2006年4月 5日 (水)

『日本近現代人名辞典』

  「吉田松陰・坂本竜馬から渥美清・小泉純一郎まで。重要人物4500人を収録。初の本格的〈近現代人名辞典〉誕生!」と帯に書かれた吉川弘文館『日本近現代人名辞典』が刊行されたのは2001年7月のことだった。定価2万円。早稲田大学生協文学部店の歴史コーナーでそれを見つけた私が最初にしたことは、もちろん、「清水幾太郎」が載っているかどうかの確認である。はい、ちゃんと載っていました。

 しみずいくたろう 清水幾太郎 一九〇七-八八 昭和時代の社会学者、ジャーナリスト、思想家。明治四十年(一九〇七)七月九日、東京市日本橋区薬研堀町(東京都中央区)に生まれる。昭和六年(一九三一)東京帝国大学文学部社会学科卒業。東大副手を経て、十四年東京朝日新聞社学芸部嘱託(コラム「槍騎兵」で時評を担当)、十六年読売新聞社論説委員。第二次世界大戦後の二十一年、二十世紀研究所を設立してその所長となり、戦後日本の民主化に対処する知識人集団を組織した。二十四-四十四年学習院大学教授。昭和八年の『社会学批判序説』から六十一年の『私の社会学者たち』に至るまで、常に日本の社会学者として学会のトップランナーであり、実証研究の分野での有賀喜左衛門、経済社会学の視点から独自の社会学理論を構築した高田保馬とともに、きわめて大きな影響力を発揮した。前期の清水社会学は敗戦前のそれであり、自然法と有機体説の対立のうちに社会学の成立を見るものだった。中期は、敗戦から六〇年安保闘争の直後までの戦後日本の民主化・産業化に即応し、アメリカ社会学・社会心理学の成果を積極的に吸収した時期で、代表作『社会学講義』(昭和二十五年)と『社会心理学』(二十六年)によって特徴づけられる。後期の清水社会学は、産業化から情報化・管理化へと推転していく日本社会のなかで、マス(大衆)としての近代的個人という逆説への深いペシミズムとその反動としての民族・国家・伝統への回帰を基調とする。清水の社会学は人間的自然の社会学であり、これら三期の展開は、日本人であるわれわれ自身の人間的自然の諸力と諸可能性の実践的検証とのつきあわせを要請している。昭和六十三年八月十日没。八十一歳。墓は東京都八王子市の高尾霊園にある。『清水幾太郎著作集』全十九巻(講談社)が刊行されている。(田中義久)

  『岩波日本史辞典』は活動中心の記述だったが、『近現代人名辞典』の場合は、記述の分量が多い(約2倍)こともあって、清水の思想(清水社会学)の特徴にまで話が及んでいる。「マス(大衆)としての近代的個人という逆説への深いペシミズムとその反動としての民族・国家・伝統への回帰を基調とする」という指摘は的確である。ただし、「常に日本の社会学者として学会のトップランナーであり」云々の部分は、持ち上げ過ぎという印象を受ける。清水は中学生のときに社会学者を志し、高校入学と同時に設立間もない日本社会学会の会員になったが、1971年(学習院大学退職の2年後)、学会を退会している。

  一昨年の夏、私は日本社会学会を退会した。何か特別の事情があったわけではなく、機関誌『社会学評論』を読んでも面白くないし、稀に年次大会へ出席しても面白くないという経験を重ねた末、会員であることが惰性のように思われ、惰性で生きるのは恥ずかしいと気がついたためであった。(清水幾太郎「戸田貞三先生のこと」『思想』1973年5月号)

  清水は学会という同業者のコミュニティーの中で業績をあげることをめざすタイプの社会学者ではまったくなかった。20年間、学習院大学の教授であったが、所属箇所は政経学部政治学科だったから、社会学プロパーの弟子は少ない。この点、東大法学部教授として「丸山山脈」と形容される人脈を学会の中に形成した丸山真男とは好対照である。清水は英独仏の外国語で書かれた文献に通じていたので、時代の先端にある問題や概念をいち早く吸収し、それを使って新鮮でシャープな現代社会批判を行っていたが、学問的に「清水社会学」と呼べるようなオリジナリティーのある社会学理論や社会学的概念を構築したわけではない。

