2006年4月 6日 (木)

『近代日本社会学者小伝』

  歴史辞典の中の「清水幾太郎」を取り上げたついでに、もう1冊、辞典の類をあげておく。川合隆男・竹村英樹編『近代日本社会学者小伝』(勁草書房、1998)である。定価1万5千円。この本は1829年生まれの西周から1931年生まれの湯崎稔まで、出生年順に編まれた、140名の近代日本の社会学者の小伝集である。もっとも福沢諭吉や長谷川如是閑のような普通は社会学者とはみなさい人物や、アーネスト・フェノロサやロナルド・ドーアといった日本と関係の深い外国人の社会学者も含まれている。1907年生まれの清水は120番目に登場する。執筆者は中筋直哉(当時、山梨大学助教授)。

  東京都生まれ。東京高等学校を経て東京帝国大学社会学科に学ぶ。高校時代より社会学に熱中する。卒業後同学科副手。卒業論文の一部が雑誌『思想』に掲載され、三木清(1897-1945)に激賞される。引き続き『思想』および「唯物論研究会」で活躍。逆に東大副手の職を免じられ、以後市井の文筆家として生計を立てることになった。戦時下には三木に従って「昭和研究会」で活動し、さらに太平洋協会アメリカ研究室、海軍技術研究所などの政府機関にも関与した。戦後は進歩的文化人の代表として、米軍基地反対闘争や日米安保反対運動等で世論をリードした。また学習院大学教授として教壇にも立った。ところが安保反対運動以降急速に主張を変え、反動的文化人の代表の1人と目されるようになった。晩年は卒業論文以来のテーマであるA・コントの文献研究に沈潜した。

  清水が遍歴した準拠集団・所属集団に着目して書かれている点が特徴といえるだろう。「反動的文化人」というのは「進歩的文化人」の反対語であろうが、政治セクトの文書などで使われるほかは、普段はあまり耳にしない言葉で、辞典的記述の中で用いるのはどうかと思う。この後に、「略年譜」「略伝」「著作文献目録」「研究参考書誌」が来るが、面白いのは「略伝」(短めの評伝)である。印象に残った箇所を引いておく。

  彼の全生涯を見渡すとき、戦後15年間の華々しい活躍はむしろ特異に映る。そこで彼の「現代社会学」は現実の大衆社会による実証に曝されるのだが、「離脱の精神」に基づく以上それは原理的に不可能な試みであった。当時の代表作とされる「庶民」の論文と、彼が支援した基地反対闘争の当事者との論争「内灘村長への手紙」との間にある落差には、出自としての庶民に深く執着しつつ、現実の庶民にはあくまでも進歩的文化人として対立する他ない彼の思想の不可能性が露出している。自ら帰郷すべき庶民を見出すことこそ彼の思想の最大の課題であることは、この時期にこそ明白となったはずである。
  しかし彼は、「離脱の精神」に固執するがゆえに庶民の思想家たり得なかった。安保闘争以後の知的隠遁は、進歩的か反動的かという区別を越えて、現実世界そのものから離脱の様相を呈している。転向と揶揄された晩年の著作群にしても、他のイデオローグたちと異なり、明確な論拠、背景となる私的利害が希薄である。それは庶民の保守イデオロギーですらあり得ない。保守主義者として清水の名は今やほとんど忘れさられている。清水の「現代社会学」の栄光と困難は、社会学自らの生の問題を社会に向かって表現する一つの方法たり得ることを初めて示したことと、それが結局は語り手のモノローグに過ぎないことをさらけ出したこととの間にある。それは私たちの社会学のひとつの可能性であり、ひとつの限界である。

  少々結論を急ぎすぎているきらいはあるが、「庶民」が清水の思索と行動を理解する上でのキーワードであることは間違いない。
  なぜ清水は「庶民」にこだわったのか。彼が「庶民」の出身だからという説明では不十分である。自分の社会階層にしろ、エスニシティにしろ、ジェンダーにしろ、ものごころついたときにはすでに備えていた属性に対して意識的になるには、それと反対の属性を備えた他者の出現を待たねばならない。日本人として生まれたから自分が日本人であることを意識するのではなく、外国人や外国文化との出会いや遭遇があって、そしてその出会いや遭遇がショッキングなものであったとき、自分が日本人であることを強く意識するようになるのである。清水が「庶民」を前面に押し出すようになったのは、「エリート」の出現があったからである。具体的に言えば、その「エリート」とは、『世界』1946年5月号に「超国家主義の論理と心理」を引っさげて衝撃的な論壇デビューを飾った32歳の丸山真男(当時、東京大学法学部助教授)である。敗戦直後の数年間、戦時中に読売新聞論説委員として戦争協力的な社説を書いていたことや、戦後の流行思想である民主主義やマルクス主義に同調できないこともあって、少々燻っていた感のある清水が、戦後日本のオピニオンリーダーの一人として自信に満ちた足取りで歩き始めたのは、ライバルとしての「エリート」の出現によって、自分の言論人としてのスタンスがはっきりしたからであろう・・・・という趣旨のことを、私は最近、「清水幾太郎における戦中と戦後の間」という論文(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第51輯第1分冊、2006年2月)に書いた。私のホームページの「清水幾太郎と彼らの時代」のコーナーにアップしたので、関心のある方は読んでみて下さい。

http://www.f.waseda.jp/ohkubo/aida.htm

  私が清水幾太郎に関して次に書こうとしている論文は、早稲田社会学会の機関誌『社会学年誌』48号(来年2月刊行予定)に寄稿する予定のもの(タイトル未定)で、実態としての「庶民」および清水の中のイメージとしての「庶民」の変容がどのように起こり、それが清水の思索と行動にどのように反映されていったのかを論じることになる。これは夏休みの仕事である。

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2006年4月 5日 (水)

『日本近現代人名辞典』

  「吉田松陰・坂本竜馬から渥美清・小泉純一郎まで。重要人物4500人を収録。初の本格的〈近現代人名辞典〉誕生!」と帯に書かれた吉川弘文館『日本近現代人名辞典』が刊行されたのは2001年7月のことだった。定価2万円。早稲田大学生協文学部店の歴史コーナーでそれを見つけた私が最初にしたことは、もちろん、「清水幾太郎」が載っているかどうかの確認である。はい、ちゃんと載っていました。

