2006年8月19日 (土)

『諸君』創刊

 『諸君』創刊号(1969年7月)-古本屋で入手-に掲載の清水幾太郎「戦後史をどう見るか」(インタビュー)と福田恆存「利己心のすすめ」を読む。二人の因縁(ここでその因縁について説明する余裕はないが)を考えると感慨深いものがある。戦後四半世紀が経過した時点で文藝春秋がオピニオン雑誌『諸君』(当初は『諸君!』ではなかった)を創刊したのは、戦後民主主義教育の申し子である大学生たちの反乱(大学紛争)をひとつの契機として、「戦後」を批判的に振り返ろうという空気が生まれたからであろう。編集長の池島信平は「創刊にあたって」の中でこう述べている。

  わたくしたちは新聞を毎朝読み、テレビのダイヤルを毎晩廻してみるのですが、いまの世の中のゆがんだ姿が、そこにまざまざと浮かびあがってきます。こんな筈ではなかった-という想いは、心あるみなさんの胸の中をしめつけることと思います。わたくしたちとて同じです。
  世の中どこか間違っている-事あるごとに感じるいまの世相で、その間違っているところを、自由に読者と一緒に考え、納得していこうというのが、新雑誌「諸君」発行の目的です。

  文中の「わたくしたち」とは誰のことであろうか。雑誌の作り手たちのことであろうか。あるいは雑誌の作り手と読者の双方を含むのであろうか。いや、「こころあるみなさん」とは読者のことであろうから、「わたくしたち」はやはり雑誌の作り手たちのことか。なんでこんなことにこだわるのかというと、『諸君』創刊号の巻頭の「オピニオン」欄で論者の一人である筑波常治が皮肉にもこんなことを書いていたからである。

  この機会にひとつ、提案したちことがある。だれでもやる気にさえなれば、かならず実行できるはずのことを。それは日本人の会話から「われわれ」ということばを追放することだ。「われわれ」ということばを絶対に使わないで、しゃべる習慣を身につけることである。それを提案したい。
  「われわれ」はいうまでもなく、一人称複数をあらわす言語である。「われわれ」というひときわもったいぶった第一人称複数は、こんりんざい口が避けてもいわぬようにし、かわりにどんな場合でも、わたくし、わたし、わし、ぼく、おれ、それがし、拙者、小生、手前…など一人称単数でものをいうことをこころがけるようにしたい。なぜこんな提案をするのかといえば、自分の言動にたいし、あくまでも自分個人で責任をおう、いや責任をおえることでなければ発言しないという、その習慣を身につけるためである。
  「われわれはー」と絶叫するとき、その人間は無自覚にせよ、つぎのような行為を演じている。まず当人のほかにも、同意見の者がいく人もいること。つまり「いましゃべっていることは、自分だけでなく、ほかにも同じ考えの者がいるのだぞ」ということを宣伝している。その宣伝は同時に、「これは大ぜいの者が信じているのだから、したがってただしいのだ」とするあしき意味での多数決の偏重につうじるものである。…(中略)…多数のゴリ押しでいいぶんをとおそうとする態度が、「われわれ」という一人称の絶叫には含まれている。

  筑波常治は当時、法政大学講師(生物学史)であったから、キャンパスで「われわれはー」という拡声器の声を連日耳にしていたのであろう。「われわれはー」は党派的一人称複数である。私も、1973年4月に早稲田大学に入学して、この「われわれはー」を連日耳にするようになった。その独特の抑揚で語られる言葉はとても当人が自分の頭で考えたものとは思えなかった。拡声器のマイクに向かって話している彼自身が拡声器の一部と化して、組織の言葉が録音されたエンドレステープを再生しているように見えた。『諸君』の編集長が「創刊にあたって」の中で「わたしたち」という一人称複数を使用したことは、はしなくも、このオピニオン雑誌が多様なオピニオンではなく一定の傾向を持ったオピニオンを今後掲載していくことを予告するものであった。そして、事実、そのようになっていった。

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2006年3月31日 (金)

三度自伝を書く理由

 『私の心の遍歴』の出版から20年後の1975年、清水67歳のとき、三冊目の自伝『わが人生の断片』(全2巻、文藝春秋)が出版された。書き下ろしではなく、雑誌『諸君!』の1973年7月号から1975年7月号まで25回に渡って連載されたものを単行本化したものである。400字詰原稿用紙換算で1200枚を越える分量は、清水の著作の中で最大のものである。『わが人生の断片』はこんな風に始まる。

