  青春の動揺は、理論よりも、むしろ実際の勇気に就てヾはないかと思ふ。私には勇気がなかつた。自信がなかつた。前途に暗闇のみが、見えたのである。 (『教祖の文学』、草野書房、昭和23年、278-281頁)

  個人の自由を最上位に置く思想は、無政府主義(とくに大杉栄)の特徴である。大杉があれほどボルシェビズムに反対したのはそれが組織への個人の服従を絶対条件とするものであったからである。個人の自由を抑圧する権力は、体制内のものであれ体制外のものであれ、悪なのである。無政府主義が青年を魅了し、同時に、社会運動の指導原理としては無力であった理由がここにある。関東大震災(=大杉の死)以後、事情は変わった。国家権力の弾圧の下で、党員が党に服従することは、勇気ある行為として青年たちの目には映った。自分が勇気ある人間であることを他者に呈示することは、ゴフマンのトラマツルギーの用語を援用して言えば、青年期における「印象管理」の重要な課題であろう。安吾の文章はこのへんの心理を的確に伝えるものであり、清水とマルクス主義や共産党の関係を見ていく場合にも当てはまるものではないかと思う。ちなみに文中に登場する平野謙(文芸評論家)も清水と同年の生まれである。

|

2006年4月 7日 (金)

マイノリティーの楽しみ

  清水幾太郎の卒論は「オーギュスト・コントに於ける三段階の法則について-知識社会学的一研究-」というものである。
  コントが「社会学の父」と呼ばれていることは社会学専修の学生なら誰でも知っている(はずである、たぶん・・・・)。しかし、コントの書いたものを、邦訳であれ、読んだことのある学生はほとんどいないであろう。私にしたところで、学生時代に、中央公論社の『世界の名著』の第36巻「コント スペンサー」に収められている「社会再組織に必要な科学的作業のプラン」という短い論文を比較的丹念に(傍線を引いたり、余白に書き込みをしたりしながら)読んだ程度である。コントは、誰もが知っているが、誰にも読まれない社会学者である。
  こうした事情は清水が卒論を書いていた当時(昭和5年頃)も似たようなものであったらしい

  相手にするなら、思想的意味のある、しかけの大きい社会学者でなければいけない、大粒でなければいけない、という気持ちが働いていたように思う。その点で、コントは申し分なかった。
  また、コントぐらいの大物になれば、マルクスと並べても、そう見劣りはしないであろう、というより、コントはコントなりに、マルクスと似た問題を持っていたのではないか、と私は考えていた。また、社会学の創始者であるコントを研究すれば、社会学という学問の真実の気持とでもいうものがつかめるであろう。それをつかむのに
マルクス主義の方法が役に立つのなら、これを使おうではないか、
  こうした多少理屈に合った気持といっしょに、もう一つ、あまり理屈に合わぬ気持、すなわち、見渡したところ、誰もコントなど勉強してはいない、研究室にあるコントの著作には厚い塵が積もっている、私だけがコッソリとこの大物に手を着けるのだという、犯罪者が味わうような快感が私をそそのかしていたのである。(清水幾太郎『社会学入門』、カッパ・ブックス、pp.112-113)

  清水がコントの研究をしているときに覚えていた「快感」を、私も清水の研究をしているときに覚えることがある。たとえば、丸山真男の研究書はたくさんあるが、清水幾太郎を単独で扱った研究書はほとんどない。天野恵一『危機のイデオローグ-清水幾太郎批判』(批評社、1979)と小熊英二『清水幾太郎-ある戦後知識人の軌跡-』(神奈川大学評論ブックレット26、2003)の2冊だけである。これに間もなくミネルヴァ書房の日本評伝選の1冊として竹内洋『清水幾太郎』が加わる予定だが、それでもまだ3冊である。私の『清水幾太郎と彼らの時代』の刊行時期は未定だが、「5本の指に入る」可能性は高いであろう。マイノリティーであることの楽しみ。だから、学生が「清水幾太郎」を「シミズキタロウ」と発音しても、心穏やかに、「西田幾多郎と間違ってないかい?」と注意することができるのである。

 

|

2006年3月19日 (日)

「兄」の世代

 「彼ら」について考える場合、自分と同じ世代、「父」の世代、これらに加えて「兄」の世代というものが重要であるように思う。「兄」の世代とは、自分が歩もうとしている道の数歩先を歩いている人たち、人生の具体的モデルを提示してくれる人たちである。清水幾太郎は二冊目の自伝『私の心の遍歴』(1954年1月から55年12月まで『婦人公論』に連載)の中で「兄」について語っている。

 私は長男で、弟や妹というものは知っていますが、兄や姉というものは知りません。私は、幼い時から、無意識のうちに、兄というものを求めていたのでしょう。誰かを兄に見立てたかったのでしょう。しかし、親戚を見渡しても、それらしい人物はいません。中学では上級生はいますが、私の中学は医者志望の人間ばかりが集まる学校で、私の方は早くから社会学志望ときめていたのですから、ここも駄目です。高等学校では仲間の殆んどすべては官吏の卵で、こちらはもう社会学専攻の大学生のようなつもりで社会学の文献にかじりついているのですから、また、私の高等学校は新設の学校で、私たちが第一回の卒業生と来ているのですから、ここにも兄はいません。兄に見立てるような人間に初めて巡り合ったのは、大学へ行ってからです。専攻はみな社会学ときまっていますし、研究室には卒業生が助手や副手や大学院生という資格で来ています。ここには兄貴がいる。幼い時からの願いがようやく満たされることになりました。現在、東大で教育社会学を担当している牧野巽、東京教育大学で社会学を講じている岡田謙、私はこういう諸君の中に兄に似たものを発見しました。(著作集10、pp.406-407)