 しみずいくたろう 清水幾太郎 一九〇七-八八 昭和時代の社会学者、ジャーナリスト、思想家。明治四十年(一九〇七)七月九日、東京市日本橋区薬研堀町(東京都中央区)に生まれる。昭和六年(一九三一)東京帝国大学文学部社会学科卒業。東大副手を経て、十四年東京朝日新聞社学芸部嘱託(コラム「槍騎兵」で時評を担当)、十六年読売新聞社論説委員。第二次世界大戦後の二十一年、二十世紀研究所を設立してその所長となり、戦後日本の民主化に対処する知識人集団を組織した。二十四-四十四年学習院大学教授。昭和八年の『社会学批判序説』から六十一年の『私の社会学者たち』に至るまで、常に日本の社会学者として学会のトップランナーであり、実証研究の分野での有賀喜左衛門、経済社会学の視点から独自の社会学理論を構築した高田保馬とともに、きわめて大きな影響力を発揮した。前期の清水社会学は敗戦前のそれであり、自然法と有機体説の対立のうちに社会学の成立を見るものだった。中期は、敗戦から六〇年安保闘争の直後までの戦後日本の民主化・産業化に即応し、アメリカ社会学・社会心理学の成果を積極的に吸収した時期で、代表作『社会学講義』(昭和二十五年)と『社会心理学』(二十六年)によって特徴づけられる。後期の清水社会学は、産業化から情報化・管理化へと推転していく日本社会のなかで、マス(大衆)としての近代的個人という逆説への深いペシミズムとその反動としての民族・国家・伝統への回帰を基調とする。清水の社会学は人間的自然の社会学であり、これら三期の展開は、日本人であるわれわれ自身の人間的自然の諸力と諸可能性の実践的検証とのつきあわせを要請している。昭和六十三年八月十日没。八十一歳。墓は東京都八王子市の高尾霊園にある。『清水幾太郎著作集』全十九巻(講談社)が刊行されている。(田中義久)

  『岩波日本史辞典』は活動中心の記述だったが、『近現代人名辞典』の場合は、記述の分量が多い(約2倍)こともあって、清水の思想(清水社会学)の特徴にまで話が及んでいる。「マス(大衆)としての近代的個人という逆説への深いペシミズムとその反動としての民族・国家・伝統への回帰を基調とする」という指摘は的確である。ただし、「常に日本の社会学者として学会のトップランナーであり」云々の部分は、持ち上げ過ぎという印象を受ける。清水は中学生のときに社会学者を志し、高校入学と同時に設立間もない日本社会学会の会員になったが、1971年(学習院大学退職の2年後)、学会を退会している。

  一昨年の夏、私は日本社会学会を退会した。何か特別の事情があったわけではなく、機関誌『社会学評論』を読んでも面白くないし、稀に年次大会へ出席しても面白くないという経験を重ねた末、会員であることが惰性のように思われ、惰性で生きるのは恥ずかしいと気がついたためであった。(清水幾太郎「戸田貞三先生のこと」『思想』1973年5月号)

  清水は学会という同業者のコミュニティーの中で業績をあげることをめざすタイプの社会学者ではまったくなかった。20年間、学習院大学の教授であったが、所属箇所は政経学部政治学科だったから、社会学プロパーの弟子は少ない。この点、東大法学部教授として「丸山山脈」と形容される人脈を学会の中に形成した丸山真男とは好対照である。清水は英独仏の外国語で書かれた文献に通じていたので、時代の先端にある問題や概念をいち早く吸収し、それを使って新鮮でシャープな現代社会批判を行っていたが、学問的に「清水社会学」と呼べるようなオリジナリティーのある社会学理論や社会学的概念を構築したわけではない。

  ジャーナリスティックな傾向と言ってしまえば簡単であるが、何処かに、「面白さの平面」というようなものがあって、どんな問題にしろ、その平面まで分析せねば気が済まないし、また、その平面を越えて分析を勧める気にならないという態度が以前から私にはあった。(清水幾太郎「或る告別式」『図書』1972年3月号)

  清水が現在の日本の社会学者たちに影響を与えているとしたら、その一番のものは、彼らが(私も含めて)社会学の門をくぐったときに、社会学の魅力というものを教えてくれたことだろう。ある年齢以上の社会学者には清水が書いた本を読んで社会学の門をくぐった者が非常に多いのである。

  社会学を勉強するというのは、ただ社会学という名のついた本を読むことではない。そうではなくて、本当は、社会を勉強することなのである。私たちがそこに生き、そこで苦しんでいる現代の日本の社会の諸問題を取りあげて、その解決に向かって活動することである。少なくとも、そういう活動の一つなのである。現代の社会そのものに何の関心も見識もない社会学者などというものは、まったくのナンセンスなのである。…(中略)…社会学を勉強する人は、いつも社会問題や社会思想を勉強していなければいけない。社会学者も、社会運動家も、社会思想家も、突きつけられている問題は同じなのである。この点を忘れて自分を社会学というトーチかに閉じこめると、私たちは社会学学者になってしまう。勉強家ほど、なりやすい。(清水幾太郎『社会学入門』カッパブックス、1959年)

  ちなみに執筆者(『岩波日本史辞典』は無署名)の田中義久は法政大学教授(社会学)。田中先生とは私が大学院の学生だった頃、八王子セミナーハウスで開かれる早稲田、慶応、法政の社会学の学生の合同合宿の打合せで、法政大学の近くにある私学会館で夕食をご一緒したことがある。安価なコース料理で、デザートにバナナが出て来た。バナナがデザートに出て来たのにも驚いたが、それを田中先生がマナーに則って生真面目にナイフとフォークを使って食べ始めたのにはもっと驚いた。私は自分がバナナをどんな風に食べたのか覚えていないが、田中先生のマネはしなかったと思う。かといって普通に手で皮を剥いてパクリと食べるのは田中先生に対して失礼だから、もしかしたら「もうお腹がいっぱいで・・・・」と言って、手を付けなかったかもしれない。一度、田中先生にご自身と清水との関わりについて伺ってみたいものである。