 昭和十六年十二月の或る日、私たち数人の忘年会が、夕方から本郷の湯島の鳥屋で開かれた。数人の中には、三木清および中島健蔵が含まれていた。豊島与志雄も加わっていたような気がする。忘年会といっても、一向に気勢の揚がらぬ会であった。英米を敵とする戦争は、その日から二週間ばかり前に始まっていた。(著作集12、p.11)

 自伝の常道に反して『わが人生の断片』は人生の途中(34歳)から話が始まっている。この点について清水は同書の「あとがき」で次のように述べている。

 あれは何年頃であったろうか。編輯部から自伝の連載を依頼された時、私は引き受ける気持ちが全くなかった。…(中略)…私は自伝の執筆を断った。しかし、断った後も、編輯者は何度となく慎重且つ執拗に執筆を勧めた。何度となく勧められているうちに、仮に私が書くとしたら、何処で生まれて、如何なる学校に通って、という調子の通史(?)ではなく、幾つかのトピックスを中心に書くほかはない、と私は考えるようになった。売文業者の癖で、多少とも読者にとって-或いは、私自身にとって-興味のありそうなことだけを書こうという謂わばサービス精神のようなものが頭を擡げて来たのである。それと同時に、仮に書くとしたら、最初に取り上げるトピックは、私の出生などではなく、戦争中の経験でなければいけない、と私は思った。理由はなかった。ただ駄々っ子のように、そう私は思った。思っただけならよかったのだが、それをウッカリ口に出し、「勿論、それで結構です」と編輯者が答えたところから自伝の連載が始まることになった。(著作集、pp.496-497)

 出生からではなく、戦争中の経験から書き始めることに「理由はなかった」というのはもちろんレトリックである。「何処で生まれて、如何なる学校に通って、という調子の通史」をすでに清水は2冊書いているのだ。屋上屋を架すべからず。3冊目の自伝は前の2「冊の自伝との重複を避け、前の2冊の自伝の終わりの部分に相当する戦争中の話から書き始めようと考えたのは、「売文業者」としてはむしろ自然な発想であったろう。開戦の年から始まった物語は敗戦の翌年まで続き(第1部)、そこで一旦中断し、出生から開戦までの物語が挿入され(第2部)、その後で、敗戦の翌年からの物語が再開して1960年の安保闘争の敗北の直後で終わる(第3部)。『わが人生の断片』はこういうちょっと変わった構成になっている。

 第2部、すなわち前の2冊の自伝ですでに語られている時期に関して、『わが人生の断片』で初めて語られるエピソードというものは非常に少ない。前の2冊の自伝の読者にとっては「お馴染みの話」が続く。だから、これも一種のサービス精神の現れと見るべきであろうか、『わが人生の断片』には記憶の細部にこだわる傾向が見られる。たとえば、東京高等学校に願書を出しに行ったときの記述はこうなっている。

 東京高等学校は、鉄筋コンクリート三階建、東京府下の中野にあった。近くには武蔵野の雑木林や田圃があった。大正十四年に入ってからの或る日、私は、宮地敬三という同級生を誘って、一緒に願書を出しに行った。広い校庭を囲む土堤に雪が残っていた。その雪の中へ、私は「エアシップ」の吸殻を捨てた。煙草は一年ばかり前から吸っていた。(著作集14、p.1961)

『私の読書と人生』にはこの日の記述はない。「大正十四年に東京高等学校に入学した」とあるだけである。『私の心の遍歴』には記述があるが、「願書を出しに行ってみると、予想通り、志願者は非常に少数でした。私は、ひとり、ホクホクしていました」という調子のものである。雪の中に「エアシップ」を捨てたというのは、生活史的事実としてはさして重要ではない。しかし、文学的には-「私小説的には」というべきか-印象的な情景であり、文章に生気を与えている。一緒に願書を出しに行った同級生の名前をわざわざフルネームで記している点にも細部へのこだわり、リアリティへのこだわりが感じられる(以前の記事で「易者」をめぐるエピソードの記述の異同の問題を取り上げて、3冊目の自伝の記述が事実なのであろうと結論付けた理由がここにある)。

 細部へのこだわりの他に、もう1つ、『わが人生の断片』の特徴として、アクチュアルな問題への言及ということがある。清水は個人的なエピソードを語りながら、戦後の日本社会の諸問題(それらはやがて評論集『戦後を疑う』において正面から取り上げられることになる)にしばしば言及する。たとえば、中学時代のドイツ語の授業でドイツ語のアルファベットもまだろくに覚えないうちから動詞の主要変化形(アーベルボー)を毎時間合唱させられ、生徒たちはそれを体で覚えたというエピソードが紹介された後で、清水はあまりに民主主義的なりすぎた戦後の教育の批判を始める。

