2006年5月28日 (日)

「村の図書室」

  清水幾太郎『人生案内』(1954年)は、「村の図書室」というシリーズの中の一冊である。「村の図書室」シリーズには他にどんな本があるかというと…

  浪江虔『村の政治』

  川田信一郎・渡辺成美『米の増産』

  御園喜博『市場-野菜・果物』

  若月俊一『健康な村』

  丸岡秀子『女の一生』

  蝋山芳郎『世界の動き』

  大谷省三『国土の改造』

  都留・大内・辻・福島『日本の進路』

  弘法健三・山崎不二夫『水田と畑』

  村の図書館あるいは公民館の図書室に置くに相応しいタイトルの本だけでなく、なぜ「村の図書室」なのかと思えるタイトルの本もある。身近な話題から日本の社会全体や世界の話題へ。当時の岩波書店の啓蒙的性格をよく表しているといえるのではないだろうか。

  ところで『人生案内』の「あとがき」に清水は次のようことを書いている。

  「人生案内」というのは、立派な題目です。私のように著述生活をして来たものにとって、こういう題目を与えられるのは、実に光栄であります。しかし、正直のところ、これは、また、恐ろしい題目、気のひける題目です。そうではありませんか。人生を正しく歩んで来たという自信のある人でこそ、他人に向って「人生案内」を書く資格があるのです。私のように、何度となくつまずいて来た人間、今でも深い迷いに襲われるような人間、そういう人間には、一寸、手が出ません。特に、農村の人たちに読んで貰うという狙いなのですから、私のような都会育ちの人間には、益々手が出なくなります。

  ところが、ぐずぐずせずに、早く書け、という声が方々から聞こえて来るのです。その声が次第に大きくなるのです。そこで、私は、勇気を出して、いろいろと農村関係の本を読み、また、村の話を聞いて、下準備を始めました。しかし、こうして、読んでみると、聞いてみると、私の気のせいでしょうか、貧弱ながら、私が人生について考えて来たこと、私が実地に経験して来たこと、それを地方の読者にお伝えすることも無意味ではないと思うようになったのです。それで、とうとう、気がひけるのを我慢して、「人生案内」という光栄ある題目で、一冊の本を書くことになってしまいました。内容は、ご覧の通りです。若し、この本が、少しでも、読者の人生にとってお役に立つなら、私として、こんな嬉しいことはありません。

  ここには『人生案内』の執筆を躊躇させた2つの要因があげられている。第一に、紆余曲折した人生を歩んで来きたこと。第二に、都会育ちで農村について知らないこと。前者の要因は、三冊目の自伝となる『わが人生の断片』の執筆依頼を雑誌『諸君!』の編集部から受けたときに、当時『諸君!』に自伝『時代と私』を連載していた哲学者の田中美知太郎を引き合いに出して、「田中美知太郎氏の時代と私の時代とは、或る程度重なり合っている。その重なり合った時代を、私は見苦しく右往左往しながら生きて来た。彼が静かに生きていたのに、私は騒がしく生きていたように思う。彼が強かったのに、私は弱かったように思う。私が何かを書けば、徒に恥を重ねるばかりではないか」と考えたときにも作用している。しかし、結局、清水は自伝の連載を引き受けたわけだし、売文業者の感覚から、静かな人生よりも右往左往する人生の自伝の方が読者にとって面白いにはずと考えたと思う。『人生案内』にしてみても、人生を迷いなく生きてきた人の話よりも、苦労人の話の方が説得力があると一般には思われており、清水にもそうした自負はあったはずである。要するに、「私のように、何度となくつまずいて来た人間、今でも深い迷いに襲われるような人間、そういう人間には、一寸、手が出ません」というのは一種の謙遜である。

  しかし、後者の要因、「私のような都会育ちの人間」が農村で生きる人々に「人生案内」を語ることの躊躇は大きかったであろう。ここで思い出すのは、鈴木広が「清水幾太郎私論」(1990)-清水を追悼して日本社会学会の機関誌『社会学評論』が企画した特集論文の一つ-の中で披露していた次のエピソードである。1978年1月、鈴木の熱心な依頼に応えて、清水が九州大学で集中講義を行ったときのことである。