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2006年4月 4日 (火)

『岩波日本史辞典』

  山川出版の『日本史広辞典』(1997)に「清水幾太郎」の名前が載っていなかったことは、びっくりすると同時に、一種の義憤めいたものを覚える出来事だった。この感じは、清水が亡くなったとき(1988.8.10)、すべての全国紙が彼の死亡記事を載せた中で、共産党の「赤旗」だけがそれをしなかったときの感じに似ている。共産党は、清水を批判することによってではなく、その死を黙殺することによって、彼を「忘れられた思想家」にしようとしたのである。ある人物が忘れられるかどうかは、決して自然の過程ではなく、高度に政治的な過程なのである。
  このことがあったので、岩波書店から『岩波日本史辞典』(1999)が出たときは、そこに「清水幾太郎」の名前が載っているのかどうかが、まず気になった。はたして、550頁にそれは載っていた。

 清水幾太郎 しみずいくたろう 1907.7.9-88.8.10 社会学者、評論家。東京生れ。東大社会学科卒。東大副手を経て、東京朝日新聞嘱託としてコラムを担当、1941-45年読売新聞論説委員。49-69年学習院大学教授。マルクス主義の社会学者として出発。32年唯物論研究会に参加。その後プラグマティズムに接近。40年には全体主義への批判を伴った「社会的人間論」を著すが、戦時中、戦争協力者的論説を書いた。46年二十世紀研究所を設立、ついで平和問題談話会会員として活躍。50年代には内灘・砂川の基地反対闘争に参加、60年安保闘争では全学連主流派と行動をともにした。高度成長下の60年代には近代化論に結びつき、戦後民主主義の理念と決別。さらにタカ派の論客へと変貌した。〔著作集・19巻・1992-93〕

  岩波書店と清水との間には浅からぬ因縁がある。清水が論壇デビューを飾ったのは雑誌『思想』であったし、戦後創刊された『世界』の常連の執筆者の一人であったし、岩波書店がスポンサーであった平和問題談話会は「清水でもっている」と周囲から見られていた。それが60年安保の行動方針をめぐって共産党を批判したことで、左翼の統一戦線をめざしていた編集長吉野源三郎と対立し、その後、『世界』へは執筆をしなくなった。しかし、さすがに岩波書店というべきだろう、そうしたいきさつはいきさつとして、「清水幾太郎」は歴史に名前を残すべき人物であるという判断をきちんと行った。もちろんその記述は「左寄り」の視点からのものであるが、そもそも、歴史記述に「中立」(没価値的)ということはありえないのである。

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2006年4月 3日 (月)

忘れられつつある思想家

 私は清水幾太郎を論じた論文を数本書いているが、その中に「忘れられつつある思想家-清水幾太郎論の系譜-」がある(早稲田大学文学研究科紀要44ー1、1999年)。このタイトルがハーバート・ノーマン『忘れられた思想家-安藤昌益のこと-』(岩波新書)を意識したものであることは、ある年齢以上の読書家にとっては説明するまでもないことなのだが、ある年齢以下の人たちにとっては必ずしもそうではないようである。これは、和歌でいえば「本歌取り」というやつで、有名なところでは、定家の「駒とめて袖打ち払ふ蔭もなし佐野の渡の雪の夕暮」は万葉集巻三の「苦しくも降りくる雨か三輪が崎佐野の渡に家もあらなくに」を本歌としている。本歌取りという技法は、当然、読み手が本歌を知っていること(一定の文学的教養)を前提としているわけで、二つの歌を重ね合わせながら読んでもらうことで、作品に奥行きが与えられると同時に、作者と読者の間で一種のコミュニケーション(「ご存じですよね?」「もちろん!」)が成立するわけである。こうした伝統的技法はいまでも引き継がれていて、たとえば、三谷幸喜の「12人の優しい日本人」はレジナルド・ローズの「12 Angry Men(十二人の怒れる男)」のパロディである。もちろんそんなことを知らなくても、「12人の優しい日本人」は十分に面白い芝居なのだが、そういう背景を知っていれば、そこに日米文化比較という視点が加わって、十二分に面白い芝居になるのである。

 閑話休題。清水幾太郎が「忘れられつつある思想家」であることを私が実感したのは、清水の死から10年目(1997年)に出版された『日本史広辞典』(山川出版)に「清水幾太郎」という項目がないことに気づいたときである。あの「日本史の山川」が出した辞典に「清水幾太郎」の名前が載っていないというのは、大変なことである。なぜなら「清水幾太郎は歴史に名前を残すべき人物ではない」という判断がそこで下されたわけだから。『日本史広辞典』には、「丸山真男」「福田恆存」「大塚久雄」「川島武宜」らの名前は載っている。「宮本顕治」や「大江健三郎」といったまだ鬼籍に入っていない人の名前も載っている。うっかりではないとすれば、「清水幾太郎」が外された理由はなんだろうか? 論文の中で私は次のような推測を行った。

 山川出版社の『日本史小年表』は携帯に便利なので、私は愛用している。しかし、この年表には一つ欠点がある。それは一九二八年六月二九日に「治安維持法改悪」と書かれている点だ。 これは「治安維持法改正」でなくてはならない。「治安維持法改正」とは一九二五年四月二二日に公布された治安維持法では最高刑が「十年の懲役」となっていたところを、「死刑又は無期 」に引き上げたことをいう。治安維持法は悪法であるから、その改正は「改悪」を意味する、と言いたい気持は分かる。しかし、それは教師が授業の中で言えばいいことであって、あらかじめ 年表に書くべきことではない。一旦そういうことをしてしまったら、他の法改正についても同様のチェックをしないわけにはいかなくなるが、『日本史小年表』はそれはやっていない(まさか、 チェックはしたが、治安維持法改正以外のすべての法改正は「正しい」ものだったというわけではあるまい)。こうした「細工」を年表に加える出版社から出た歴史辞典に、治安維持法を弁護した 「清水幾太郎」の名前が載っていないのは当然のことなのかも知れない。