 ドイツ語だけの話ではない。どんな教育でも、或る段階においては、また、或る側面においては、必ずアーベルボーの合唱や暗記のようなところがなければならない。理屈抜きの、有無を言わせぬところがなければならない。それがないと、教育というものの底が抜けてしまう。…(中略)…個性とか創造性とかいうのは、肝腎の伝達が確実に行われた後のことで、子供の個性を口実にして肝腎の伝達を怠ったら、それはもう教育とは別のものになってしまう。人間の教育は、或る段階および或る側面において、必ず犬の調教と同じようなところがある。もし人間が犬よりも大切な動物であるならば、人間の教育は、犬の場合よりも徹底的に行われねばならぬ。正しく調教されていない犬は、飼主にとって不幸であり、近所の人にとっても不幸であるが、とりわけ、犬自身にとって不幸である。同じことは人間についても言える。数年前に学習院大学を退いてから、私は、国電の車内でしか学生を見ていないが、座席に浅く腰かえて、寝そべったような姿で漫画本を読んでいる彼らは、調教されなかった犬のように思われる。(著作集14、pp.152-153)

 このように『わが人生の断片』には自伝の形式を借りた社会批評という趣がある。こうしたスタイルの背景には「清水研究室談話会」の存在がある。清水は1969年3月(62歳)に学習院大学を退職し、新宿区大京町のマンション(一階は野口英世記念館になっている)の一室に清水研究室を開設したが、そこで月に一度「談話会」がもたれるようになったのは、研究室開設半年後のことである。「談話会」は清水の孤独を癒す社交の場であると同時に、彼が再び論壇の表舞台に復帰するための下稽古の場所となった。

 1973年9月から翌年6月までの「談話会」は「戦後教育批判シリーズ」と呼ばれている。シリーズの最終回の報告者となった清水は「戦後教育の崩壊について」という刺激的なタイトルで話をした。この話は『中央公論』1974年11月号に「戦後の教育について」という穏やかなタイトルで掲載され、大きな反響を呼んだ。先ほど引用したアーベルボーの話は『諸君!』1974年3月号に掲載された分からのものである。すわなち「談話会」で「戦後教育批判シリーズ」が展開されている最中、しかも清水が「戦後教育の崩壊」について話す数ヶ月前に書かれた原稿である。自伝の執筆時の状況が自伝の内容に反映することの顕著な例といえよう。

 「戦後の教育」についての大きな反響のかなりの部分は、文章の内容それ自体よりも、それを書いたのがかつての進歩的文化人の代表的存在であった清水幾太郎であったことに由来する。自伝というものは人生の転換点に書かれるべきものであるというのが清水の持論であるが、『わが人生の断片』は確かにその実践であったわけである。

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2006年3月30日 (木)

4年3ヵ月の影響

 『私の読書と人生』と『私の心の遍歴』が相互補完的、双生児的な関係にあり、2冊で1冊の自伝と考えられるものであることは昨日述べた。しかし、2冊の自伝を隔てる数年の歳月は、2冊目の自伝の内容に微妙な影響を与えることになった。

 『私の心の遍歴』に「あこがれの避暑」という章がある。そこには小学校3年のときに経験した福島県横向温泉での出来事が詳しく書かれている。身体によいからと知り合いの医者の一家に誘われて、9歳の清水は親元を離れて一夏を山奥の温泉宿で過ごすことになった。両親は心配したが、清水は温泉宿での避暑というものにわくわくしていた。しかし期待は見事に裏切られた。

 宿について、いろいろな事情が判って来るにつれて、私は自分の立場がないことに気がつきました。この宿にいる人間は、滞在客か、医者の家族か、その使用人か、この三種類なのです。私だけはそのどれにも入らないのです。私は、宿料を払うお客ではありません。むしろ、朝と午後、お客の部屋へ、お茶と梅干しとを運ぶのが、いつの間にか、私の仕事になっていました。私はお客ではありません。また、私は医者の家族と同行しては来たものの、勿論、この家族の一員ではありません。…(中略)…そして、私は使用人でもないのです。使用人は私に向かってゾンザイな言葉を使いはしますが、自分たちの仲間とも見ていないようです。私は、一体、何者なのでしょうか。私はどこにいても邪魔なような気がしてきました。(著作集、pp.280-281)