  清水が九大に来られた際、十人ほどの社会科学者を召集して、懇談しつつ会食する機会を設けた。その中に故山本陽三もいた。清水は日中の講義で疲れており、まわりは知らない人ばかりで、寡黙であった。会も終わりに近い頃、山本は「先生の社会学の中では、ムラや農村は、どういう位置づけになるのでしょう」と質問した。それに対する清水の回答を、今も鮮明に記憶しているが、それは「農村について私は、実は全く知りません。ムラという言葉を聞くと、何か、まっ暗な穴がの中に、引きづり込まれるような、そんな気になります」というものであった。ムラや田舎に対する、このなじみのなさ、決定的な違和感は、生まれも育ちも暮らしも東京だけという清水には、不可避的なものであったと思う。…(中略)…庶民と「相共に新しい平面へ這い上がること」を念願していた清水ではあるが、その大衆社会論には、地域要因が全く欠落している。

  「農村について私は、実は全く知りません」という清水の言葉にはもちろん誇張が含まれている。実際、『人生案内』を書くために、清水は「いろいろと農村関係の本を読み、また、村の話を聞い」たりしたわけだし、米軍基地反対闘争の支援のために内灘村へは何度も行っているのである。しかし、結局、村の力学というか、村の人々の考えや行動の仕方について共感的に理解するまでには至らなかったということである。清水の思想を理解する上で「庶民」の概念はキーとなる概念の1つであるが、清水にとっての「庶民」のイメージの核にあるのは、中流以下の都市生活者であって、村の住人たちは「庶民」の周辺ないし外部に無意識のうちに排除されているのである。

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2006年5月20日 (土)

『人生案内』

  清水幾太郎には94冊の単著がある(編著や翻訳書を除く)。『清水幾太郎著作集』全19巻に収められているのはその一部に過ぎない。『社会学入門』(カッパブックス、1959)、『論文の書き方』(岩波新書、1959)、『本はどう読むか』(講談社現代新書、1972)といった広く読まれた本も著作集には収められていないのだ。だから著作集未収録の本については「日本の古本屋」などで調べてコツコツ収集していくほかはない。
  先日、『人生案内』(岩波書店、1954)という本が金沢文圃閣から出品されていたので3200円で購入した。清水の本の多くが総合雑誌等に寄稿した文章を集めて単行本化したものであるのに対し、この本は書き下ろしである。雑誌に発表した文章を集めた本であれば、その本が入手できなくとも、初出の雑誌からコピーすれば用は足りるのであるが(ただし単行本に収録する段階で改稿がなされることがあるので油断はできない)、書き下ろしの場合はともかくその本を入手しないと話にならないので、今回は収穫であった。
  『人生案内』の構成は以下の通り。

  Ⅰ 勇気について
  Ⅱ 一枚底について
  Ⅲ 現場について
  Ⅳ 仲間について
  Ⅴ 地方文化について
  Ⅵ 経験について
  Ⅶ 戦いについて
  あとがき

  「人生案内」というタイトルから連想する内容とは隔たりがある。清水には『女性のための人生論』(河出新書、1956)という本があって、これは『婦人公論』(1951年1月号~1953年12月号)に「家庭の話題から」というタイトルで連載された文章(文体は「です・ます」調で平易)をまとめたものであったが、『人生案内』もそれと同様、いわゆる「身の上相談」ではなく、「個人的な問題は社会的=政治的な問題であり、社会的=政治的な問題は個人的な問題である」という啓蒙的な視点から書かれた社会評論である。両方とも「人生」という本の内容とはいささかギャップのある言葉がタイトルに使われたのには、伊藤整の『女性に関する十二章』(中央公論社、1954)がもたらした当時の人生論ブームに便乗しようという出版社の思惑も働いていたのかもしれない。敗戦から10年、復興期から高度成長期への移りかわりの季節の中で、人々は人生と社会について思いをめぐらすゆとりを手に入れたのだろう。利己主義と利他主義が一瞬のバランスを得た稀有な時代だったといえるかもしれない。

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2006年3月29日 (水)

