2007年1月 2日 (火)

最終講義

 1969年1月18日午後1時半、学習院大学の中央教室(俗称ピラミッド教室)で、学生、卒業生、一般人合わせて約800名の聴衆を相手に、清水幾太郎の最終講義が始まった。講義のテーマは「オーギュスト・コント」。かつて東京帝国大学の社会学科の学生だった清水が卒業論文で扱った「社会学の父」である。

 同じ頃、学習院大学のある目白からは目と鼻の先の東京大学本郷キャンパスでは、安田講堂に立て籠もる全学共闘会議派の学生と警視庁の機動隊との間で激しい攻防戦が展開されていた。1年前の医学部研修医問題に端を発した東大紛争がついに終結のときを迎えようとしていたのだ。

 清水は、自分がコントに惹かれたのは、コントの学説そのものよりもコントの生き方、官僚然とした東京帝国大学の教員たちとは対照的なコントの自由な生き方と考え方に惹かれたためであると述べた後で、こう付け加えた。

私は、最近の東大のことは知りません。加藤代行以下の諸君が何を考えているのか、私は知らないし、あまり興味もない。興味もないが、私がかつて味わった東京帝国大学の非人間的な冷たさと狭さとがどこかに残っているということが、恐らく、反日共系の諸君の行動の一部であろうと考えます。(拍手)(「最終講義」、 1969、著作集11巻、268頁

 清水が最終講義の中で東大紛争に言及した部分はこれだけだったが、数ヶ月後、『諸君』1969年7月号(創刊号)に掲載されたインタビュー「戦後史をどう見るか」の中で、清水は学生の実力行使に一定のプラスの評価を与える発言をしている。

 私たちは、もう、一遍、「もはや戦後ではない」という言葉を思い出す必要がある。敗戦直後には、平和や民主主義という言葉の上に、戦前および戦中の民族的経験の大きな影が射していた。あの窮乏、不安、抑圧からの救済への欲望が、これらの言葉を包んでいた。平和も民主主義も、敗戦という犠牲を払って辛くも手に入れたもの…そういう空気が六〇年安保を燃え立たせもしたし、また、それを民主主義の枠に閉じこめもしたのです。それは貴重なものだったのです。しかし、七〇年となると、もう、どこにも、戦前や戦中と連続する戦後は生きていません。平和にしろ、民主主義にしろ、現在の学生が生まれる以前からあったもので、彼らにとって、それは貴重なものであるよりは、平凡なもの、陳腐なものに過ぎません。それは当たり前のことです。この当たり前のことから生まれた一つの成果は、学生たちの暴力によって初めて大学が多少の改革へ動き出したということではないでしょうか。(「戦後史をどう見るか」、1969、著作集17巻、300-301頁

六〇年安保闘争において、国民ひとりひとりによる請願というソフトな方法からデモ隊の国会乱入というハードな方法まで、一貫して直接行動を提唱し、あるいは支持した清水らしい発言である。

ところで、学習院大学の教員の定年は70歳であるが、当時、清水は61歳6ヵ月、定年まではあと9年を残しての退職であった。その理由についてマスコミはあれこれ詮索したが、最終講義の終わり近くで清水が語った理由は次のようなものである。

私は、講義を一生懸命にやるたちであります。ところが、一生懸命にやっても、最近は、どうも、後味が悪いのです。もう少し立派な講義が出来る筈だという気持が残るのであります。今日の最終講義もソロソロ終わるのですが、やはり、後味がよくありません。そういう状態で講義を続けることは、私自身の精神衛生にとっても良くありませんし、諸君にとっても良いことではありません。この辺でわが家の古い書斎へ戻ろうと思うのであります。家庭には、カロリーヌ・マッサンでもなく、クロディル・ド・ヴォーでもなく、清水慶子がおります。(拍手、笑声)(「最終講義」、著作集11巻、292-293頁

 コントの妻と愛人の名前の後に評論家としも知られる自分の妻の名前をあげて聴衆の拍手と笑いを誘ってはいるが、実は、清水がここで述べていることは、聴衆の多くを占める学生にとっては耳の痛い話なのである。一生懸命に講義をしても「最近は、どうも、後味が悪いのです」ということの意味は、要するに、学生の質が低下してきたということである。学生本人を前にして、しかも最終講義の中で、そういう直截な表現はとれないから、遠回しな表現をしているが、言わんとしていることはそういうことである。

 もっと後になって、別の場所で、清水は学習院大学の退職の理由について直截な表現で次のように語っている。

外部の方には想像もされないでしょうが、大抵の大学では、いざ、学年試験を行うとなりますと、平常の三倍も四倍もの教室を用意する必要が生じるものなのです。つまり、平常は、学生の大部分は登校せずに、喫茶店、マージャン屋、パチンコ屋、ボウリング場など、他のレジャー施設を利用していて、試験の時だけ、大半は先生の顔も知らないまま、大学というレジャー施設へ現れて来るのです。また、大学側もそれを前提して、学生の一部分を収容する教室しか用意していないのです。毎日、全員が真面目に登校するようになったら、大学は忽ち破産してしまうでしょう。双方馴れ合いでレジャー施設になっているのです。…(中略)…昭和四十四年春、まだ定年には九年あったのですが、私は学習院大学を退職しました。退職の理由は沢山ありましたが、その一つは、「私はレジャー業者ではない」という小さな誇りでした。(「戦後の教育について」1974、著作集17巻、69-70頁

 ここで語られていることは、大学の大衆化という現象である。清水が平和問題談話会の議長である安倍能成に請われて学習院大学の教授になったのは1949年4月であるから、清水は戦後の新制大学の変遷をその発足時から現場でずっと見てきたわけである。統計資料によれば、1949年度の全国の4年制大学の学部生の数は123,987人(男子116,340人、女子7,647人)で、1968年度のそれは1,211,068人(男子991,126人、女子219,942人)である。つまり20年間でちょうど10倍(男子8.5倍、女子29倍)になったのである。これで学生の質が低下しなかったらおかしいだろう。

 清水は身近に接する学生の質の変化という観点から、自分の大学教師としての20年間を3つの時期に分けている(「戦後の教育について」)。

第一期は、まだ敗戦後の窮乏や混乱が明らかな時期(1950年代前半)。

第二期は、経済の成長や政治の安定が始まった時期(1950年代後半)。

第三期は、高度成長に入ってから(1960年代)。

大学の大衆化が急速に進んだのは第三期である。この時期は、清水の人生においは、安保闘争の敗北を機に彼が活動の中心を平和運動から研究生活にシフトした後の時期である。研究者として生きることは、10数年に渡って続いた平和運動の期間中、清水がずっと望んでいたことであった。それだけに学問の府であるべき大学のレジャー施設化は清水には耐え難いことであったろう。大学紛争に参加している学生に対してはシンパシーを示した清水だが、学生一般への評価はきわめて辛かったのである。そして大衆化した大学の学生一般への評価は、それを含むところの大衆一般への評価でもあった。

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