 さらに悪いことに、横向温泉の気温は東京に比べて大変低かったために、清水は風邪を引いてしまい、百日咳のような深い咳が絶えず出るようになった。清水は、ただただ心細くて、東京に帰ることばかり考えていた。結局、2週間あまりが経過した頃に、息子の境遇を人づてに知った父親が迎えに来てくれたおかげで、清水はようやく東京に帰ることができた。この体験は清水にとってのトラウマとなった。

 他人の目から見れば、これは誠に小さな事件です。けれども、九歳の私にとっては、実に大きな事件でした。これは、後に関東大震災に遭ったり、徴用員としてビルマへ連れて行かれたりしたのに劣らぬ大事件でした。この大事件のために、私は一層臆病になってしまったようです。ウカウカと見知らぬ世界へ踏み込んだら、どういうことになるか、それを身にしみて感じたのでしょう。とにかくすっかり臆病になりました。…(中略)…無事東京へ帰りはしたのですが、どうしても、それが夢のように思われてならないのです。まだ、横向温泉の玄関脇の一室に寝ているのではないか。それが恐ろしくて堪りませんでした。父にも母にも黙っていましたが、毎朝の恐怖は、三年間ばかり、つまり、小学校を卒業するまで続きました。今でも、時々、横向温泉の夢を見ます。(著作集10、pp.283-284)

 不思議なのは、「関東大震災に遭ったり、徴用員としてビルマへ連れて行かれたりしたのに劣らぬ大事件」とあるが、震災や徴用の話が3冊の自伝全部で取り上げられているのに対し、この横向温泉の一件は『私の心の遍歴』にしか出てこないことだ。これはなぜだろうか。震災や戦争が清水個人にとってのみならず日本の社会全体にとっても大事件であるのに対して、横向温泉の一件はあまりに個人的な事件であるためだろうか。そういうこともあるかもしれない。しかし、それだけでは説明にならない。そもそも自伝とは個人的な出来事を書くものであるし、横向温泉の一件があまりに個人的な出来事であるために他の2冊の自伝では語られなかったとするなら、なぜ『私の心の遍歴』ではそれがあえて語られているのかが逆に問われなければならないだろう。

 私の仮説はこうである。横向温泉の一件が『私の心の遍歴』で大きく取り上げられたのは、「ウカウカと見知らぬ世界へ踏み込んだら、どういうことになるか、それを身にしみて感じた」経験が『私の心の遍歴』を執筆していたときの清水にもあったのではないか。それが最初の自伝では封印されていたトラウマチックなエピソードと共鳴し、その封印が解かれたのではないか。『私の心の遍歴』執筆時に清水が深くかかわっていた平和運動には、活動の華々しさの裏側に、横向温泉の一件を連想させるような負の側面があったのではないか。清水の3冊目の自伝『わが人生の断片』の中に次のような記述がある。

 私は再び孤独になり悲壮になって行った。昭和二十五年の秋、平和問題談話会が事実上の解散を行い、私は、自分だけがポツンと取り残されたように感じ、孤独になり悲壮になっていたが、その私に声をかけてくれたのは、総評および左派社会党であった。私は俄に見方を得たように思い、先方は、「小さな人気者」としての私に利用価値を見出していたのであろう。しかし、何回か内灘村へ通っているうちに、腑に落ちないことが次第に殖えてきた。けれども、平和問題談話会の場合は、仲間が同じようなインテリで、みな政治の素人であったが、今度は、周囲にいるのは政治の玄人ばかりで、私だけが素人である。何事につけても、私は、自分の経験の狭さということを先ず考え、政党は、私などの知らぬ沢山の仕事を抱え込んでいるのであろう、手が廻らないのであろう、と考えてきた。しかし、いくら謙虚な態度を取ったつもりでも、腑に落ちない問題が残ってしまう。平和問題談話会によって宣言された、軍事基地絶対反対という道を真直ぐに歩いていこうとすると、それを三原則の一つに掲げた左派社会党の人々からも離れてしまうのではないか。二年ばかり前の孤独で悲壮な気持ちが再び戻ってきた。(著作集14、p.368)

 清水の人生は、本来は非党派的な人間が、さまざまな党派の間を遍歴した人生である。だから清水はいつもそのとき属している党派と自分との距離に敏感であった。「仲間外れ」や「孤独」ということに敏感であった。清水は『中央公論』1954年1月号に「わが愛する社会党左派について」を書き、左派社会党の運動方針を批判し、批判された左派社会党は『中央公論』2月号に「清水幾太郎氏の愛情にこたえて」を載せて清水を反駁した。「あこがれの避暑」の章が『婦人公論』1954年5月号に掲載されたのは、清水と左派社会党との間でこうした応酬が行われた直後のことであった。

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