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2006年4月 1日 (土)

語られない現在

 清水の3冊の自伝に共通する特徴として、自伝の記述が自伝執筆の時点のかなり手前で終わっているということがある。『私の読書と人生』(1949年刊行、清水42歳)場合は、1945年の春(清水37歳)、間断なく続く空襲の日々の中で、自宅の湯殿で『社会と個人』の中巻と下巻のために書いた原稿を燃やす場面で終わっている。『私の心の遍歴』(1956年刊行、清水48歳)の場合は、自伝のカヴァーする期間はむしろ最初の自伝よりも短くなり、1936年の暮れ(清水29歳)、清水・妻・娘・女中の4人で、牛込の市ヶ谷田町に引越(母・妹・二人の弟とは別居)をしたところで終わっている。『わが人生の断片』(1975年刊行、清水67歳)の場合は、60年安保闘争の直後、現代思想研究会の立ち上げ、雑誌『現代思想』の創刊と廃刊などの話で終わっている。清水は『わが人生の断片』の「あとがき」に次のように書いている。

 書いているうちに調子が出て来たのか、実は、もっと後の時期まで書こうと考えたことがある。本書は、昭和三十七年頃、『現代思潮』が書けそうだと思うところで終わっているが、その後も、書けば書ける材料がある、と私は思った。…(中略)…しかし、これは駄目であった。如何に材料が揃っていても、また、何度か試みもしたが、肝心の筆が動いてくれない。総じて、自分の経験というものは、それが発生した平面とは別の平面に私が立った時に、漸く一つの客体として見えて来るのであろう。現在の私は、他に何があったにしろ、安保闘争後の私と同じような平面に立っているのであろう。(著作集14、pp.497-498)

 他の2冊の自伝が自伝執筆の時点のかなり手前で記述が終わっているのも同様の理由によるものであろう。すなわち「現在」をその一部に含むところの時期については語ることが難しいということである。これは歴史家の態度と似ている。歴史家にとって「現代史」というのは本来はありえない言葉である。歴史というものが、無数の事実の中から限られた数の事実を抽出して、それらの間に因果関係の連鎖を施したものである以上、現在進行中の事象についてはそういう作業は困難である。鼻の先に新聞を突きつけられても近すぎて判読が困難で、判読するためにはほどよい距離を置く必要があるが、空間的距離についていえることは時間的距離についてもあてはまろう。もちろん、清水のような自伝は稀で、ほとんどの自伝は自伝の執筆時点までをカヴァーしている。しかし、注意深い読者ならば、誰の自伝であれ「現在」を語る最終章は文章の調子がそれまでとは微妙に変化することを感じるはずである。一方は完了形で語られ、他方は進行形で語られる。「過去」を語るように「現在」を語ることはできないのだ。清水は『私の文章作法』という本を書くほど文章を書くという行為に自覚的な人であったから、そうした文章の調子の非一貫性に人一倍敏感であったのだと思う。

 しかし、「清水幾太郎と彼らの時代」を研究テーマにしている者にとっては、彼の自伝が安保闘争直後で終わっていることは、大変に残念である。清水は学習院大学を退職する際の最終講義(1969.1.18←東大安田講堂の攻防戦があった日!)の中で、自分の一生を一冊の書物に喩えている。第1章は最初の約20年(東大の学生時代まで)、第2章は次の約20年(ジャーナリスト時代)、第3章は次の約20年(学習院大学教授時代)、そして第4章はこれからの人生である。

 ここで、私は、新しく第4章を書き始めることにいたしました。第4章を書くために、まだ停年までには九年ばかりあるのですが、私は学習院を退職することにしたのであります。退職して、それからどうするのか、という質問を方々から受けます。私としては、今までやって来た勉強を少し纏めてみたいと考えております。コントなら、Synthese(綜合)というところですが、私はそれほど大きなことは考えてはおりません。…(中略)…私の第四章が、どのくらい長いものになるか、どのくらい短いものになるか、豊かなものになるか、貧しいものになるか、私には判りません。誰にも判らないでしょう。しかし、私は、第四章を書き始めようと思います。私の言うべきことは、以上で終わります。さようなら。(著作集11、pp.292-293)

 清水が亡くなったのは1988年8月10日。彼の人生の第四章も約20年であった。

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2006年3月31日 (金)

三度自伝を書く理由

 『私の心の遍歴』の出版から20年後の1975年、清水67歳のとき、三冊目の自伝『わが人生の断片』(全2巻、文藝春秋)が出版された。書き下ろしではなく、雑誌『諸君!』の1973年7月号から1975年7月号まで25回に渡って連載されたものを単行本化したものである。400字詰原稿用紙換算で1200枚を越える分量は、清水の著作の中で最大のものである。『わが人生の断片』はこんな風に始まる。

 昭和十六年十二月の或る日、私たち数人の忘年会が、夕方から本郷の湯島の鳥屋で開かれた。数人の中には、三木清および中島健蔵が含まれていた。豊島与志雄も加わっていたような気がする。忘年会といっても、一向に気勢の揚がらぬ会であった。英米を敵とする戦争は、その日から二週間ばかり前に始まっていた。(著作集12、p.11)

 自伝の常道に反して『わが人生の断片』は人生の途中(34歳)から話が始まっている。この点について清水は同書の「あとがき」で次のように述べている。

 あれは何年頃であったろうか。編輯部から自伝の連載を依頼された時、私は引き受ける気持ちが全くなかった。…(中略)…私は自伝の執筆を断った。しかし、断った後も、編輯者は何度となく慎重且つ執拗に執筆を勧めた。何度となく勧められているうちに、仮に私が書くとしたら、何処で生まれて、如何なる学校に通って、という調子の通史(?)ではなく、幾つかのトピックスを中心に書くほかはない、と私は考えるようになった。売文業者の癖で、多少とも読者にとって-或いは、私自身にとって-興味のありそうなことだけを書こうという謂わばサービス精神のようなものが頭を擡げて来たのである。それと同時に、仮に書くとしたら、最初に取り上げるトピックは、私の出生などではなく、戦争中の経験でなければいけない、と私は思った。理由はなかった。ただ駄々っ子のように、そう私は思った。思っただけならよかったのだが、それをウッカリ口に出し、「勿論、それで結構です」と編輯者が答えたところから自伝の連載が始まることになった。(著作集、pp.496-497)