再度の自伝を書く理由

 二冊目の自伝『私の心の遍歴』が出版されたのは『私の読書と人生』の出版から6年3ヵ月後の1956年1月である。しかも、『私の心の遍歴』は書き下ろしではなく、『婦人公論』に1954年1月から翌年12月まで連載されたものを単行本にしたものだから、実質的には最初の自伝の出版からわずか4年3ヵ月後に2冊目の自伝の執筆に着手したことになる。自伝を2冊書くこと自体が普通のことではないが、その間隔が4年3ヵ月というのは尋常ではない。

 ここからすぐに予想されることは、『私の心の遍歴』は『私の読書と人生』の二番煎じ、焼き直しであろうということだが、それはおそらく、『私の心の遍歴』の連載を開始するにあたって清水が一番避けたかったことであろう。自分のことをしばしば「売文業者」と称していた職人気質の清水にとって、「同じものを二本書いた」と言われることは不名誉この上ないことである。もちろん一人の人間が二つの人生を生きてきたわけではないから、内容に重複が見られるのは当然である。しかし、『私の心の遍歴』には『私の読書と人生』とは別の側面から自分の人生を語ろうとする方針がはっきりと見てとれる。すなわち、『私の読書と人生』が学校経歴と職業経歴を軸として展開されていたのに対して、『私の心の遍歴』は家族経歴の記述にかなりの分量が割かれている。最初の自伝では十分に語られていなかった家族の物語(子供時代の暮らしぶり、妻との出会い、父親の死、娘の誕生など)が、2冊目の自伝では存分に語られている。

 清水が『私の心の遍歴』で家族の物語を語ったのは、第一に、『婦人公論』の読者を意識したためであろう。自伝の書き手はたんに自分が書きたいことを書くのではなく、読者が関心をもつであろうことを書くのである。これはライフストーリーのインタビュー調査の場合も同様で、聞き手がいくら「自由に語って下さい」と注文しても、語り手は自分の話に対する聞き手の反応に敏感である。もちろんこのことは清水が心ならずも私生活を語ったということではない。第二に、むしろ清水は家族の物語を語りたかったのであろう。『婦人公論』から注文があったから家族のことを語ったというよりも、家族のことを語りたかったから『婦人公論』の注文に応じたと考えるべきだろう。いずれにしろ2冊の自伝は相互補完的な関係、双生児的な関係にあり、両者を併せて、出生から30歳代の終わり(終戦直前)までの1冊の自伝と見ることができる。

 『清水幾太郎著作集』の編集責任者、清水礼子は『私の心の遍歴』の装幀についてこう語っている。

 一七・一センチメートル、一〇・六センチメートルという大きさは、分類を施せば新書版に入る。しかし、他の新書に比べると縦が二ミリメートル短く、横が六ミリメートル広いためか、安定感のある本である。少し和紙に似た紙を使い、天に化粧裁ちを施さず、角に微かな丸みを与えていることも、穏やかな落ち着きを生み出しているのかもしれない。表紙は恩知孝四郎、カヴァーは大和春穂のデザイン。カヴァーは、象牙色の地に柔らかな中間色を用いて、表側に一三、袖の部分に三つ、合計一六のカット風の小さな絵を配している。ISというイニシアルの読める太い古風な万年筆、紐の付いたインク瓶、編上げのドタ靴、角帽、銀杏の葉、鉄砲、木製のベンチ、裸電球の下に並んだ本、市電、土手の土筆・・・・・・。黒い華奢な明朝体で刷られたタイトルの中で「心」という文字だけが原色の赤で浮かぶ。『私の心の遍歴』の内部に一度深く潜った末でなければ生まれるデザインであり、著者の作品を包んだ夥しいカヴァーのうちで、最も優しい温かい雰囲気を持つものである。(著作集10、解題、p.450)

 私は古本屋で『私の心の遍歴』を探しているが、いまだ見つかっていない。三刷まで出た本なので、とくに初版本でないとならないということはない。ただし、カヴァーが付いていないものは駄目である。

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2006年3月28日 (火)

自伝を書く理由

 清水幾太郎の最初の自伝『私の読書と人生』(要書房、1949年)は、そのタイトルからわかる通り、自身の読書遍歴を語るという体裁をとっている。清水は「序」で次のように述べている。