 この感覚は私にも理解できる(私も長男である)。現在、聖心女子大学教授の岩上真珠さんや早稲田大学人間科学部教授の池岡義孝さんは、私が大学院へ進んだときに出会った姉貴であり兄貴である。もし清水が研究室を飛び出さずに(追い出されずに)アカデミックな世界の住人であり続けたら、東大社会学研究室の先輩たちが「兄」の世代の中核となっていたはずである。しかし、そうはならなかった。

 どこまで自分が選んだのか判りませんが、私はアカデミックでない世界へ自分を押し出して行かねばなりませんでした。学問の好きな痩せた青年として東京の街頭に立った私には、それ以外に生活の道はありません。しかし、その生活の道がどこかで学問と結びついていないとしたら、人生は私にとって何の意味も持たないでしょう。アカデミックでない方面で、しかし、学問と関係のある仕事をする。それが望ましい理想であったか否かは別として、それを除いて、この地球上に自分を立たせる地点がないのです。同時に、この地点をつくづく眺める人間にとって、三木清を初めとする前記の人々〔羽仁五郎、谷川徹三、林達夫、三枝博音ー引用注〕が一般のインテリにとってとは全く別の意味を持って来るのは極めて当然のことでしょう。なぜなら、この人々は私が眺めている地点の近くに身を置いている人々なのですから、この人たちは私の先輩になりました。私の兄になりました。〔著作集10、pp.407-408〕

 アカデミックでない世界で、しかし、そこと結びついている場所とは、高級ジャーナリズムの世界、岩波文化の世界である。清水の卒業論文は、東大に非常勤で教えに来ていた法政大学教授の松本潤一郎が、同じ法政大学教授で岩波書店の雑誌『思想』の編集委員であった谷川徹三に口を利いてくれて、その一部が『思想』に掲載された。それを読んだ三木清は「是非、一度お目にかかって、いろいろお話を承りたいと思います」というハガキを清水にくれた。三枝博音は清水が『思想』のヘーゲル特集号に載せるヘーゲル研究文献の詳細な目録の作成を依頼されたときに、清水にたくさんの便宜を提供してくれた。林達夫も谷川と同じく『思想』の編集委員をしていた。羽仁五郎は、岩波書店の大番頭である小林勇が一時期経営していた鉄塔書院から出ていた左翼系雑誌『新興科学の旗の下に』の三木清と並ぶ中心メンバーであった。彼らは私立大学の教員であったから、アカデミックな世界と無縁というわけではなかったが、私立大学は帝国大学より数段低く見られていたから、彼らの名声はもっぱら高級ジャーナリズの世界でのものであった。清水は彼らを範として、体制の外部ないしはその周辺における学問的立身出世に人生の目標を切り替えたのである。

|

2006年3月14日 (火)

田山花袋

 雨声会のメンバー20人の中に田山花袋が入っていることは、現代の視点から見れば、当然と映るかもしれないが、彼が代表作『蒲団』を雑誌『新小説に』発表したのは1907年の9月、つまり雨声会よりも数ヶ月後である。彼は『蒲団』の作家、自然主義文学の開祖としてではなく、新人作家の登竜門であった投稿雑誌『文章世界』の編集主任で、国木田独歩や島崎藤村の盟友である人物としてリストアップされたのである。おそらく雨声会のメンバーに選ばれたということが、彼をして、内弟子の女性とのスキャンダルを赤裸々に(ありのままに=自然に)綴った小説『蒲団』を発表するにあたっての自信となったであろう。『蒲団』は私小説の嚆矢であるばかりでなく、百年の時を隔てて、ブログ日記の源流の一つともなっている。

 清水幾太郎にとって田山花袋が1908年に読売新聞に連載した小説『生』は大きな意味をもつ。「私の一生を決めた田山花袋著『生』」というエッセイを彼は書いている。清水は東大の社会学研究室の副手時代にこの小説を読んだことで、家族の社会学的研究(研究室の主任で清水の指導教授であった戸田貞三の専門)を断念したのである。その決断は、彼がもしかしたら東大教授という地位へと続いていたかも知れないポストを捨てて、ジャーナリズムの世界へ飛び込んでいくことの契機の一つであった。

 私の気が散っていたせいであろう、家族に関する文献は、何冊読んでも一向に面白くなかった。戸田先生は、家族を科学的に研究される反面、「夫婦や親子の感情的融合及び全人格的信頼」という風に家族というものをお考えになっていた。この点に触れる時、教壇の先生は、必ず眼を半ば閉じて、恍惚と呼びたいような表情になる。私たち学生は、「始まったぞ」と囁き合った。家族がそんな甘いものでないことは、学生たちも知っていた。

 欠伸をしながら家族文献を読んでいる途中、気晴らしのつもりで、田山花袋の『生』(明治四十一年)を岩波文庫版で読んだ。…(中略)…『生』は、明治末年の、早稲田付近の、田舎のような土地の家庭の話である。読み始めるや否や、私は、夫婦、姑、肉親……の間の、醜い、愚かな、悲しい関係の生々しい描写に吸い込まれて行った。

 『生』を読み終わると同時に、私は、読みかけていた家族研究の洋書を放り出した。「百巻ノ研究文献、一篇ノ小説ニ如カズ」とでもいうような見当違いの気持になった。家族の研究なんか御免だ。その勢いで、私は「赤い十年間」へ飛び込んで、身を社会学研究室に置きながら、社会学は現実の社会問題の解決に全く無力なブルジョア科学であるなどという文章を雑誌に書き始めた。昭和八年三月、戸田先生は、「君は研究室を辞め給え」と言われた。私は街頭の一青年になった。田山花袋の『生』は、学問とジャーナリズムとの間をウロウロする私の人生の出発点を作った。(著作集19、pp.57-58)

|