 出生からではなく、戦争中の経験から書き始めることに「理由はなかった」というのはもちろんレトリックである。「何処で生まれて、如何なる学校に通って、という調子の通史」をすでに清水は2冊書いているのだ。屋上屋を架すべからず。3冊目の自伝は前の2「冊の自伝との重複を避け、前の2冊の自伝の終わりの部分に相当する戦争中の話から書き始めようと考えたのは、「売文業者」としてはむしろ自然な発想であったろう。開戦の年から始まった物語は敗戦の翌年まで続き(第1部)、そこで一旦中断し、出生から開戦までの物語が挿入され(第2部)、その後で、敗戦の翌年からの物語が再開して1960年の安保闘争の敗北の直後で終わる(第3部)。『わが人生の断片』はこういうちょっと変わった構成になっている。

 第2部、すなわち前の2冊の自伝ですでに語られている時期に関して、『わが人生の断片』で初めて語られるエピソードというものは非常に少ない。前の2冊の自伝の読者にとっては「お馴染みの話」が続く。だから、これも一種のサービス精神の現れと見るべきであろうか、『わが人生の断片』には記憶の細部にこだわる傾向が見られる。たとえば、東京高等学校に願書を出しに行ったときの記述はこうなっている。

 東京高等学校は、鉄筋コンクリート三階建、東京府下の中野にあった。近くには武蔵野の雑木林や田圃があった。大正十四年に入ってからの或る日、私は、宮地敬三という同級生を誘って、一緒に願書を出しに行った。広い校庭を囲む土堤に雪が残っていた。その雪の中へ、私は「エアシップ」の吸殻を捨てた。煙草は一年ばかり前から吸っていた。(著作集14、p.1961)

『私の読書と人生』にはこの日の記述はない。「大正十四年に東京高等学校に入学した」とあるだけである。『私の心の遍歴』には記述があるが、「願書を出しに行ってみると、予想通り、志願者は非常に少数でした。私は、ひとり、ホクホクしていました」という調子のものである。雪の中に「エアシップ」を捨てたというのは、生活史的事実としてはさして重要ではない。しかし、文学的には-「私小説的には」というべきか-印象的な情景であり、文章に生気を与えている。一緒に願書を出しに行った同級生の名前をわざわざフルネームで記している点にも細部へのこだわり、リアリティへのこだわりが感じられる(以前の記事で「易者」をめぐるエピソードの記述の異同の問題を取り上げて、3冊目の自伝の記述が事実なのであろうと結論付けた理由がここにある)。

 細部へのこだわりの他に、もう1つ、『わが人生の断片』の特徴として、アクチュアルな問題への言及ということがある。清水は個人的なエピソードを語りながら、戦後の日本社会の諸問題(それらはやがて評論集『戦後を疑う』において正面から取り上げられることになる)にしばしば言及する。たとえば、中学時代のドイツ語の授業でドイツ語のアルファベットもまだろくに覚えないうちから動詞の主要変化形(アーベルボー)を毎時間合唱させられ、生徒たちはそれを体で覚えたというエピソードが紹介された後で、清水はあまりに民主主義的なりすぎた戦後の教育の批判を始める。

 ドイツ語だけの話ではない。どんな教育でも、或る段階においては、また、或る側面においては、必ずアーベルボーの合唱や暗記のようなところがなければならない。理屈抜きの、有無を言わせぬところがなければならない。それがないと、教育というものの底が抜けてしまう。…(中略)…個性とか創造性とかいうのは、肝腎の伝達が確実に行われた後のことで、子供の個性を口実にして肝腎の伝達を怠ったら、それはもう教育とは別のものになってしまう。人間の教育は、或る段階および或る側面において、必ず犬の調教と同じようなところがある。もし人間が犬よりも大切な動物であるならば、人間の教育は、犬の場合よりも徹底的に行われねばならぬ。正しく調教されていない犬は、飼主にとって不幸であり、近所の人にとっても不幸であるが、とりわけ、犬自身にとって不幸である。同じことは人間についても言える。数年前に学習院大学を退いてから、私は、国電の車内でしか学生を見ていないが、座席に浅く腰かえて、寝そべったような姿で漫画本を読んでいる彼らは、調教されなかった犬のように思われる。(著作集14、pp.152-153)

 このように『わが人生の断片』には自伝の形式を借りた社会批評という趣がある。こうしたスタイルの背景には「清水研究室談話会」の存在がある。清水は1969年3月(62歳)に学習院大学を退職し、新宿区大京町のマンション(一階は野口英世記念館になっている)の一室に清水研究室を開設したが、そこで月に一度「談話会」がもたれるようになったのは、研究室開設半年後のことである。「談話会」は清水の孤独を癒す社交の場であると同時に、彼が再び論壇の表舞台に復帰するための下稽古の場所となった。

 1973年9月から翌年6月までの「談話会」は「戦後教育批判シリーズ」と呼ばれている。シリーズの最終回の報告者となった清水は「戦後教育の崩壊について」という刺激的なタイトルで話をした。この話は『中央公論』1974年11月号に「戦後の教育について」という穏やかなタイトルで掲載され、大きな反響を呼んだ。先ほど引用したアーベルボーの話は『諸君!』1974年3月号に掲載された分からのものである。すわなち「談話会」で「戦後教育批判シリーズ」が展開されている最中、しかも清水が「戦後教育の崩壊」について話す数ヶ月前に書かれた原稿である。自伝の執筆時の状況が自伝の内容に反映することの顕著な例といえよう。

 「戦後の教育」についての大きな反響のかなりの部分は、文章の内容それ自体よりも、それを書いたのがかつての進歩的文化人の代表的存在であった清水幾太郎であったことに由来する。自伝というものは人生の転換点に書かれるべきものであるというのが清水の持論であるが、『わが人生の断片』は確かにその実践であったわけである。