  ジャーナリスティックな傾向と言ってしまえば簡単であるが、何処かに、「面白さの平面」というようなものがあって、どんな問題にしろ、その平面まで分析せねば気が済まないし、また、その平面を越えて分析を勧める気にならないという態度が以前から私にはあった。(清水幾太郎「或る告別式」『図書』1972年3月号)

  清水が現在の日本の社会学者たちに影響を与えているとしたら、その一番のものは、彼らが(私も含めて)社会学の門をくぐったときに、社会学の魅力というものを教えてくれたことだろう。ある年齢以上の社会学者には清水が書いた本を読んで社会学の門をくぐった者が非常に多いのである。

  社会学を勉強するというのは、ただ社会学という名のついた本を読むことではない。そうではなくて、本当は、社会を勉強することなのである。私たちがそこに生き、そこで苦しんでいる現代の日本の社会の諸問題を取りあげて、その解決に向かって活動することである。少なくとも、そういう活動の一つなのである。現代の社会そのものに何の関心も見識もない社会学者などというものは、まったくのナンセンスなのである。…(中略)…社会学を勉強する人は、いつも社会問題や社会思想を勉強していなければいけない。社会学者も、社会運動家も、社会思想家も、突きつけられている問題は同じなのである。この点を忘れて自分を社会学というトーチかに閉じこめると、私たちは社会学学者になってしまう。勉強家ほど、なりやすい。(清水幾太郎『社会学入門』カッパブックス、1959年)

  ちなみに執筆者(『岩波日本史辞典』は無署名)の田中義久は法政大学教授(社会学)。田中先生とは私が大学院の学生だった頃、八王子セミナーハウスで開かれる早稲田、慶応、法政の社会学の学生の合同合宿の打合せで、法政大学の近くにある私学会館で夕食をご一緒したことがある。安価なコース料理で、デザートにバナナが出て来た。バナナがデザートに出て来たのにも驚いたが、それを田中先生がマナーに則って生真面目にナイフとフォークを使って食べ始めたのにはもっと驚いた。私は自分がバナナをどんな風に食べたのか覚えていないが、田中先生のマネはしなかったと思う。かといって普通に手で皮を剥いてパクリと食べるのは田中先生に対して失礼だから、もしかしたら「もうお腹がいっぱいで・・・・」と言って、手を付けなかったかもしれない。一度、田中先生にご自身と清水との関わりについて伺ってみたいものである。

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2006年4月 4日 (火)

『岩波日本史辞典』

  山川出版の『日本史広辞典』(1997)に「清水幾太郎」の名前が載っていなかったことは、びっくりすると同時に、一種の義憤めいたものを覚える出来事だった。この感じは、清水が亡くなったとき(1988.8.10)、すべての全国紙が彼の死亡記事を載せた中で、共産党の「赤旗」だけがそれをしなかったときの感じに似ている。共産党は、清水を批判することによってではなく、その死を黙殺することによって、彼を「忘れられた思想家」にしようとしたのである。ある人物が忘れられるかどうかは、決して自然の過程ではなく、高度に政治的な過程なのである。
  このことがあったので、岩波書店から『岩波日本史辞典』(1999)が出たときは、そこに「清水幾太郎」の名前が載っているのかどうかが、まず気になった。はたして、550頁にそれは載っていた。

 清水幾太郎 しみずいくたろう 1907.7.9-88.8.10 社会学者、評論家。東京生れ。東大社会学科卒。東大副手を経て、東京朝日新聞嘱託としてコラムを担当、1941-45年読売新聞論説委員。49-69年学習院大学教授。マルクス主義の社会学者として出発。32年唯物論研究会に参加。その後プラグマティズムに接近。40年には全体主義への批判を伴った「社会的人間論」を著すが、戦時中、戦争協力者的論説を書いた。46年二十世紀研究所を設立、ついで平和問題談話会会員として活躍。50年代には内灘・砂川の基地反対闘争に参加、60年安保闘争では全学連主流派と行動をともにした。高度成長下の60年代には近代化論に結びつき、戦後民主主義の理念と決別。さらにタカ派の論客へと変貌した。〔著作集・19巻・1992-93〕