 読者は三木清の「読書遍歴」といふ文章を知つているであらう。私は本書を書き綴る時、何時もこの文章が念頭にあつた。あの文章は、三木清が、正に読むべき書物を、選ばれた時期に、而も正しい方法を以て読んだことを告げてゐる。だが、私の場合は、手当たり次第の書物を、時を選ばずに、而も専ら焦燥を方法として読んで来たに過ぎぬ。(著作集6、p.362)

 三木清は戦前・戦中の論壇のスターであった。清水は三木(のような知識人)に憧れ、三木のような文章を書きたいと願った。実際、『社会と個人-社会学成立史-』(刀江書院、1935)の文体には三木の文体の模倣の跡が見られる。戦後、三木のいなくなった論壇で、清水は三木の後継者と目されていた。清水は『私の読書と人生』を綴りながら、自分を三木に重ね、かつ二人の気質の違い(三木の古典主義的=自己確認的読書遍歴と、清水のロマン主義的=自己形成的読書遍歴)を意識していた。

 『私の読書と人生』が出版されたとき、清水は42歳だった。42歳という年齢は、社会通念上、自伝の執筆年齢としては少々早い感じがする。事実、「まだ若いくせに、こんな本を書くのは老成ぶった気取りである」というようなことを周囲から言われたそうである。

 あれは今から考えても、かなり不愉快なことでした。確かに、老人になってから自伝的なものを書くというのが一般の慣習でしょう。しかし、私は信じているのですが、自伝的なものを書くことは、年齢とはあまり関係の仕事だと思うのです。(『私の文章作法』中公文庫、pp.182-183)

 私は清水の最初の自伝が「年齢とはあまり関係のない仕事」だったとは必ずしも思わない。「自伝を書くのは老人になってから」という通念は、老年という時期を自分の人生に想定できない者、すなわち自分を短命な人間と考えている者には有効なものではない。清水は病弱な子供時代を送り、「この子は育つまい」と親類の者から言われ続け、長じてからも親しい医者から「君は30歳までは生きないだろう」と言われていた。この病弱な体質は遺伝的なものだったようで、清水の父親は49歳で亡くなったが、それでも4人兄弟のうちでは一番長命であった。また、清水は長男だが、次男は1歳で亡くなり、三男は29歳で亡くなっている。「30歳までは生きないだろう」という医者の予言と、父親が49歳で死んだという事実から、42歳という年齢は清水にとって十分に「老年」であったはずである。その意味では「自伝を書くのは老人になってから」という通念は、清水にとっても有効であったといえるかもしれない。

 とはいえ、ここでは自伝を書くことが「年齢とはあまり関係のない仕事」だったとする清水自身の解釈に従うことにしよう。では、一体何と関係があったのだろうか。

 どうして私は『私の読書と人生』を書く気になったのでしょうか。それを聞かれても、当時は、答えようがなかったと思います。答えは、それから何年か経って判ってきました。後から振返って気がついたのですが、あれを書いた昭和二十四年という年は、第一に、或る偶然の事情かで、私がジャーナリストの長い生活から、なろうと思ってもいなかった大学の教師の生活へ飛び込んだ年です。第二に、これも偶然の事情で、無責任な売文業者から、柄にもなく、平和を目指す政治運動に飛び込んだ年です。大学教授の方は、それから昭和四十四年まで二十年間、政治運動の方は、昭和三十五年の安保闘争の直後まで十三年間ばかり続きました。世間の人たちから見れば、どれも大したことではなかったでしょう。しかし、私自身にしてみますと、あの年、無意識ながら、或る新しい地点に立ったという気持ちであったに違いありません。そして、この新しい視点から自分の過去を眺めてみようという気分になったのでしょう。(前掲書、pp.184-185)

 自伝が人生の転換期に書かれるというのは、ちょうど時代の転換期に歴史への関心が高まるのと事情が似ている。自伝の効用という表現を用いるならば、それは単に過ぎ去った過去を懐かしむということではなくて、人生の転換点に立って、自分がこれまで歩いてきた人生を再認識する作業を通して、これから歩いていこうとする人生の方向を確認するということである。その意味で、ライフストーリーはライフプランニングと表裏一体である。

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