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2006年3月30日 (木)

4年3ヵ月の影響

 『私の読書と人生』と『私の心の遍歴』が相互補完的、双生児的な関係にあり、2冊で1冊の自伝と考えられるものであることは昨日述べた。しかし、2冊の自伝を隔てる数年の歳月は、2冊目の自伝の内容に微妙な影響を与えることになった。

 『私の心の遍歴』に「あこがれの避暑」という章がある。そこには小学校3年のときに経験した福島県横向温泉での出来事が詳しく書かれている。身体によいからと知り合いの医者の一家に誘われて、9歳の清水は親元を離れて一夏を山奥の温泉宿で過ごすことになった。両親は心配したが、清水は温泉宿での避暑というものにわくわくしていた。しかし期待は見事に裏切られた。

 宿について、いろいろな事情が判って来るにつれて、私は自分の立場がないことに気がつきました。この宿にいる人間は、滞在客か、医者の家族か、その使用人か、この三種類なのです。私だけはそのどれにも入らないのです。私は、宿料を払うお客ではありません。むしろ、朝と午後、お客の部屋へ、お茶と梅干しとを運ぶのが、いつの間にか、私の仕事になっていました。私はお客ではありません。また、私は医者の家族と同行しては来たものの、勿論、この家族の一員ではありません。…(中略)…そして、私は使用人でもないのです。使用人は私に向かってゾンザイな言葉を使いはしますが、自分たちの仲間とも見ていないようです。私は、一体、何者なのでしょうか。私はどこにいても邪魔なような気がしてきました。(著作集、pp.280-281)

 さらに悪いことに、横向温泉の気温は東京に比べて大変低かったために、清水は風邪を引いてしまい、百日咳のような深い咳が絶えず出るようになった。清水は、ただただ心細くて、東京に帰ることばかり考えていた。結局、2週間あまりが経過した頃に、息子の境遇を人づてに知った父親が迎えに来てくれたおかげで、清水はようやく東京に帰ることができた。この体験は清水にとってのトラウマとなった。

 他人の目から見れば、これは誠に小さな事件です。けれども、九歳の私にとっては、実に大きな事件でした。これは、後に関東大震災に遭ったり、徴用員としてビルマへ連れて行かれたりしたのに劣らぬ大事件でした。この大事件のために、私は一層臆病になってしまったようです。ウカウカと見知らぬ世界へ踏み込んだら、どういうことになるか、それを身にしみて感じたのでしょう。とにかくすっかり臆病になりました。…(中略)…無事東京へ帰りはしたのですが、どうしても、それが夢のように思われてならないのです。まだ、横向温泉の玄関脇の一室に寝ているのではないか。それが恐ろしくて堪りませんでした。父にも母にも黙っていましたが、毎朝の恐怖は、三年間ばかり、つまり、小学校を卒業するまで続きました。今でも、時々、横向温泉の夢を見ます。(著作集10、pp.283-284)

 不思議なのは、「関東大震災に遭ったり、徴用員としてビルマへ連れて行かれたりしたのに劣らぬ大事件」とあるが、震災や徴用の話が3冊の自伝全部で取り上げられているのに対し、この横向温泉の一件は『私の心の遍歴』にしか出てこないことだ。これはなぜだろうか。震災や戦争が清水個人にとってのみならず日本の社会全体にとっても大事件であるのに対して、横向温泉の一件はあまりに個人的な事件であるためだろうか。そういうこともあるかもしれない。しかし、それだけでは説明にならない。そもそも自伝とは個人的な出来事を書くものであるし、横向温泉の一件があまりに個人的な出来事であるために他の2冊の自伝では語られなかったとするなら、なぜ『私の心の遍歴』ではそれがあえて語られているのかが逆に問われなければならないだろう。

 私の仮説はこうである。横向温泉の一件が『私の心の遍歴』で大きく取り上げられたのは、「ウカウカと見知らぬ世界へ踏み込んだら、どういうことになるか、それを身にしみて感じた」経験が『私の心の遍歴』を執筆していたときの清水にもあったのではないか。それが最初の自伝では封印されていたトラウマチックなエピソードと共鳴し、その封印が解かれたのではないか。『私の心の遍歴』執筆時に清水が深くかかわっていた平和運動には、活動の華々しさの裏側に、横向温泉の一件を連想させるような負の側面があったのではないか。清水の3冊目の自伝『わが人生の断片』の中に次のような記述がある。

 私は再び孤独になり悲壮になって行った。昭和二十五年の秋、平和問題談話会が事実上の解散を行い、私は、自分だけがポツンと取り残されたように感じ、孤独になり悲壮になっていたが、その私に声をかけてくれたのは、総評および左派社会党であった。私は俄に見方を得たように思い、先方は、「小さな人気者」としての私に利用価値を見出していたのであろう。しかし、何回か内灘村へ通っているうちに、腑に落ちないことが次第に殖えてきた。けれども、平和問題談話会の場合は、仲間が同じようなインテリで、みな政治の素人であったが、今度は、周囲にいるのは政治の玄人ばかりで、私だけが素人である。何事につけても、私は、自分の経験の狭さということを先ず考え、政党は、私などの知らぬ沢山の仕事を抱え込んでいるのであろう、手が廻らないのであろう、と考えてきた。しかし、いくら謙虚な態度を取ったつもりでも、腑に落ちない問題が残ってしまう。平和問題談話会によって宣言された、軍事基地絶対反対という道を真直ぐに歩いていこうとすると、それを三原則の一つに掲げた左派社会党の人々からも離れてしまうのではないか。二年ばかり前の孤独で悲壮な気持ちが再び戻ってきた。(著作集14、p.368)