  岩波書店と清水との間には浅からぬ因縁がある。清水が論壇デビューを飾ったのは雑誌『思想』であったし、戦後創刊された『世界』の常連の執筆者の一人であったし、岩波書店がスポンサーであった平和問題談話会は「清水でもっている」と周囲から見られていた。それが60年安保の行動方針をめぐって共産党を批判したことで、左翼の統一戦線をめざしていた編集長吉野源三郎と対立し、その後、『世界』へは執筆をしなくなった。しかし、さすがに岩波書店というべきだろう、そうしたいきさつはいきさつとして、「清水幾太郎」は歴史に名前を残すべき人物であるという判断をきちんと行った。もちろんその記述は「左寄り」の視点からのものであるが、そもそも、歴史記述に「中立」(没価値的)ということはありえないのである。

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2006年4月 3日 (月)

忘れられつつある思想家

 私は清水幾太郎を論じた論文を数本書いているが、その中に「忘れられつつある思想家-清水幾太郎論の系譜-」がある(早稲田大学文学研究科紀要44ー1、1999年)。このタイトルがハーバート・ノーマン『忘れられた思想家-安藤昌益のこと-』(岩波新書)を意識したものであることは、ある年齢以上の読書家にとっては説明するまでもないことなのだが、ある年齢以下の人たちにとっては必ずしもそうではないようである。これは、和歌でいえば「本歌取り」というやつで、有名なところでは、定家の「駒とめて袖打ち払ふ蔭もなし佐野の渡の雪の夕暮」は万葉集巻三の「苦しくも降りくる雨か三輪が崎佐野の渡に家もあらなくに」を本歌としている。本歌取りという技法は、当然、読み手が本歌を知っていること(一定の文学的教養)を前提としているわけで、二つの歌を重ね合わせながら読んでもらうことで、作品に奥行きが与えられると同時に、作者と読者の間で一種のコミュニケーション(「ご存じですよね?」「もちろん!」)が成立するわけである。こうした伝統的技法はいまでも引き継がれていて、たとえば、三谷幸喜の「12人の優しい日本人」はレジナルド・ローズの「12 Angry Men(十二人の怒れる男)」のパロディである。もちろんそんなことを知らなくても、「12人の優しい日本人」は十分に面白い芝居なのだが、そういう背景を知っていれば、そこに日米文化比較という視点が加わって、十二分に面白い芝居になるのである。

 閑話休題。清水幾太郎が「忘れられつつある思想家」であることを私が実感したのは、清水の死から10年目(1997年)に出版された『日本史広辞典』(山川出版)に「清水幾太郎」という項目がないことに気づいたときである。あの「日本史の山川」が出した辞典に「清水幾太郎」の名前が載っていないというのは、大変なことである。なぜなら「清水幾太郎は歴史に名前を残すべき人物ではない」という判断がそこで下されたわけだから。『日本史広辞典』には、「丸山真男」「福田恆存」「大塚久雄」「川島武宜」らの名前は載っている。「宮本顕治」や「大江健三郎」といったまだ鬼籍に入っていない人の名前も載っている。うっかりではないとすれば、「清水幾太郎」が外された理由はなんだろうか? 論文の中で私は次のような推測を行った。

 山川出版社の『日本史小年表』は携帯に便利なので、私は愛用している。しかし、この年表には一つ欠点がある。それは一九二八年六月二九日に「治安維持法改悪」と書かれている点だ。 これは「治安維持法改正」でなくてはならない。「治安維持法改正」とは一九二五年四月二二日に公布された治安維持法では最高刑が「十年の懲役」となっていたところを、「死刑又は無期 」に引き上げたことをいう。治安維持法は悪法であるから、その改正は「改悪」を意味する、と言いたい気持は分かる。しかし、それは教師が授業の中で言えばいいことであって、あらかじめ 年表に書くべきことではない。一旦そういうことをしてしまったら、他の法改正についても同様のチェックをしないわけにはいかなくなるが、『日本史小年表』はそれはやっていない(まさか、 チェックはしたが、治安維持法改正以外のすべての法改正は「正しい」ものだったというわけではあるまい)。こうした「細工」を年表に加える出版社から出た歴史辞典に、治安維持法を弁護した 「清水幾太郎」の名前が載っていないのは当然のことなのかも知れない。

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