 清水の人生は、本来は非党派的な人間が、さまざまな党派の間を遍歴した人生である。だから清水はいつもそのとき属している党派と自分との距離に敏感であった。「仲間外れ」や「孤独」ということに敏感であった。清水は『中央公論』1954年1月号に「わが愛する社会党左派について」を書き、左派社会党の運動方針を批判し、批判された左派社会党は『中央公論』2月号に「清水幾太郎氏の愛情にこたえて」を載せて清水を反駁した。「あこがれの避暑」の章が『婦人公論』1954年5月号に掲載されたのは、清水と左派社会党との間でこうした応酬が行われた直後のことであった。

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2006年3月29日 (水)

再度の自伝を書く理由

 二冊目の自伝『私の心の遍歴』が出版されたのは『私の読書と人生』の出版から6年3ヵ月後の1956年1月である。しかも、『私の心の遍歴』は書き下ろしではなく、『婦人公論』に1954年1月から翌年12月まで連載されたものを単行本にしたものだから、実質的には最初の自伝の出版からわずか4年3ヵ月後に2冊目の自伝の執筆に着手したことになる。自伝を2冊書くこと自体が普通のことではないが、その間隔が4年3ヵ月というのは尋常ではない。

 ここからすぐに予想されることは、『私の心の遍歴』は『私の読書と人生』の二番煎じ、焼き直しであろうということだが、それはおそらく、『私の心の遍歴』の連載を開始するにあたって清水が一番避けたかったことであろう。自分のことをしばしば「売文業者」と称していた職人気質の清水にとって、「同じものを二本書いた」と言われることは不名誉この上ないことである。もちろん一人の人間が二つの人生を生きてきたわけではないから、内容に重複が見られるのは当然である。しかし、『私の心の遍歴』には『私の読書と人生』とは別の側面から自分の人生を語ろうとする方針がはっきりと見てとれる。すなわち、『私の読書と人生』が学校経歴と職業経歴を軸として展開されていたのに対して、『私の心の遍歴』は家族経歴の記述にかなりの分量が割かれている。最初の自伝では十分に語られていなかった家族の物語(子供時代の暮らしぶり、妻との出会い、父親の死、娘の誕生など)が、2冊目の自伝では存分に語られている。

 清水が『私の心の遍歴』で家族の物語を語ったのは、第一に、『婦人公論』の読者を意識したためであろう。自伝の書き手はたんに自分が書きたいことを書くのではなく、読者が関心をもつであろうことを書くのである。これはライフストーリーのインタビュー調査の場合も同様で、聞き手がいくら「自由に語って下さい」と注文しても、語り手は自分の話に対する聞き手の反応に敏感である。もちろんこのことは清水が心ならずも私生活を語ったということではない。第二に、むしろ清水は家族の物語を語りたかったのであろう。『婦人公論』から注文があったから家族のことを語ったというよりも、家族のことを語りたかったから『婦人公論』の注文に応じたと考えるべきだろう。いずれにしろ2冊の自伝は相互補完的な関係、双生児的な関係にあり、両者を併せて、出生から30歳代の終わり(終戦直前)までの1冊の自伝と見ることができる。

 『清水幾太郎著作集』の編集責任者、清水礼子は『私の心の遍歴』の装幀についてこう語っている。

 一七・一センチメートル、一〇・六センチメートルという大きさは、分類を施せば新書版に入る。しかし、他の新書に比べると縦が二ミリメートル短く、横が六ミリメートル広いためか、安定感のある本である。少し和紙に似た紙を使い、天に化粧裁ちを施さず、角に微かな丸みを与えていることも、穏やかな落ち着きを生み出しているのかもしれない。表紙は恩知孝四郎、カヴァーは大和春穂のデザイン。カヴァーは、象牙色の地に柔らかな中間色を用いて、表側に一三、袖の部分に三つ、合計一六のカット風の小さな絵を配している。ISというイニシアルの読める太い古風な万年筆、紐の付いたインク瓶、編上げのドタ靴、角帽、銀杏の葉、鉄砲、木製のベンチ、裸電球の下に並んだ本、市電、土手の土筆・・・・・・。黒い華奢な明朝体で刷られたタイトルの中で「心」という文字だけが原色の赤で浮かぶ。『私の心の遍歴』の内部に一度深く潜った末でなければ生まれるデザインであり、著者の作品を包んだ夥しいカヴァーのうちで、最も優しい温かい雰囲気を持つものである。(著作集10、解題、p.450)

 私は古本屋で『私の心の遍歴』を探しているが、いまだ見つかっていない。三刷まで出た本なので、とくに初版本でないとならないということはない。ただし、カヴァーが付いていないものは駄目である。

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2006年3月28日 (火)

自伝を書く理由

 清水幾太郎の最初の自伝『私の読書と人生』(要書房、1949年)は、そのタイトルからわかる通り、自身の読書遍歴を語るという体裁をとっている。清水は「序」で次のように述べている。

 読者は三木清の「読書遍歴」といふ文章を知つているであらう。私は本書を書き綴る時、何時もこの文章が念頭にあつた。あの文章は、三木清が、正に読むべき書物を、選ばれた時期に、而も正しい方法を以て読んだことを告げてゐる。だが、私の場合は、手当たり次第の書物を、時を選ばずに、而も専ら焦燥を方法として読んで来たに過ぎぬ。(著作集6、p.362)

 三木清は戦前・戦中の論壇のスターであった。清水は三木(のような知識人)に憧れ、三木のような文章を書きたいと願った。実際、『社会と個人-社会学成立史-』(刀江書院、1935)の文体には三木の文体の模倣の跡が見られる。戦後、三木のいなくなった論壇で、清水は三木の後継者と目されていた。清水は『私の読書と人生』を綴りながら、自分を三木に重ね、かつ二人の気質の違い(三木の古典主義的=自己確認的読書遍歴と、清水のロマン主義的=自己形成的読書遍歴)を意識していた。

 『私の読書と人生』が出版されたとき、清水は42歳だった。42歳という年齢は、社会通念上、自伝の執筆年齢としては少々早い感じがする。事実、「まだ若いくせに、こんな本を書くのは老成ぶった気取りである」というようなことを周囲から言われたそうである。

 あれは今から考えても、かなり不愉快なことでした。確かに、老人になってから自伝的なものを書くというのが一般の慣習でしょう。しかし、私は信じているのですが、自伝的なものを書くことは、年齢とはあまり関係の仕事だと思うのです。(『私の文章作法』中公文庫、pp.182-183)

 私は清水の最初の自伝が「年齢とはあまり関係のない仕事」だったとは必ずしも思わない。「自伝を書くのは老人になってから」という通念は、老年という時期を自分の人生に想定できない者、すなわち自分を短命な人間と考えている者には有効なものではない。清水は病弱な子供時代を送り、「この子は育つまい」と親類の者から言われ続け、長じてからも親しい医者から「君は30歳までは生きないだろう」と言われていた。この病弱な体質は遺伝的なものだったようで、清水の父親は49歳で亡くなったが、それでも4人兄弟のうちでは一番長命であった。また、清水は長男だが、次男は1歳で亡くなり、三男は29歳で亡くなっている。「30歳までは生きないだろう」という医者の予言と、父親が49歳で死んだという事実から、42歳という年齢は清水にとって十分に「老年」であったはずである。その意味では「自伝を書くのは老人になってから」という通念は、清水にとっても有効であったといえるかもしれない。

 とはいえ、ここでは自伝を書くことが「年齢とはあまり関係のない仕事」だったとする清水自身の解釈に従うことにしよう。では、一体何と関係があったのだろうか。

 どうして私は『私の読書と人生』を書く気になったのでしょうか。それを聞かれても、当時は、答えようがなかったと思います。答えは、それから何年か経って判ってきました。後から振返って気がついたのですが、あれを書いた昭和二十四年という年は、第一に、或る偶然の事情かで、私がジャーナリストの長い生活から、なろうと思ってもいなかった大学の教師の生活へ飛び込んだ年です。第二に、これも偶然の事情で、無責任な売文業者から、柄にもなく、平和を目指す政治運動に飛び込んだ年です。大学教授の方は、それから昭和四十四年まで二十年間、政治運動の方は、昭和三十五年の安保闘争の直後まで十三年間ばかり続きました。世間の人たちから見れば、どれも大したことではなかったでしょう。しかし、私自身にしてみますと、あの年、無意識ながら、或る新しい地点に立ったという気持ちであったに違いありません。そして、この新しい視点から自分の過去を眺めてみようという気分になったのでしょう。(前掲書、pp.184-185)

 自伝が人生の転換期に書かれるというのは、ちょうど時代の転換期に歴史への関心が高まるのと事情が似ている。自伝の効用という表現を用いるならば、それは単に過ぎ去った過去を懐かしむということではなくて、人生の転換点に立って、自分がこれまで歩いてきた人生を再認識する作業を通して、これから歩いていこうとする人生の方向を確認するということである。その意味で、ライフストーリーはライフプランニングと表裏一体である。

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2006年3月20日 (月)

立身出世

 「清水幾太郎と彼らの時代」のキーワードの一つは「立身出世」である。

 立身出世とは、社会学の言葉で言い換えれば、社会階層間の上昇移動である。社会的資源(お金、権力、権威、知識、愛情、時間、健康的な環境など人々の欲望の対象となるもの)が社会のメンバーに不平等に分配され固定化されている状態を社会階層と呼ぶ。社会階層は古来から存在するが、近代社会の特徴は階層間の移動が正当化されるとともに、実際に階層間の移動が活発になったことである。階層間の移動は、学校教育を経由して、職業選択や配偶者選択を契機として起こり、その際、地域移動を伴うことが多い。階層間の移動は一人の人間の生涯の中で起こることもあれば(世代内移動)、親と子の間で起こることもある(世代間移動)。人は自身の立身出世ばかりでなく、配偶者や子どもの立身出世も願う。こうして近代社会の人生の物語は立身出世(成功)というテーマをめぐって編成されることになる。「大きくなったら何になる?」という問いは近代社会の子どもたちに固有な問いである。子どもたちは大人から繰り返しこの質問を受け、それに答えることを通して、人生とは何かになる過程であるという感覚を内面化していく。その日その日を漫然と生きることではなく、将来に目標を設定し、その実現に向けて努力することが人生というものなのだと考えるようになる。自伝というものがすぐれて近代の文学のジャンルであることの理由がここにある。

 清水幾太郎の二冊目の自伝『私の心の遍歴』に小学生の彼が「リン」と呼ばれる竹を立てかけておく場所(清水の家は竹屋という商売を営んでいた)に登る場面が出てくる。

 私が子供であったせいか、リンは非常に高いものに思われました。小学校へ入ってからは、時々、このリンの天辺まで登ってみました。或る高さまでは、ギイギイとしなう長い梯子で登れるのですが、それ以上は、リンに縋って登らればなりません。天辺まで登ると、何でも見えます。そして、何という明るさでしょう。正面の小学校の高い建物は目障りで困りますが、少し方向を変えると、平常は仰ぎ見るような建物が、一つ残らず、私の眼下にあります。銀行も会社も大商店もお屋敷も、すべて私の眼下にあります。無数の家々の屋根を越えて、直ぐ目の前に、日本橋の三越が見えます。私は、幾度か、このリンへ登って、快哉を叫びました。黙っていようとしても、明るい叫び声が腹の底から出て来てしまうのです。何でも見えるのです。何も彼も明るいのです。私は、竹屋という商売に大きな誇りを感じていました。(著作集10、pp.238)

 清水の家は昔から竹屋であったわけではない。祖父は旗本であった。その祖父(天保六年=1834年の生まれ)が維新のときに俸禄の奉還と引換にもらった現金を元手に趣味を生かして始めた商売が竹屋なのであった。いわゆる士族の商法というやつで、時代の先を読んだ商売でもなかったから、暮らしは貧しかった。しかし元旗本というプライドだけは高く、清水が生まれたときに着せられた産衣は十五代将軍慶喜が着たものであったという。幼い清水は家に集まる老人たちが「世が世なら、あの子だって・・・・」と語るのを襖越しによく聞いたという。幼年時代の清水の周囲には没落という下降的社会移動の湿った空気が漂っていた。清水はそこから立身出世の学問的形態を志していくことになる。

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